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メタ的であることの安心感

メタ的とは、自分が置かれている状況を第三者的な視点でとらえることだ。

ドラえもんでは、たまにメタ発言が出て面白い。

私たちは、メタ的であることによって無意識的に安心感を感じることがあるように思う。

強い雨の夜に自分の部屋から窓の外を眺めていると、なぜか大きな安堵を感じる。夜に、雨という空から水が降ってくる謎な現象が起こると、私は町に怪物や獣がうごめいているような雰囲気を感じる。それらから家が守ってくれているように感じるからではないかと、私は考えている。

すぐ隣に危機的な状況があると、私たちは逆に安心することがある。

教室で誰かがイジめられていたら、どう感じるだろうか。私はまずはそれを止めないといけないという道義的責任を感じるだろう(実際に止められるかは別として)。そして次に、安心がやってくる。自分はうまく立ち回り、標的にされていないという安心である。

これは、隣にある危機的状況によって相対的に自分が置かれている状況が良いものとなり、満足感に似たものを感じているということだろう。

しかし、このロジックでは説明できないこともあるように思う。

大学の最寄りの学生で混雑した駅のホームで、二人組が「めっちゃ人いるね」という話を誇張してずっと話していた。

または、年越しのスクランブル交差点を多くの人がスマホで動画を撮りながら渡っていた。

これらは、自分がその集団の一部ではないと示したいという無意識的な感覚の表出であると考える。その状況の第三者であるということを、自分がその状況を俯瞰しているという行為で示すのだ。


しかし、実際のところ、メタ発言や行動をしたところで、自分がその状況の一部であることは変わらない。単なる発言や表層的な行動では何も変わらない。

社会問題について語るとき、その問題が改善することを祈る人が多くいる。あたかも、自分はその問題からは完全に部外者で、眺めることしかできないかのように。あたかも、自分は月に住んでいるかのように。

私たちは、その状況を問題視しているのであれば、表面的なメタに逃げるのではなく、行動に移さないといけない。そうではないと、隣の危機的状況はいずれ、あなたをメタ的な思考ができないほどに苦しめるだろう。

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