決戦! 長篠の戦い その24

武田軍は全線にわたって最初の攻撃で鉄砲の被害にあって退却していた。そのため、2回目以降の攻撃では鉄砲に対する用意を充分にして連合軍に押し寄せた。以下の『 』の個所は新田次郎氏の小説 「武田勝頼」より引用。

『中央隊の一条信龍隊が、盾と竹束を前に押し立てて、前進して来た。連吾川を渡ると駆け足で柵に迫り、柵の鉄砲隊を追い払って、鉄砲隊と交替した羽柴秀吉の槍足軽と槍を合わせた。
羽柴秀吉の槍足軽隊が頃合いを見計らって、鉄砲隊足軽と交替しようとしたとき、一条隊は、隠し持っていた縄の付いた掛け鉤(かぎ)を柵に引っ掛け、盾と竹束に隠れて退いた。連吾川まで退くと同時に、連吾川の川ぶちにいた兵たちが力を合わせて綱を引いた。柵は音を立て引き倒された。
鉄砲隊は、その綱を引く一条隊の兵を狙ったが、兵たちは連吾川の中に下半身を浸して、背を低くしているので、なんとしても撃ち取ることができない。いたずらに無駄玉を放つだけだった。
鉄砲隊と交替して、足軽隊が出て来て、柵にかかった綱を切り落とそうとすると、今度は武田の鉄砲隊が前に出て、羽柴隊の足軽を狙撃した。羽柴の足軽隊から多数の死傷者が出た。
「武田軍にも鉄砲があることを忘れていたのでもあるまいに」
信長はすぐ眼の下で行われているこの戦いを見ながら言った。
信長は使番衆の青木一重を呼んで、
「いかなる犠牲を払っても柵を取られぬよう算段せよと秀吉に伝えよ」
と命じた。人数は敵の三倍以上ある。味方に損害があってもかまわぬから、柵をこわされないようにせよという厳命だった。信長流の一方的な厳しい命令だった。』

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長篠の戦いは長時間にわたっての激戦であった。新田次郎氏の小説「武田勝頼」にはその戦いが大軍団による激闘であったことが描かれている。とても全ては紹介しきれないので、以後は省略してまとめたいと思う。

武田軍は中央の一条隊が一の柵の一部引き落としに成功したのをみて、他の隊も似たような方法で柵の引き落としにかかっていた。連合軍はその柵を取られまいと防いでいた。持久戦の様相がはっきりしてきた。信長はこのまま時間が推移すると両軍は次第に、この戦いに倦怠感を覚えると思った。そして夜になれば武田軍は消耗戦を回避して必ずや撤退すると思った。この地形では追撃戦はできない。なんとしても、この設楽ヶ原で袋の鼠としなければならないと考えた。
信長の命令によって家康は柵を出て戦った。敵が攻めて来たら柵内に入り、退けば柵を出て戦い、山県昌景に密着して戦うよう伝令があった。

『信長は膠着状態に入ろうとしている戦場に波乱を起こそうとしていた。左翼陣の佐久間隊と右翼陣の徳川隊に積極的な攻めを命令することによって、武田軍を、合戦の坩堝(るつぼ)の中に引きずり込もうとした。馬場信春と山県昌景は天下の名将である。おそらく、この意図を察知するだろう。だが、彼の麾下は挑戦されて退きはしないだろうし、戦線の右翼と左翼が、激戦となれば、中央も黙ってはいないだろう。
(柵を挟んで全面的な戦いが始まる。そして相互に死傷者が出るだろう。だが、味方は人員には不自由はしない。たとえ一万死んだとしても後に二万は残っている。敵は一万三千のうち、五千を失ったら、もはや集団としての戦力を喪失したも同然、おそらく退かざるを得なくなるであろう)
信長はそのように考えていた。』

武田軍の本陣は敵の柵への誘い込み作戦を察知し、敵の裏をかき、味方の予備隊を敵の左右両翼に繰り出して敵の左右の柵を一気に突き破り、敵本陣を衝こうと考えていた。勝頼、曾根内匠、真田昌幸の三者の意見がたちまち一致したことにより武田の本陣は色めき渡った。だが馬場隊、武田信豊隊、山県昌景隊からは指図どおりにいたしますとの返事があったが、穴山隊は動こうとしなかった。いまだに佐久間隊の内応を信じているのであった。

『武田軍の総大将は勝頼である。勝頼の帷幕(いばく)が参謀本部である。そこから出た命令は絶対なものでなければならぬ。事実、他の将たちはすべてその命令に従うと答えた。当たり前のことである。だが、穴山信君は勝頼の命令に従わなかった。これは明らかに違反行為である。穴山信君は、武田勝頼を一応は武田の統領として認めながらも、依然として、心服していなかった。常に、同等な立場でものを言っていた。この設楽ヶ原の大会戦で武田軍が敗北した根本原因は、この統率権の分裂にあった。』

『馬場信春は、午後になって再び進出してきた水野信元の軍を狙った。水野軍と佐久間軍との連携は必ずしもうまくいっていないことを午前中の戦で見ていた信春は、その弱点を衝き、水野軍に大打撃を与え、これを追いながら付けこみ、柵を破って佐久間隊の本陣を狙おうと思っていた。
「これから敵水野隊の追い落としにかかります。水野隊が逃げ始めたら、後を追って一気に三の柵を打ち破って佐久間隊の本陣に迫るつもりでございます。敵軍を混乱に追いこむのは、この時と存じます。御加勢のほど願います」
と馬場信春は穴山信君に報告した。だが信君からは、
「深追いはするな。佐久間殿のなされ方を確かめてからにせよ」
という答えが帰って来た。
「玄蕃頭殿は、この期に及んでも、尚、佐久間信盛を信じておられるのか。情けない」
と信春は嘆いたが、そう思いこんでいる玄蕃頭に無理矢理、前線に出ろとは云えなかった。
(こうなったら、わが隊だけでやるよりしようがないだろう。わが方が水野隊を追撃して三の柵を破ったならば、玄蕃殿も気持ちを変えるだろうし、またわが軍が敵の重囲に陥ったら、黙ってはいないだろう)
信春は決心した。
馬場隊は前面にある敵の最左翼陣(武田方から見ると最右翼隊)の水野隊を攻撃した。午前中と同じように、水野隊はじりじりと下がり、一の柵から二の柵に追いつめられ、ついには三の柵まで後退した。
「今こそ、絶好の機会でござる。予備隊をお向け下され」
信春は、次々と使番衆を送って、穴山信君に攻撃をうながしたが、穴山隊はいっこうに動く気配がなかった。』
 
右翼の馬場隊は水野隊を後退させ三の柵まで後退させた。しかし、この絶好の機会に後方の予備隊である穴山隊は動かなかった。愚図愚図している間に三の柵の前方に敗走した水野隊に替わって丹羽長秀の予備隊が現れた。それと同時に佐久間隊が伸び切った馬場隊の足元に横槍を入れた。馬場隊は退かざるを得なくなった。前方に丹羽隊、側面に佐久間隊の攻撃を受け苦境に陥った。
土屋昌続は丹羽隊の予備隊が水野信元隊の援助に向かったのを見たとき、機会到来と見た。苦戦に陥ろうとしている馬場隊を救うと同時に丹羽隊の守備柵に攻撃をしかけた。丹羽隊前面の鉄砲隊が引いて、足軽隊との戦いが始まった。一の柵が落ち、二の柵がまさに落ちそうになったとき、羽柴隊が土屋隊を攻撃した。

『予期していたことだった。当然のことながら、その羽柴隊に対して、一条信龍隊が攻めかかるという具合に、全戦線にわたって、死闘が始まった。
信長は弾正山の本陣からこれを見て、
「これでよし」
と言った。このまま時間が経過すれば、武田軍は損害が多くなり、必ず敗北すると信じていた。
勝頼は才ノ神の本陣からこれを見て、
「まずいな、まずい」
とつぶやいた。敵に対して味方は少ない。少ない味方で勝つには力を結集して、敵の弱点を突き、敵を混乱に陥し入れるしかない。その戦機は穴山隊が動かないために失ったのである。』

土屋昌続は戦死した。武田隊の左翼、山県昌景も敵の大軍相手に苦戦中であった。大久保忠世、大須賀康高、榊原康政などの連合軍は足軽を柵の外に出して出血作戦を強いた。武田軍が追えば柵に逃げ込み、引けばその後を追ってくるというやり方だった。山県昌景は敵の手の内を知っていたので旗下の諸将をいましめながら本陣からの指示を待っていたが、本陣からの予備軍と武田信豊隊の予備軍はやってこなかった。昌景は穴山隊が動かなかったのであろうと思った。
届いた指示は敵の柵から遠のくようにとの指示であった。全軍にわたって柵から引きはじめた。
信長はここが武田軍の攻撃力の限界と見た。
武田軍が無理押しをせずこのまま対峙して退却を考えていると見るや、そうはさせぬと総攻撃の合図をした。
今度は連合軍が連吾川を越えて攻撃してきた。鉄砲隊、足軽隊、両軍入り乱れての合戦となった。
武田信豊隊の旗下として戦っていた山家三方衆の田峰(だみね)衆、菅沼勝兵衛、小野田八郎などが敵にうしろを見せた。合戦の前から徳川方に通じていたのである。田峰衆の動揺をみて滝川数益隊が攻撃に出て来た。

『武田信豊隊の右隣の一条信龍隊も退き、武田信豊隊の一つ置いて隣の武田信廉隊も退いた。中央の御親類衆の隊が退き始めたことによって、武田軍の総敗北は見えて来た。中央隊で踏み止まっているのは小幡信貞の赤武者隊だけになった。赤武者隊の活躍は目ざましかった。』

だが、その赤武者隊も連合軍に包囲されおびただしい被害を受けた。赤武者隊は崩れて退いた。赤武者隊が退いたことによって中央隊は敗走を始めた。中央隊の総退却によって勝頼のいる本陣は危険にさらされることになった。

『勝頼は頑張っていた。こうなれば、如何にして退却を上手にやるかということだった。だが、退却となると、攻撃よりむずかしい、命令は通らないし、だいいち、どっちへ逃げていいのかも分からない。そんなことは考えたこともないのだ。
攻撃のみが武田軍の取得だった。攻めれば必ず勝つという自信が武田の将兵にはあった。が、現実はそうでなかった。圧倒的多数の敵に押されて退却を始めたのである。だが、その退却のしかたは、一目散に逃げるのではなく、迫って来る敵と戦いながらの退却だった。武田軍は負け戦になってもなかなか逃げないので知られていた。川中島の合戦の時がそうであった。多くの部将を失っても尚踏み止まって戦い、終に最終的な勝利を得ていた。武田軍の強いところはそこにあった。
連合軍の兵の多くは兵農分離後の、いわば職業兵士だった。戦は上手だったが、機を見るのに敏であり、負け戦となったら、さっと逃げ、勝ち戦となったら、嵩(かさ)に掛かって攻めかかり、敵の首を拾って恩賞にありつこうという者ばかりだった。』

この後、信濃武士である真田隊の奮戦もむなしく、頼む味方の穴山隊が退いたことにより真田隊は後ろ備えを失った。真田隊も馬場隊も退かざるを得なくなった。武田の右翼が崩れ武田軍全滅の憂き目を防ぐため、真田隊は踏み止まって戦った。武田軍全体が持ち直してくれることを願っていたが、防いでも防いでも新たな敵が現れた。真田信綱、真田昌輝の兄弟は数えきれないほどの槍や刀の中で戦死した。
山県隊も武田の本陣へ突き進もうとする徳川軍の大久保、大須賀、榊原の軍勢を支えていた。しかし、山県隊、原隊、内藤隊などの武田左翼隊が必死に支えたことは、武田の中央隊の退却を援助してあげたような結果になった。
『敗走する中央隊を追撃する連合軍が、二派、三派、四派と堰を切ったような勢いで設楽ヶ原中原に進出すると、左翼隊もそのままではいられなかった。退かねばならなかった。』

『山県昌景は信玄の右腕ともいうべき部将であった。戦も上手であったが人格者でもあった。信玄が後継者として勝頼を選んでからは、陰に陽に、勝頼をかばって、彼をして次の統領たるべき人に仕立てようとしたのは昌景だった。信玄が死ぬときも、昌景は勝頼と共にその枕元にいたのである。信玄亡きあと、穴山信君を中心とする、御親類衆が、一時期、勝頼をうとんじたことがある。その御親類衆の顔色をうかがっている部将もあったのに、山県昌景と馬場信春の二将は、勝頼を統領として武田を一つにまとめることに積極的に努力した。
勝頼の代となり、側近勢力は入れ替わった。跡部勝資や、長坂長閑斎などの部将が勝頼の周囲に集まり、使番衆としては真田昌幸、曾根内匠の発言力が強くなった。そういう新体制の中でも、山県昌景が勝頼を見る目は、信玄の代といささかも変わってはいなかった。勝頼にとっては、この山県昌景と馬場信春の両将こそ、父信玄の残したもっとも偉大なる遺産だと思っていた。
「昌景を殺してはならぬ、昌景を救い出さねばならぬ」
勝頼は絶叫した。
その勝頼の前に跡部勝資が手をつかえて言った。
「御大将が合戦の場に出たら、それこそ敵の思う壺、はやお退き召され。ここは一応は退いて陣を立て直してこそ、総大将としてのなされようでございます」
勝資の必死の制止を受けて動けずにいる勝頼の左右から、土屋惣蔵、安部勝宝、秋山光次、などの側近が同様のことを口々に言った。
「お館様お退き下され、さもなくば、兄たち二人の遺言は反故(ほご)同然になります。兄たち二人はお館様が無事この場を逃れたと信じつつ敵に討たれたのです。なにとぞ、なにとぞ、お退き下され」
真田昌幸が大声で叫んだ。彼の眼に涙が浮かんでいた。
だが勝頼はまだ退くとは言わなかった。武田信豊隊、一条信龍隊、武田信廉隊などの御親類衆の軍勢が本陣を追い越して敗走していった。
山県昌景は馬上で指揮を取っていた。前後左右に馬を乗り回し、勢い込んで攻め寄せて来る、徳川軍の鼻先をもぎ取る指揮ぶりは見事であった。』

しかし山県昌景は混戦にまぎれて近づいていた前田利家の鉄砲隊により一斉射撃にあって落馬した。彼の身体を数十弾が貫いていた。家来たちが鉄砲隊を追い払った後、山県昌景の家来の志村又右衛門が主人の首を打ち落とした。
『志村又右衛門は六尺豊かの大兵だった。山県昌景の首を取ろうと近寄って来る敵を赤柄の長槍で突き伏せながら退いて行った。赤備えの志村又右衛門が全身に血を浴びると、赤鬼に見えた。
「山県昌景殿、御最期を遂げられました」
その報告を聞いたとき勝頼は一瞬よろめいた。武田はこれで終わりかと思った。左右の侍臣たちが、よってたかって、勝頼を無理矢理馬に乗せた。
そのとき、血だらけになった、馬場信春の使番衆が、勝頼の馬前に片膝をついて言った。
「馬場美濃守信春、一身にかえて殿(しんがり)をうけたまわる。御館様には心置きなくお退きあれ」
勝頼は、その使番衆に向って言った。
「昌景も死んだ。信春が死んだら、武田はどうなると思う。美濃守に死んではならぬと伝えよ」
才ノ神の本陣に立てられていた武田の旗が動き出した。
総大将の勝頼が敵に背を向けたとき、この日の合戦は武田の敗北と決まった。』

その25へ続く



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