決戦! 長篠の戦い その4
● ♪ Previously on 「決戦! 長篠の戦い」♪
武田信玄は1573年、信州駒場で帰らぬ人となった。この死は家康と信長にとって僥倖(ぎょうこう)以外の何ものでもなかった。勝頼は遺言を忠実に守ろうとし「信玄は病」という立場を崩さなかったが、家中の変化を隠しおおせるものではなく、「信玄死す」の噂は瞬く間に広がった。
(「歴史街道 長篠合戦の真実」より文章引用)。
● ♪The following takes place between 「信玄の死」and 「勝頼の時代」♪
・・・・今回の始まりをアメリカのドラマ「24-TWENTY FOUR」のオープニング風にしてみました(笑)
少しふざけてしまいました。
さて、さらに「歴史街道 長篠合戦の真実」より文章を引用します(一部省略・表現変更)。
『天正元年9月には信玄の死を確認した家康により長篠城を奪取された。信長・家康陣営の反攻が開始されたのだ。この時点で勝頼は自国を守り三河に進出しなければ武田も滅びなかったのだろうか。しかし戦国大名の地位は極めて脆く、当時は「武士は二君に見(まみ)えず」という忠義の精神はなく、家臣は強いとみた大名に簡単に鞍替え(くらがえ)をした。それゆえ、信長と家康の攻勢にただ手を拱(こまね)いていれば、武田家臣団とて動揺し、勝頼を見限るものも現れかねなかった。実際、長篠城主となる奥平貞昌(さだまさ)(のち信昌)が徳川家に寝返ったのも、この頃であった。
しかも、そもそも勝頼自身の立場が脆弱であった。信玄の四男である勝頼は、武田家の正嫡ではなく、諏訪家の当主として養育された。つまり他家に出ていた人間が、正式な当主ではなく「陣代」とされたのだから、信玄の弟や血の繋がる重臣も多い中で、家臣を統制するのは難しかったはずだ。
信長と家康の反攻、そして一枚岩ではない家臣団。勝頼は極めて難しい局面に立たされていたのだ。そして、これらの問題を一挙に解決するためには、軍勢を動かし、内外に自分の威信を知らしめるしかないと勝頼は考えたのだろう。武略に自信を持つ勝頼にすれば、一方では「父・信玄を乗り越えたい」という願いもあったに違いない。
では、己(おのれ)の威信を高らしめる最良の場所はどこか。勝頼が選んだのが、遠江・高天神城であった。この城は「高天神城を制する者は遠江を制す」といわれる要衝であるのみならず、かつて信玄が落とせなかったほどの要害だ。しかも、家康の本拠・浜松城の喉元に位置する。難攻不落だが、「落とせば時流を自分に呼び込める」と勝頼は決断を下したのだろう。
天正二年(1574年)5月、勝頼はついに動き、2万5千の大軍で遠江・高天神城を包囲した。なお、勝頼はこの3ヶ月前、美濃・明智城を攻略しているが、それは本格的な軍事行動というよりも、信長に対する牽制だったのであろう。
↑ 「歴史街道 長篠合戦の真実」より引用 ↑
長篠城を奪取した家康だが、勝頼の遠江出陣には対応に苦慮した。この時の家康の動員可能兵力は、およそ8千。3万以上を動員できる武田家とは、単独ではとても戦えない。
奥平貞昌がそんな家康に寝返ったのは、徳川の実力ではなく「信長と同盟していること」に惹かれたからに他ならない。家康も武田家との実力差は自覚しており、信長の援軍を得て戦うことが、対武田の基本戦略であった。この時も信長に援軍を要請し、それを待った。
ところが、信長の反応は鈍い。というよりも、動けなかった。前年に朝倉義景と浅井長政を滅ぼした信長ではあるが、その後は越前、伊勢長島など各地の一向一揆に悩まされ、援軍に赴ける状況ではなかったのである。信長は、家康に持ちこたえるように伝えつつ、何とか高天神城に向かうべく兵をかき集めた。
だが6月17日、信長の来着を待たずに、城は落ちた。勝頼が猛攻の末、城主・小笠原氏助を降伏させたのである。この時、信長は浜松城付近にまで援軍に来ていたが、城の陥落を知ると撤退した。信長のこの動きは、わざと遅参したといわれることがある。だが、信長も家康との同盟は重視しており、家康を救うべく、やっとの思いで出陣したというのが、実際のところであったろう。
そしてこの高天神城の攻防戦が、長篠・設楽原の戦いに大きな影響を及ぼすこととなる。名将信玄でさえ落とせなかった高天神城を攻略したことで、勝頼の武名は内外に鳴り響いた。家康も「てごわい」と、改めてその手腕を恐れたことであろう。勝頼も大いに自信を深めたに違いない。
一方、高天神城の陥落は、信長と家康の関係に大きな影を落とした。これまで姉川合戦をはじめ献身的に織田家を助けてきた家康にとって、信長の援軍遅参は背信行為に等しく、許しがたかったはずだ。信長もそれを敏感に感じ取り、家康に深い負い目を感じたことだろう。信長と家康は、盤石の同盟で長篠・設楽原の戦いを迎えたかのように思われているが、実はその直前、両者の信頼関係は大きく揺らいでいたのである。』
さて、ここまで勝頼の高天神城攻略、信長と家康の同盟関係が揺らいだところまでみてきました。話は少し変わりますが、現地で私が撮影した上の設楽ヶ原の写真のように、甲斐、信濃、三河ともに山や川が広がる自然豊かな地域です。ここでは春から夏にかけて、さぞきれいな田園風景が広がることでしょう。武田軍にとって甲斐と同じような風景が広がる国々は、どこか親近感があり移動しやすかったのではないでしょうか。美濃もそうですね。逆に尾張より西側の国々は雰囲気が違っていた気がします。水運を活かした商業都市が発達するなど、経済の発達する場として自然の風景というよりは都市色が強かったと思います。もしも武田軍が西にも進出していたら、どのような政治を行ったのか、どのような都市を目指したのか、旧態依然として将軍家のもとに政治を行ったのか、などなどもう一つの日本史も見て見たかった気がします。また、意外かもしれませんが、武田軍は水軍を持っていました。山に囲まれ海に面していない甲斐でしたが、この頃には織田水軍に匹敵する武田水軍を所有しておりました。
それにしても、商業の発展については信長の才能も大きいと思います。楽市楽座が有名です。そして人材登用の考え方、海外への関心、さらにはあらゆる面での独創性。狂気じみた殺戮を行った反面、才能があったことは事実でしょう。生まれた土地によって人々の特徴も変化する。現代のように簡単に長距離を移動できず、通信手段も機械が無かった時代、生活することになる環境の影響は計り知れなかったのですね。
この続きはその5をご覧ください。
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