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わたしのM-1 2023(日記)

「もし何もかもが手に入るとしたら、何を望むか?」
これは当時の私が夢の中で、「民王(2015年、テレビ朝日)」出演時の菅田将暉に言われた言葉だ。

この頃のスダマの全てが好き


私は少し考えて「勉強しつづけること」と答えた。富も時間も検討はしてみたけど、究極はあっても手に余るものに思えた。その時私には夢の中ながら明確なビジョンがあって、それは幼い日に見たセイシェルのプライベートビーチ、きらきらの青空、白い砂浜、光る遠浅の澄んだ海。インフィニティチェアに寝転がり、穏やかな潮風を仰ぎながら、私は「我が闘争」を原文で読むのだ。
異様にはっきりした夢で、天国があるとしたらこれだと思った。いまだに目を閉じてはその景色を思い浮かべる。ここが私のゴールだ、と。


本年のM1を見て、どうして私がこんなに勉強が好きで、知的探究心に溢れているのかがわかった気がした。
美しいものを美しいと感じるため
面白いものを面白いと感じるため
ただそれだけのことだったのだ。


美しいものは、なぜ美しいのか。
面白いものは、なぜ面白いのか。
どうしてこんなにも心が動くのか。
その成り立ちと理論──そしてそれは時に自分の中にしか答えがなかったりもする──を掘り下げるそのことこそが、生きるということなんだと私は信じている。
心の臓が動いていても、心が動かなくなったら、私に生きる意味はない(あくまでも、私の場合)。
その時、その裏側にあるのは人間の叡智。言語であり、文化であり、歴史である。美しさ面白さは、その背景にある構成を理解すればこそ、解像度高く読み取ることができる。
だから私は生きている限り、知れる限りのことを知りたいと思って走り続けたいのである。

真空ジェシカ

真空ジェシカという漫才師は、元よりそのネタのつくりがハイコンテクストで前提知識を必要としている。
その排他性がゆえに大衆ウケの難しいエンタメであることが評価されづらいポイントになっている(とはいえそこまでニッチなネットミームは使われていないので、オタク入門編くらいではあるのだけれど)。
もちろん私もそれが随一とは思っていない、頭が空っぽでもわかる面白いギャガーに頭を殴られたような衝撃をくらうこともある、
それでも、演者と見る人のエクスクルーシブな関係が構築できるというのは、すごく崇高な文化であると思ってしまう。
ゆえに、私はこの手のエンタメをかなり愛している。もっと知りたい分かりたいと感じる。真空ジェシカに限らず、ありとあらゆる感性に触れ、人や自分がそれをどう受け止めて解釈し、面白さを見出すのかに興味がある。
そして、そんな面白さを紐解くための知識に溺れて死にたいと思っている。

ヨーロッパ

ヨーロッパが好きだ。あれは歴史と文化の累積だからだ。アメリカにあの面白さはない。
神聖ローマ期の分裂を感じる都市に行くと一目瞭然で、厚みが目で肌で感じられる。
建築や街並みはそのインテリア性の高さだけでなく、時を経て今鎮座しているという事実がより鮮明に美しさを浮き彫りにしていく。
旅行する時、その土地や建物、都市のことを理解して訪れるのとそうでないのとでは、心に残る風景が180度違うものだ。要は人生とは全てがそれなのだ。
そして、豊かな心象風景を集めて刻んでいくことだけが人生であり生きる意味だと思っている。

外国語

外国語を学ぶ意味はないと言われ始めて久しい。翻訳技術は向上し、自分の脳みそにわざわざそのアセットを導入する必要がなくなったからだ。
そりゃそうだろう、ただ必要最低限の意思疎通ができればいいなら言語など学ぶ必要がない。
そのアプローチは極めて見当外れだ。すべての思考はその言語に依るから、その人その文化を真に理解するためには言語を理解するしかないというだけの話である。
言語は表現の土台である。あまり英語が得意ではない私にだって、「今言いたいことって英語のあの表現の方がしっくりくるんだけどな」ということがある。その機微を知り思想を知り文化を知る、そこにスマホで翻訳できるからうんぬんという話は、全く関わってこない。
深いインプットがないと真髄には触れられないから、咀嚼のために私は言語を知り、意味を嚥下していく。
そして、表現のツールを増やし自由に使っていくこと(=アウトプット)こそが私の生活に彩りを与えてくれると知っている。



自然界に数列があるように、家も街並みも計算されてつくられているように、PCやスマホが演算のおかげで感覚的に使えるように。
映画やアニメや漫才が、私のモノローグが、文字で紡がれていくように。それが誰かの人生を変えるように。
美しくて面白い(かつかなり便利な)世界は「知っている」人がつくっている。「知らない」人はそれに便乗して消費者として生きることしかできない、私はその生を楽しいとは思わない。

だから勉学が嫌いな人の気持ちは全く分からない、そもそもどうして勉強しなきゃいけないの?なんて思ったことは幼稚園の頃から一度たりともない、この世界に生まれた時点でこの世界を理解したい欲求しかない。
知らないことが減ることはエクスタシーだった。

ただより深く知りたいだけ、人は私は、なぜこんなに美しいものに心惹かれ、面白いものに心かき乱され、泣いて笑って前を向いていくことができるのか。
高尚な哲学もくだらないエンタメも、誰かに寄り添い背中を押せるなら、それが価値なのだ。
そういうものにできる限り多く晒されて擦り切れて剥き出しになって死にたい。


くるまくんの才に魅せられたので、今からでも遅くない、私は私のM1を走り切るために最大限努力してラストイヤーを迎えよう。



※かなり東京外国語大学にいそうな人材の文章になったので、やはり一橋の社学に落ちたのは正解だった、と言えるでしょう。私の人生には正解しかない

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