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死か、苦しみか。

世の中に関心がある。社会問題に取り組みたい。世界を今より良い場所にするために、世の中の仕組みをもっと知りたい。

自分がこのように思うのは自分のためだ。

こう言うと理解されないことが多い。表現の齟齬だと思われることさえある。もちろん、人が何かをするのに明確なモチベーションがあることなんてほとんどない。目的なんて場当たり的だし、日によって、同じ質問への回答は全く変わる。人間はそんなものだと思し、それでいいと思う。近代合理主義なんて夢のまた夢だ。

戦争や貧困、自然災害、事件事故のニュースを見て、胸が痛くなったり、頭がクラクラしたり、泣きたくなったりすることはある。それは他人が享受できたはずの幸せを何かに奪われている状況が嫌だからだ。

それでも、自分が知ることさえ辛い社会に働きかけたいと思うのは、「それが自分のためになるから」という理由が一番大きいと思う。

「自分のために世の中に目を向けよう」という何となくの結論とその含意を説明するために、高校時代(17~18歳の頃)の留学時の話から始めたい。

経験

心配性な自分は挑戦を恐れながらも、なぜか留学プログラムという冒険に飛び込んでしまっていた。大して日本のことも知らないままアメリカに行った自分は、5歳の男の子と暮らすシングルマザーの家に10ヶ月ステイすることになった。自分と違い、パワフルで感情をそのまま表に出すマザーは、自分をよく旅行に連れて行った。留学が始まって一か月もしないころ、初めての旅行としてキャンプに行くことになった。説明すると長いが、ホストファミリーを含めた大人二人、高校生三人、子供二人というメンバーで行くことになった。キャンプ場は車で数時間の山の頂上にあった。山の頂にある平地は全て森におおわれており、電波は通じず、ライフラインは何も通っていなかった。森の中を走り、周囲で唯一文明を感じさせたアスファルトの道路も、キャンプ場に近づくとなくなった。家からキャンプ場までの道や車内の雰囲気、会話の内容、キャンプ場の在り方などの全てから”アメリカ感”がビシビシと伝わり、少し圧倒されていた。
キャンプ場では特にすることもないため、高校生三人で回りを散策したりボードゲームをしたりしていた。するしかなかった、とも言える。名前は既に忘れてしまったが、脳筋っぽさの漂う男の子(B)とあまり考えの読めない女の子(G)と一緒だった。BとGは同じ高校に通っており仲良しだったので、放っておけば勝手に色々しゃべっていて、自分は無理に話す必要はなく気楽だった。自分は、彼らとそこで初めての射撃経験をすることになる。
マザーではないほうの大人は銃をコレクションしており、拳銃やライフルをいくつか持ってきていた。それを自慢がてら撃たせてくれるとのことだった。アメリカでは、大人になる段階として、親から銃の撃ち方を教わるという風習がなんとなくある。銃が好きな大人は、風習であることをいいことに義務感を装って優越感を満たしている。日本でも似た光景はよく見る。
そして、これにはアメリカ国内でも賛否両論あり、日本で言う原発問題のように、右派左派を分類する泥沼の政治問題化している。人の生死に直接かかわる危険性を持つものであり、そもそも銃を撃つ経験自体がトラウマになる子供も少なくないので、感情に触れやすいテーマなのだ。
話が逸れたが、そんなこんなで三人は、銃を代わりばんこに撃ちながら感想を言いあった。腕の細い自分はコントロールは全然できないし、キックバックで体が揺らされるが、こんな体の自分でも撃てるのか、という感想を持った。Bは自分用の小型ライフルを持っていたし、Gはさほど関心がなく適当に楽しんで終わらせようとしているようだったので、二人もそれほどの衝撃的な経験というわけではなさそうだった。心配性の自分としては、無事に射撃経験ができて良かったと感じ始めたころだった。
自慢し終わった大人がテントに戻り、三人でつれづれなく弾を消費していたとき、Bが小型ライフルをすっと木の上に向けて一発撃った。すると、それまで聞こえていたが気にしていなかった雑音が止み、何かがゆっくり落ちてきた。それは小鳥だった。全員が、近くの木の上に小鳥が止まっていることは認識していたし、銃で撃つことを想像していたと思う。しかし、それを本当に実行するのは全く次元の違うことなはずだった。その小鳥は、スズメよりは大きいが、カラスよりは小さかった。自分が視線の中央に捉えたときには、紙が床に落ちていくように、自分の運命を手放したように、ひらひらと左右に揺れながら落ちていた。鳥はなるべく少ない体力で飛ぶために体が軽くなっていると聞いていたが、それは本当なんだと思った。自分たちの頭上右側に留まっていた小鳥は、流れるように左側の地面に落ちていった。三人で恐る恐る近づくと、姿勢は憶えていないが、悲しげに倒れていたことは憶えている。鳥の色は憶えていないが、生命力を感じさせる色だった。そして、鳥はまだ、死を待ちつつも生きていた。

Bに聞いた。なぜこんなことをしたのか。本人曰く、当たるとは思っていなかったらしい。確かに、Bは射撃が上手くはなかったし、見上げる角度に撃つことは難易度が高い。自分が外すことを見越していたというのも分かる。しかし、それでも小鳥という生物を狙って撃ったのは確かだ。
落ちて倒れた小鳥を前に、ほとんど言葉を交わさずとも、殺してあげようという合意を得ていた。明らかに苦しんでいる小鳥は、苦しみから解放されるべきだと自動的に考えていた。流れる血が微かに見え、さらに自分の気持ちを急かした。自分は、既に大きめで手頃の石を探し、手に取っていた。そこでBは自分が銃で撃つと言い出した。罪滅ぼしのような意味合いも持っていたのだろうし、一種の儀式としてBにその役目を譲った。小型ライフル用の小さな弾を一つ取り出し、ガチャガチャと装填し、1メートルもない至近距離から射撃姿勢を取った。

そして、、、外した、

三人は一度軽いパニックを起こしていたが、それが再度始まった。特にショックを露わにしていたGは、焦りや戸惑いが入り混り、全身からそれを伝播させるシグナルを出していた。落ち着こうとしていた自分は、Gの感情に飲まれないないよう無意識に目を合わせないようにしていたと思う。今思えば、Bも軽くパニックに陥っていたのだろう。でなければ、あの至近距離で的を外すことはない。きっと色々な思いや私たちの視線で手が震えていたのだろう。

自分がやるしかなかった。自発的なものではなく、自分なりの消去法だった。手に持っていた石の平らな面を下にして、優しく小鳥の頭の上に置いた。若干の躊躇を表現しつつも足を乗せて一気に体重を込めた。具体的な記憶はない。感触を憶えているわけでもない。でも、その状況の印象ははっきりと脳内の残っている。柔らかさの中に、軽い芯がある感じ。砕く感触やグチャという音を感じていたのかもしれない。それは何かを殺したという、死を身近に感じた経験への感触として記憶された。死の柔らかく、軽い芯のある感触。

鳥は、さっきまで鳥の上に留まって鳴いていたのに、数分後には自分の足の下で頭を潰されている。どうやら死は突然にやってくるものらしい。殺す経験と、その経験への印象と、死は突然にやってくるという理解が一つになる。隣接する死の柔らかく、軽い芯のある感触

自分の中の様々な感覚と知識が、一つのニュアンスにまとまった確信があった。

二択

元来、鳥が突然撃たれたように、死は急速にやってくるものだった。私たちは平穏な世界に生きているかのように見えるが、私たちの体は脆く、死は近くにある。そして、死か苦しみか、という小鳥に向けられた問いは私たち自身にも向けられるものだ。小鳥と違うのは、人間は将来を予測し、自分で選択することができるということだ。

今は選択をする必要がなくとも、今の世の中のままであれば、いずれ選択をせざるを得なくなる。私たちはどんな将来を生きていくだろうか。多分、結構暗い未来が待っていることは、大体の人が薄々気付いている。どれぐらい暗いかは置いといて、少なくとも今よりは辛い。

環境問題がより悪化する中で人口が増えれば、現在の社会構造は意外と簡単に破綻する。環境問題も、人口増加も、それ単品で大問題なのに、それがダブルパンチで来れば、結構大変なことになる。それに、民主主義が衰退すれば専制主義(ナショナリズム、コミュニズムなど)が元気になって国家間戦争は格段に起こりやすくなる。社会の出来事は、相互作用の中で加速度的に進行する。そしてそういった悲観的に思えるシナリオも、数十年以内に私たちの住む街で起こる確率は十分にある。というか、その可能性が高いという未来予測は多い。持続可能性を追求している今の社会は、持続可能じゃない(今のままだと、将来のどこかで世の中がぶっ壊れる)から持続可能性を目指している。特に東京について言えば、首都直下地震や富士山噴火も数十年以内に高い確率で起こる。

私たちに暗い未来が待っているのだとすれば、必ず死か苦しみかの二択を選ぶ瞬間がやってくる。瓦礫に埋もれてる時かもしれないし、空腹で自分の部屋の中にいる時かもしれないし、徴兵制が始まる時かもしれないし、どこかで強姦に追われてる時かもしれない。今の世の中が続けば、私たちはその選択を突きつけられる。

死と言うとナイーブに聞こえるかもしれないが、安楽死のような人生の苦しみを減らすための合理的な選択肢である。小鳥が感じた本当の苦しみを前にすれば、それも合理的な選択肢に見えてくるだろう。

回避

自分も「私たち」の一人である以上、世界が平穏でなければ辛い世界で生きることになる。それを回避する方法は、今から世の中をより辛くない場所にすることである。暗いと予測される未来をできる限り明るく照らすことができれば、最悪の二択を回避するか、苦しみを小さくすることができるはずだ。

誰かの苦しみは、いずれ自分の苦しみになる。今、誰かの苦しみを減らすことは、将来の自分の苦しみを減らすことにつながっている。今、戦争で苦しんでいる人のために戦争を止めようとすることは、将来の戦争の可能性を減らす。今、環境問題を減らすために緩和策・適応策を取ることは、将来の環境問題を減らす。今、貧困問題で苦しむ人を減らす政策指針を選ぶことは、将来の貧困を減らす。今、何かのために何かを主張することは、それを聞いた人による次の出来事に対する反応を変える。

今も、自分がこれを書いている瞬間も、誰かがこれを読んでる瞬間も、選択をした人は確かにいる。既に選択して、この文章を読んでる人もいるかもしれない。その人たちに寄り添い、難しい問題の答えを探すことで明るい未来の可能性が高まる。フランスの思想家であるジャック・アタリは、この考えを「合理的利他主義」と呼び、地球規模でのその必要性を説いた。

この選択は実は常に目の前にある。しかし、苦しみに直面した時、自分の状況に絶望した時などにようやくそれを理解する。自分は幸運なことに、僻地で鳥を殺すことでそれに気づいた。なんと幸運なんだろう。

そしてさらに、自分はまだ苦しくないし、絶望するほどの状況にいない。この上なく幸運だ。

しかし、幸運にも限りがある。その幸運を使って今の誰かのため、将来の自分のために世の中を良くしないといけないのだ。

貴族

自分がこんな結論に至ったのは、高校時代の留学や大学での勉強という、誰でも出来るわけではない経験に基づいている。自分の家は多分、まあまあお金がある方だ。親の年収なんて聞いたこともないから詳しくは知らないけど。

嫌な言い方をすれば、自分は温室育ちだし、ブルジョワだし、親の脛齧りだし、経済格差再生産の最前線だ。

世の中が、個々人の自由を制限しなければいけないほどに不平等であることはジジババでも、金持ちでも、貧乏でも、働き盛りでも、犯罪者でも、政治家でも、アイデンティティクライシス真っ只中の人でも、兵隊でも、賢い五歳児でも、みんな大体理解している。「親ガチャ」がトレンド入りすることを考えれば当然だ。

それでも、その不平等を乗り越えて自由と平等をできる限り手に入れるため、私たちは同じ時を過ごす人間として協力し明るい未来を目指すことができるのだ。

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