アイドルという祈り

アイドルだったことがある。あの時期の私を本当に「アイドルだった」と言っていいのかはわからないが、アイドルを名乗っていたことなら確実にある。

アイドルが好きでアイドルをやりたくて、何回かオーディションを受け(記憶が正しければここにミスiD2015も入っている)すべて書類で落ちた私は、何を思ったのか勝手にアイドルを名乗り始めた。一番最初のブログのタイトルは「アイドル始めました」。持ち歌も何もない、1人のアイドルが誕生した瞬間だった。

活動内容はブログを書くだけ。アイドルと言いながら文章だけを毎日綴る、よくわからない活動が始まった。歌詞を書いた。日記を書いた。型紙を買って改造し、衣装を作った。そのうちファンだと言ってくれる人が増え、ライブにも誘われるようになった。
しばらくして私は体調や環境の変化を理由に、成り立っていたのかもわからないアイドルをやめてしまった。

あのとき初めてのライブに来てくれた人たちは、歌も歌っていなければ、踊りも公開していない私の何を見てチケットを買ってくれたんだろうかと考える。日記という名の文章と、衣装作りの進捗を載せたブログの、どこに魅力を感じてくれたんだろう。ひとつだけわかることは、やっぱり私は言葉を使っていたということだ。

出発点は文章だった。そして最後も文章だった。

最後のブログの文章を、本をよく読む友達が褒めてくれた。まったく意識していなかった「言葉」をほんのり意識し始めたきっかけがそれだ。そうして私は初めての小説を書いた。たった4ページにすっぽりと収まる物語、今思えばそこがスタートだったのかなと思う。

私は今、言葉を使って自分と戦っている。みんなが使う言葉で、どこまで自分の形を再現できるか奮闘している。一回目の復活戦で「言葉でも人の気持ちは動く」と声を大にして伝えた。今考えてみれば、その言葉は私の経験から来たものだ。ブログだけを一生懸命書いていた私にファンだと名乗ってくれる人が集まったように、言葉にはやっぱり、力がある。

ミスiDエントリーシートの希望する活動の欄で、戸惑うことなくアイドルを選んでしまうくらい、私はアイドルに執着している。細かいことは割愛するので、過去に書いた「アイドルという呪い」というnoteをぜひ読んでほしい。

ミスiDに出て、かけてもらった最高の言葉がいくつもある。「小林さんの言うアイドルの定義なら、無限ちゃんは私のアイドルだよ」「顔を出していなくてもアイドルでした」長い間ぐるぐると色々なところを彷徨い続けた私はもしかしたら、本当にもしかしたら今、今までで一番アイドルに近い場所に立てているのかもしれない。

地下アイドルをやめたときの文章を褒められて言葉を意識するようになったように、ゴールはゴールであると同時にスタートだと思う。もし仮にアイドルに近い場所に立てていたとしても、それですべてがハッピーエンドというわけではない。私はこれからもきっと文章を書いては出来や反応に一喜一憂して、アイドルへの執着の火も消さずにオーディションの年齢制限に肩を落とすんだろう。

私はここで満足しない。満足したら終わりだとも思うし、満足したくてもできない現実がここにある。果てしない自己顕示欲と承認欲求をひとつも取りこぼさないように抱き締めて、ゴールとスタートを繰り返しながら一歩ずつ歩いていきたいと思う。

あのとき私を応援してくれた人たちのハンドルネームを7年ほどたった今でも覚えている。突然現れて突然やめてしまったことを、私は今どんな言葉で謝れるかなと考える。一人一人に謝ることは難しいし、おそらく相手もそれを望んではいないだろう。だから私はせめてみんなに恥じない生き方をしたい。アイドルになってもならなくても、アイドルばりに輝く自分でいたい。そんなふうに輝く自分の、一番のファンだと名乗れるようになりたい。

アイドルは私にとって呪いであることに変わりはない。でも同時に祈りでもある。祈りが神と繋がる手段だとするなら、ぼんやりとした私の神様はアイドルを心から求めているような気がする。呪いは解けないし、祈りは消えない。私が一生アイドルになりきれなくても、アイドルはたぶん私の一部だ。

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