決戦! 長篠の戦い その17

前回からの続き(新田次郎著 「武田勝頼」より抜粋)

 『伊勢長島の本願寺派宗徒が織田信長の総攻撃に会って壊滅同様に立ち至ったという報告は、武田の陣営にかなりの衝撃を与えた。
 (やはり、真田昌幸や水軍の将小浜景隆の言を入れて武田水軍を伊勢湾に派遣すべきだった)
 と勝頼は思ったが、後の祭りだった。
 「長島を見殺しにしたのは残念だった。しかし、ただ手をこまねいていたのではない。その間に次の作戦の準備をしていたと思えばあきらめもつく」
 勝頼は側近に対して強がりを言ってみせた。御親類衆の反対に会ったがためにこうなったのだというような、嫌味は言わなかった。彼も武田の統領としての立場をよく知っていた。

 蒸し暑い夏の最中(さなか)に、躑躅ヶ崎の館にちょっとした異変があった。駿河国から女駕籠を守って三十人ほどの一行が到着したのである。女駕籠には小笠原信輿の娘の和可が乗っていた。小笠原信輿は元高天神城の城主小笠原長忠の同族である。小笠原長忠が高天神城を武田方に開け渡し、その代償として駿河国富士下方に一万貫の領地を貰ったとき、長忠と共に下方へ移った人である。小笠原一族の中では豪勇の名が通り、和可は麗人の名が高かった。

 日を選んで勝頼の陣所に和可が連れてこられた。
 「おお、そなたは・・・・」
 勝頼は和可を見て、呆然自失の態であった。高天神城攻略作戦を、織田、徳川連合軍誘い出しに転じようとしての長陣だった。この間、女とはいっさいかかわり合いがなかった。だから和可が美しく見えたのではなかった。勝頼は彼女を見て、すぐお阿和のことを思い出した。お阿和は、山家三方衆の奥平久兵衛の娘で奥平貞昌の許婚者であった。人質として、躑躅ヶ崎の館にいたころ、勝頼に見初められ、側室に求められている最中に、奥平一族の謀反(むほん)があった。お阿和はそれを聞いて自害したのである。和可はお阿和とよく似ていた。お阿和が一段と美しくなって再来したように見えた。
 そなたは・・・・と勝頼が声を掛けたとき、和可は、勝頼の眼の中に引きずりこまれそうになるほどの輝きを見た。いけないと自省しても、ずるずると牽かれて行きそうだった。
 武田の統領と言われている人だから、さぞかし、穴山信君を上廻るような怖い相貌(そうぼう)をした人だと思っていた。それが全然違っているのである。勝頼は若かった。鼻筋が通り、切れ長の大きな眼で、男としては幾分か口は小さいほうだったが、凛呼(りんこ)と引きしめた口許は頼もしげだった。太い眉がびくりと動いた。
 「和可と申すのだな、年齢はいくつだ」
 と勝頼が訊いた。
 「はい、十六でございます」
 和可の言葉は震えていた。権威者からの言葉に震えたのではなく、貴公子然とした美男武将から声を掛けられたので震えたのであった。
 「戦(いくさ)は嫌か」
 和可はちょっと驚いたような顔をしたがすぐにそれに応えた。
 「はい、戦は無いほうがようございます。ただ・・・・」
 「ただ・・・・どうした」
 「戦争があったから、勝頼様にお目にかかることができました。和可は心から喜んでおります」
  これは賢い女だ。そして気の強い女だと勝頼は思った。これだけのことを、こういう場所ですらすら言えるのは並みの女ではない。しかも天女の美を備えている。
 勝頼は欲しいと思った。こういう女に、強い男の子を生ませたいと思った。勝頼には長男の信勝の他、男子がなかった。お福、美和の二人の側室にそれぞれ、真樹(まき)そして於徳、貞の三人の女の子があったが不思議に男の子が生まれなかった。この点は信君とよく似ていた。
 「古府中に参られよ」
 と勝頼は言ってしまった。なにか顔がほてって声が上ずっているような気がした。和可に自分の心をさとられはしないかと思った。
 和可は小さな声ではいと答えた。その瞬間彼女の運命は決まっていた。

 古府中に来た和可は館の中に局(つぼね)を貰って、勝頼の第三番目の側室となった。
 勝頼は和可を熱愛した。毎夜のように和可の局に通った。
 高遠以来の老女の長池が勝頼に言った。
 「お館様は、和可殿を可愛がられるのは結構ですが、たまには他の局へも足を運ぶようにお気遣いあそばしたほうがよろしいかと存じます」
「お福や美和が嫉妬(やきもち)をやいておると申すのか」
「やかないと言えば嘘になります。しかしお二人とも心ができておりますから、それを表面に出すような、はしたないことはいたしません。しかし心の中ではせつなく思っていることは事実ですから、そのことをよくお察しになって、適当におはからいにならないといけませぬ」
 勝頼は長池には勝てなかった。女たちのことに関してはよく分からないし、また深入りすべきではないと家臣たちにも言われていたから、
 「では今宵からそのようにしよう」
 と言った。
 勝頼はその夜、お福の方の局を訪れたが、四半刻(三十分)もすると、その局を出て、さっさと和可の方の局へ行ってしまった。
 「申し上げたいことがあります」
 次の夜、勝頼が奥へ行こうとするのを老女長池が鈴の口で待ち受けていた。またかと思ったが素通りはできなかった。
 「お館様のなされ方に、私が口をさしはさむことはまことにおそれ多いこととは存じますが、武田家のために敢えて申し上げます」
  老女は膝を進めながら、
 「先代様にお仕えしたことはございませぬが、先代様にお仕えした女どもの話を聞きましたところ、先代様は局に入ると、次の朝まではそこから外へはお出になりませんでした」
 老女は勝頼の顔をじっと見詰めて、
 「ところがお館様はいままで局にお泊りになったことはほとんどございません、長くで半刻(一時間)、普通は四半刻で局をお出になり、お寝間にお帰りになられます。人それぞれに流儀はございますが、夜の道の流儀は一つでございます。即ち深く交わることによって良き子が得られるという、定め以外にはなにものもございません・・・・」
 これには勝頼も参った。そう言われてみれば確かに浅い交わりだった。彼は局におもむき、側室たちの出迎えを受け、そして床に伏す。火のようにはげしい交わりが、ほとんど一方的に行なわれて、そして一方的にそれが終ったとき、彼は側室たちの傍らを離れるのである。営みとはそういうものだと考えていた。誰も教えてくれる者もなかったから、それでいいのだと思っていた。相手が燃えだしたころ、こっちの火が消えてしまうことがあった。そういうときは可哀そうだと思った。だからと言って、相手の身を主体と考えての交接はあり得なかったし、女は男のためにのみあるものと考えている彼にとっては、女に対する思い遣りというものがほとんどなかった。
 「深く交わるということがよく分からぬ」
 と勝頼は言った。
 「一夜を同じしとねでお過ごしになれば、すぐお分かりになります。はじめのうちは煩わしいとお思いでしょうが、やがてそれがほんとうの交わりだということが分かるようになります。今宵からはぜひそうなさいますように」
  勝頼は老女の言を入れた。
 その夜は美和の方の局に行った。
 「今宵はこの局をお出にならぬように」
  美和の方が言った。長池の手がこちらにまで回ったなと思った。勝頼はあきらめの眼を閉じたが、近くの局にひとりで待っている和可のことを思うと、落ち着けなかった。美和は勝頼の気持ちを察した。
 「しようのないお館様だこと、心はここになく和可殿のところにあるのだから、これ以上はお引き止めできませんわ」
 美和は勝頼を和可の局に送った。』

その18へ続く

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