僕ら虹を待つ中毒者

ノーレインノーレインボーという言葉を見かけた。Tシャツの胸元にかかれたその言葉はあまりにも端的でわかりやすい、誰もが共感できるものだ。調べたらハワイのことわざらしい。No Rain, No Rainbow. 直訳すれば「雨がなければ虹も出ない」。その通りですよ、そりゃあ、と思う。

長く生きていれば苦しいことが確実に起こると思う。もしかしたら苦しいことの起こらない人生もあるのかもしれないが、そうなったら逆に「楽しくないこと」を「苦しいこと」と錯覚しだす気がする。残念なことに、何かしらに苦しみながら歩くことが人生なのかな、と思う。

私はミスiDを受けて、得るものがたくさんあって(これはいつか絶対に文章にしたい)、最高に楽しくて、嬉しくて、満たされて、そしてこんなことを言っていいのかわからないが、すごく苦しい。

いいねの数を気にしてしまうこと。チアの数を気にする自分にうんざりすること。本当にこのやり方でいいのかと悩むこと。どうしたらいい、と路頭に迷うこと。どうしたらいいのいいってなんなのか。何が正解なのか。自己顕示欲に押し潰されて、小説を書くにも根っこには承認欲求があって、読んだ手紙を見られないか、あの人に見つかって大変なことにならないか、言ったらいけないことだったんじゃないか、傷ついてないだろうか、フォローとフォロワーが同時に減ったな、最近いいねされないな、私はあの子に、嫌われたんじゃないかな。

書いてみて驚いた。「苦しい」という気持ちを言語化したのは初めてだ。そしてここに書いていないことだって書こうと思えばいくらでも出てくる。なんだ、ちゃんと私は悩んでいるのか。

誤解されたくないので言うが、心配されたいわけではない。そして私は今、苦しみたくて苦しんでいる。それでも絶対に、絶対にこの場所に立っていたくて苦しんでいる。この場所は少なからず苦しみがあって成り立つ場所だと思う。私の苦しみを「ない方がいいこと」にはされたくない。そうだ、されたくないんだよ。

虹を見たことがあるだろうか。そう、あの雨のあと光の具合でたまに見える、七色のアーチのことだ。

生きていれば虹を見る機会があると思う。そして多くの人はそれを目にしたことがあるだろう。虹って、見つけたときなんであんなに嬉しいんだろうな。大きいからだろうか。きれいだからだろうか。雨の終わりを祝うような虹は、見つけたら誰かに教えたくなるし、写真だって撮りたくなる。

生きていれば確実に虹は出る。でも、その確率はあまりにも低い。私たちは一度見た虹が忘れられなくて、またあの大きさやきれいさを感じたくて、見つけたみんなで笑顔になりたくて、止まない雨に打たれながら虹がかかるのを待っている。雨に打たれていればいつか風邪を引いてしまう。それなのにずっとずっと虹を待つのは、あの喜びの象徴のような虹にとらわれているからだ。

中毒のように虹を追い求めて歩くことを、滑稽だと笑う人もいると思う。そのとらわれた姿に恐怖を感じる人もいると思う。だからなんだ。私は、私たちは、本当に滑稽か?

誰かが自分を笑おうと、誰かが自分から距離を置こうと、私だけは自分を笑ってはいけない、恐れてはいけないと強く思う。そう思わないとやってられない。いつか虹がかかるのはわかっている。たまにかかる虹を苦しみながら待つことは、おかしくもなければ綺麗事でもない。ノーレインノーレインボー、そんなこと、私たちははとっくにわかっているんだよ。

私はこの雨の中、やれることをやりたいと思う。死なないことを目標に、虹がかかるのを歩きながら待とうと思う。そんなふうに歩いていたら、いつの間にか一緒に歩いてくれる人ができた。傘を差し出してくれる人がいた。一人だったスタート地点から、ずいぶん遠くまできたと思う。私は一人じゃないなんて絶対に言わない。私という人間はこの先もずっと一人だ。でも、同じ方向を目指してくれる人が何人もいる。みんなで虹を待ちながら、たまに談笑して歩けることが、今はこんなにも楽しい。

場違いな虹はきっとかかるよ。ノーレインノーレインボー、僕ら虹を待つ中毒者。

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