決戦! 長篠の戦い その18

さて、ここまで新田次郎氏の小説「武田勝頼」を中心にみてきたが、今回は違う資料にて検証していきたい。いよいよ長篠の戦いが近づいてくるわけだが、そもそも武田軍が設楽ヶ原に進撃するきっかけは何であったのだろうか。まずはその手前の三河へ進行した時点からみていきたい。
以下内容は下記の資料から多くを引用している。そのまま抜粋した個所は『』でかこってある。
引用文献:(シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い )

・勝頼の三河侵攻の理由
 ①信長による本願寺攻め
 ②大岡弥四郎事件
 
①信長による本願寺攻め
 『天正三年(1575年)4月におこなわれた信長による河内高屋城(大阪府羽曳市)および大坂本願寺攻めを見てゆく。長篠の戦いを述べるという目的の本書にて、なぜ本願寺攻めを取りあげるのか、と不思議に思われた人がいるかもしれない。それは、このときの本願寺攻めが、長篠の戦いに至る動きを誘発したからにほかならない。また、長篠の戦いにおいて、なぜ織田信長があのような戦い方(柵を設けその内側から敵に向かって鉄砲を放つような戦法)をしたのかを考えるうえでも、直前にあった本願寺攻めの存在を無視てきないと思うからである。』とある。
 信長は上洛して間もない三月に配下の軍勢を河内・摂津方面に派遣し、淀川の堤を破壊、両国の田地を水損させている。四月の時点では『大軍を動員して攻め入ったわりには、本命である本願寺には攻め至らず、河内方面の平定と本願寺周辺の苅田でもって兵を徹した。---中略---- 苅田は戦国時代におけるいくさの重要な作戦のひとつであり、兵糧攻めの一種であると同時に、敵の士気低下を目論む行動であった。』
 また、この時期には天正三年の秋ごろに大阪本願寺を攻めるための付城(つけじろ)構築の命を出している。つまり、四月の出陣は秋に予定されていた本格的な攻撃の下準備だったようだ。
 『本願寺とむすんだ河内にある三好方の城をまず落とし、苅田によって敵に打撃をあたえ、やや中長期的な構えで敵の戦力低下をねらう。これが、このとき信長が考えていた最低限の達成目標だったのではあるまいか。そう考えると、信長がこの時点で武田氏とのいくさを想定しているようには思えない。』
 信長としては秋に本格的に大坂本願寺を攻撃する予定であった。そこで本願寺を完全に立ち直れないほどに打撃を与えたかったに違いない。そうなると、信長としては予定していなかった五月の長篠の戦いにおいては極力兵を失わずに戦い、秋の本願寺攻めに戦力を温存しておきたかったのであろう。そのため、長篠の戦いの当初の予定としては、とにかく防戦して武田を引き揚げさせるだけでも良かったはずだ。あの柵と大量の鉄砲、三万の人員による戦い方は武田に勝つためではなく「負けない」ための信長の秘策だったと考えることもできる。

 いっぽう武田の動きだが、この信長の動きに反応して勝頼は四月二八日付けで本願寺方の杉浦紀伊守(すぎうらきいのかみ)に書状を出している。その内容は、「このところ信長が上洛の上で、大坂本願寺へ攻撃を仕掛けたということなので、第一に本願寺を救援するための出陣である」と三月下旬における出陣の理由を述べている。
 『この信長の本願寺攻めが、勝頼の三河侵攻を誘発した。ここから事態は五月二一日の決戦へと向かって動いてゆくのである。』

②大岡弥四郎事件
 『大岡弥四郎とは家康譜代の中間(ちゅうげん)で、三河奥郡二十余郷の代官を務めていたとされる人物である(名字は史料によって大賀とも表記される)。事件の大筋は、弥四郎が勝頼に内通し、仲間を誘って岡崎城を奪い、侵攻してくる武田軍を岡崎に引き入れようと企てたものの、仲間の翻意により計画が未然に発覚し、捕えられて処刑された、という内容である。
 以前から知られていた事件ではあるが、このできごとは、浜松城の家康と岡崎城の嫡男信康という、徳川氏内部の権力対立の萌芽をここに見ようとする観点から、近年あらためて注目されている。
 この事件を記したもっとも古い資料である『三河物語』では、事件が起こった時期を天正三年のこととしか記していない。ただ、このなかで弥四郎の計画を聞いた勝頼が喜び、「しからばもっともこの事急げとて、作手筋へ御出馬ありける」とあり、長篠の戦いをめぐる記述につながってゆく。『三河物語』は、弥四郎事件と長篠の戦いに至る勝頼の出陣に因果関係があるとみなしているのである。---中略---- 因果関係についてはより慎重な検討が求められるものの、信長の本願寺攻撃と弥四郎の計画の進行がほぼ合致した好機をとらえ、勝頼は三河方面へ兵を向けたとひとまず考えておきたい。』
と記述されている。

・武田軍の三河侵攻
 『三月下旬に三河に侵入した武田軍の先勢は、まず足助城を攻め、そこから作手を経由して野田へ向かった部隊と、大沼・田代を経由して岡崎方面へ向かった部隊があった。

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↑ 上図は『シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い』より ↑

 『先衆が足助城(愛知県豊田市)を四月二十五日に攻撃したところ、城主鱸越後(すずきえちご)が降参して開場した。これにより、足助城近辺の浅賀井(浅谷)(あざかい)・阿須里(あずり)・八桑(やくわ)・大沼・田代(以上、すべて豊田市)の諸城にいた徳川方の兵は城を捨てて逃げ去った。』
その後、山県昌景隊は野田城を攻撃して降伏させた。次に勝頼の軍勢は
『二十九日に家康の籠る吉田城に向けて進軍し、二連木(にれんぎ)城(愛知県豊橋市)をはじめ付近を放火するなどしたとある。----中略-----昌景らが二連木城の搦手(からめて)に回ったのを見て、城内の衆は城を明け退却した。その後、家康自身が率いる兵二千が吉田から出撃してきたので、昌景らは勝頼の見ている前で奮戦し、二連木城近くから吉田城まで徳川軍を押し戻して勝利を収めたとある。』

・そして長篠へ
 『武田軍の当初の標的であった岡崎城は、大岡弥四郎の企てが未然に発覚し、また信康や周辺の家臣たちが懸命に防御にあたったため、攻撃するまでには至らなかった。足助から野田へと進んだ先勢と勝頼の本体が合流したあと、彼らが次の標的とした吉田城は、家康が籠城したこともあり、それ以上の力攻めを継続することはなかった。』
 勝頼は四月の書状で二連木城を放火したことによる戦果に満足したことを記したようだ。
 『これにつづけて「このうえ長篠へ”一動”これを催すべく候」と述べている。「一動」は「ひとはたらき」と読ませるのだろう。実際に武田軍が長篠城を包囲し、攻撃を開始したのは、この書状が出された翌日の五月一日とされる(当代記)など)。
 このとき勝頼が発した「一動」ということばは、現在わたしたちも使うように、主目的としていた仕事の区切りがついたあと、余力をもって「もうひと働き」するといった意味に解してよいのだろうと思う。
 出陣の主目的であった岡崎城奪取が頓挫し、次に向かった吉田城には家康が籠ったという状況を受け、勝頼は、「このうえ」で軍勢を東に反転させ、前々年に奪われた(さらにそのとき離反した奥平信昌が守る)長篠城を攻略するという「一動」を選択したのではあるまいか。つまり、武田軍による長篠城攻めというのは、このときの勝頼出陣当初の目的ではなく、種々の状況が変化していったすえにとられた行動であったと考えられるのである。』

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↑ 武田・徳川両軍の動きと激突推定地 ( 『シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い』より) ↑ 
 
 このように、長篠城攻略、および設楽ヶ原の戦い(合わせて長篠の戦い)は、信長、勝頼、家康、三者の当初の想定には無かったと思われる。三河で諸城を落とし勝ちに乗った勝頼は、その勢いのついでに裏切り者の奥平を討つべく長篠城攻略に向かったようである。

その19へ続く





 
 

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