お正月と女子、あとがき(チアズ投稿文)

お正月が終わる。いや、お正月なんて一体どこにあったんだ?みんながゆっくりのんびり昨年の疲れを癒しながら過ごすなか、私は三が日を師走以上に駆け回って過ごした。誰のせいかって、要領よく生きられない自分のせいだ。

今日は最高にネガティブで多方面に失礼でクソほど面白くない文章を書こうと思う。こんな文章はミスiD期間の中で最初で最後にしたい。でもこんな私が存在することも事実だ。知ってほしい。いや、知らないでほしい。本当は小林さんだけ読んでくれてたくさんのチアをくれたらそれでいい。私なんてそんなことを思うようなやつなんだ。みんな目を覚ましてくれ。

これはあとがきのふりをした自分への愚痴である。置いておくので読むか読まないかは自己責任でお願いします。

最初に言いたい。
お前そんな面白くない文章よく最後まで書けるよな。

今までの「私は天才」という発言が嘘だと言うわけでは決してない。ただ、自分の文章を最高に面白いと思うこともあれば、なんだこの文章は?と思うこともある。そんなときは頭の中のぱやちの先生が決まっていう台詞がある。「なん?こりは」

本当にありがたいことにいろんな方に「面白い」「感動した」「濃い文章」「すごい」などという言葉をいただくことがある。それなのにこんなことを言うのは心底失礼だと思うが、私の中にこういった気持ちがあることも隠したくない。そしてあなたの本当に素敵な感想も意見も、否定したいわけではないんだ。信じてほしい。

クリスマスと女子も、お正月と女子も、生活の合間を縫って必死で書いた。クリスマスにあたっては24日の通勤電車内で書くしかなく、永遠に最寄駅に着かないことを祈りながら書いた。すべてスケジュール管理能力の乏しい自分のせい。「お前は時間があっていいよな」ではなく「なんで私はこんなに不器用なんだろう」という悲しみ。そうして出来上がったものを読んだ私の最初の感想は「なん?こりは」だった。

クリスマスと女子も、お正月と女子も、本当に嬉しい感想をいただいた。そしてそれは私も共感できる意見だった。「そうか、確かにそこがいいよね、私もそう思う、ありがとう」と受け止めることができた。でもまだ拭えない「なん?こりは」は小説を丁寧に書けなかった私の未熟さから来ているものだと思う。

設定の突飛さを活かしきれなかった。登場人物の描写が薄すぎた。起承転結の転が軽すぎる、短すぎる。時間を作れないということは作品と丁寧に向き合えないということだ。

クリスマスと女子が選ばれなかったとき、ツイッターとチアズでこんなことを書いた。
「これはお正月に期待されているということだと思うので何も変えずにもっといい小説を書きます、見ていてください」
「基準が他にあれど選ばざるを得ないものを作りたい」
お正月も終わった今、何が見ていてくださいだよ、と思う。もしかしたら本当に期待してもらっていたのかもしれない。だとしたらどうだ。その期待を真っ向から裏切って、「見ていて」と頼んだくせに見せられるだけのものを書かないで、こうしてあとがきと称してグチグチと弱音を吐いている。こんなのってないよ、何してるんだよ。

いいと言ってもらっているのにそんなことを考える私が嫌で嫌でしょうがない。最悪だ。読んでくれた人に対しても、自分の小説に対しても。せっかくこの世に生まれてくれた作品を、素敵だねと言ってもらえた作品を、自分の手で傷つけているような気がして苦しい。書けば書くほど苦しい。苦しくてしょうがない。

未熟で拙い文章を書くくせに、物を書く苦しみだけは立派だな、と呆れてしまう。出来上がる文章のクオリティとその文章に纏わる苦しみがまったく釣り合っていない。それがまた苦しい。「真綿で首を絞めるような」という表現を聞いたことがある。じわじわと追い詰められた私がそれでも書くことをやめないのはなんでだろう。おそらくだけど、もしかしたら私って、文章を書くことが好きなんじゃないか?

文章を書くことで得られるものが好きだ。完成したときの達成感、0.1ミリ単位で育つ技術、読んだときの「やっぱりここがいいよね」という感情、たまにもらえる予想もしないような感想、公開するときのワクワク感、穴の開いたコップに注がれる自己肯定感。きっと私は文章を書くことで得られるキラキラしたものを求めて、一人前にもがき苦しんでは襲いくる承認欲求の波間で息をして、書く、書く、書くしかないんだ。

あまり反応がもらえなかったとき「そんなに面白くないですかね?」と落ち込むのをやめたい。素敵な反応がもらえてもなお「こんなもの」と思うのをやめたい。改善点は改善点であり、良いところは良いところだと、どんな状態のときでも思えるようになりたい。私は賢くないし不器用だし丁寧になんて到底生きられない。そんな私にしか書けない文章が絶対どこかにある。あると信じないと生きていけない。

ネガティブで始まってネガティブで終わらせるつもりだったのに、またなんとなくポジティブな雰囲気が漂ってきてしまった。おそらくネガティブのまま終わることが怖いんだろう。いつだってそうだ、暗い雰囲気から逃げて、怒られないようにニコニコして、いろんな人の機嫌を取ってどうにか暮らしている。「いろんな人」の中心にはもちろん私がいる。私は私に嫌われることが怖い。どうしようもなく怖い。

noteのエッセイやツイッターのポエムを疎かにしてまでこうしてチアズを書くのも、やっぱり賢くはないんだろう。私らしい魅力を伝えていきたいけれど、私らしい私ってどこにいるんだろう。らしさってなんだ。そんな箱に収まった自分を、私は好きでいられるだろうか。

こんなことを書いていいのかということばかり書いている。今まで人からの目が変わることを怖れて、自分からの監視を怖れて言ってこなかったことを、ひとつひとつ言葉にする。ここまでで誰か嫌な気持ちになったかな。ごめんなさい。私の小説に対する自分の目を、疑ったりしてしまっただろうか。本当にごめん。そんなことをさせたい訳じゃないのに、自分の全部を見せることはこんなにも難しい。

私が私の小説をどんな風に思おうと、あなたの感想は絶対的に正しい。変わらないでほしいならこんなこと言うなよという話だがどうか変わらずにその感想を持っていてほしい。見る目なんか変えないでいいよ。私の小説が「面白い」と言われるのも真実で「面白くない」と思われるのも真実だ。拙くて愛おしい、最高の作品であることに変わりはない。
言ってることがもうぐちゃぐちゃだ。頭の中がぐちゃぐちゃなんだから仕方ない。私はこのぐちゃぐちゃと一生付き合っていくんだろうな。上等だよかかってこい。私はどこまでもお前と向き合う覚悟だ。

すっかり忘れていたが、これはお正月と女子の投稿だ。お正月の時期にもがき苦しむ私を伝えようと思ったが、私自身がお正月らしいことをまったくしていないのでテーマが消えかけてしまうのも無理はない。
私のお正月はどこにあったんだろう。1月1日は荷造りをして1月2日はIKEAで迷子になりながら家具を探した。1月3日は本を作って入稿して、1月4日は仕事始め、1月5日はライフラインの申し込みと市役所での手続き。今は市役所帰りにカフェでこれを書いている。DOUTORのカフェモカは最高においしい。これが私のお正月だ。

私の苦悩なんてちっぽけな物なんだろう。文章が拙くて悩むのがうまい私だ、まとめれば一行ですむであろう感情をこうやってダラダラと描写するのも、文章が拙くて悩むのがうまい決定的な証拠だよ。

ああもうなんだこの正月は、なにもめでたくないよ。私の文章が相も変わらずこんな感じなのは忙しさにかまけて初詣に行かなかったからか?手を合わせればなんとかなることか?神様見ていますか。私に文章力をください。私、発想には自信があるんです。力があればなんとでもなります。希望があります可能性があります。だから、文章力をください。

嘘です。神様ごめんなさい。私あなたに文章力をもらってもなにも嬉しくない。

お正月が終わる。本当に終わる。実際あったのかも疑わしいクリスマスと同様に、異様に影の薄かった私のお正月が終わる。そしてこの長ったらしい文章もそろそろ終わる。読んでくれた人いますかね。変なこと言ってごめんね、そしてありがとう、私はあなたのことが本当に大好きです。

うまい締め方も思い付かないが、今日だけは思い付かないままでいたいと思う。お正月と女子にかこつけたバカ長い私の愚痴、小林さんは本当に読んでくれるんだろうか。

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