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決戦! 長篠の戦い エピローグ

今回は最終回。
「長篠の戦い」を取りあげて書きはじめると想像以上に長い回数となった。規模の大きな戦いではあったが、「関ヶ原の戦い」のような有名な戦いとは異なり実態はあまり知られていない。歴史に興味がない多くの人にとっては、騎馬軍団が鉄砲隊に一斉射撃にあって敗れた戦いとの認識が一般的だろう。そのとおりかもしれない。しかし、武田方の騎馬隊は一部の隊だけであり、おもな戦力は足軽隊と鉄砲隊だったのではないだろうか。そして騎馬隊も湿地帯に阻まれて機能を発揮できなかったのではないだろうか。徳川は柵を出て武田と戦ったのではないか。武田の一部の隊は柵を突破して徳川や織田と混戦になったのではないだろうか。そのように戦い方を様々に想像することができる。そして勝頼が武田家の内部事情により好戦的にならざるを得なかった心情も察することができるし、それまでの諸所の戦いで勝利が続いていたことも慢心の原因かもしれない。退路を断たれて退却が困難になったことも突撃の理由かもしれない。織田・徳川軍の士気が低いと判断した可能性もある。ただ無謀に突撃したのではないだろう。攻撃回数についても、数回に分けて突撃したのかもしれない。
このように専門家による研究や調査も続いているようだ。いくつかの関連書籍は読む人の想像力を膨らませてくれると同時に冷静に客観的に分析することの大切さも教えてくれる。
また、「信長の野望」をはじめとする戦国のゲームをする人にとっては関連書籍を読むことは想像力を膨らませる良い刺激となるかもしれない。そして戦場を訪れることも。特に山や谷や草原での戦いが好きな人には良いかもしれない。
さて、最後回では勝頼の菩提寺を訪れた時の事を記述したい。少しスピリチュアル的なことも書いている。この記事は歴史を扱った内容ではあるが、私の中にスピリチュアルや宇宙の要素は内包されているものであり、一時的に無視することはできても忘れることはできない。それが私の中を占める割合は全体を占めている訳ではないが、決して取り除くことができない大きな一部分となっているようだ。

今年の2月に山梨県にある武田勝頼の菩提寺を訪れた。甲州市にある景徳院。静かな山の中にひっそりと佇んでいる。境内には勝頼、息子の信勝、北条夫人の墓がある。彼らはここで自刃したと伝わっている。最期はこんなひっそりとした場所で亡くなったのかと思うと少し寂しくなってくる。

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境内で手を合わせた。
今まで大変だったでしょう。安らかにお眠りください。
そして現在はどう過ごされておりますか。元気ですか?と目をつぶり手を合わせながら心の中で訊いてみた。
死後も現世に大きな未練を残していると光の道へ進めず、特定の想念帯に留まってしまうと聞いたことがあるので心配になったからだ。
すると、私の頭の中に白い龍が3体現われた。
私は神社などに参拝しても何かが視えたり聴こえたりする体験はほとんどない。そういう霊能力は基本的に持っていない。
しかし、この時ははっきりと頭の中に映像として現われた。
もしかしたら、この場所へ来る以前から既に頭の中で龍の姿を想像して事前に作り上げていたのかもしれない。
そして私の質問にその白い龍の一体はこう答えた。
「心配しなくていいぞー元気だぞー」と。
それは20代から30代と思われる男性の声のイメージであった。
私は自分の空想だと思い、特に驚きもせずに引き続き質問してみた。
本当に元気なのですか?
すると、「だーかーらー!大丈夫だって!元気だぞー」と反応があった。
そして、白い龍が3体、元気に空を駆け上がっていくイメージが浮かんだ。
その姿は「千と千尋の神隠し」に出てくる白い龍に似ているかもしれない。ただし、体の厚さはもっと薄く、全身は白一色に染まっており眼や鼻、角などの区別はあまりつかない。白く光っているようだ。
その3体の龍は勝頼と信勝、そして北条夫人だと分かった。
彼らは一時的には想念帯に滞在したかもしれないが、時間の経過とともに癒しが進み、今では人間が神と崇める存在達がいる領域、6次元くらいの領域にいるのだと想像された。そして仲睦まじく暮らしているのだと伝わってきた。
私の想像だが、今では敵対した信長とも仲良くやっているに違いない。ちなみに念のために言うと、「今では」と表現したが彼らの次元には時間の制限がない。過去でもなく未来でもない。
彼らは地球という一つの舞台に生まれる選択をした。さらに戦国時代という舞台を選び戦国武将という役を引き受けた。それはシェイクスピアの喜劇や悲劇の舞台にも例えることができる。いったん地球に生まれると生前の記憶は無くなる。舞台の役作りに没頭するためだ。そして必要な学びを進めたり前世の人間関係のカルマを解消したりする。愛や二元性の対立を学ぶ、物理的に体を持つ体験をする、その時代の地球人や生物達を助ける、目的を持たず人間として生きてみる体験をする、など人によって様々だ。
そして役目を終えて肉体を去った後は、お互いに当時の出来事について語り合っているに違いない。
「勝頼という役割は大変でしたなぁ。あの戦国最強の武田家の家督を予想外な形で継ぐことになり、さぞ苦労したでしょう。でも今振り返って当時を眺めると素晴らしい演技力でしたぞ」
「いやいや信長という役を引き受けたのも大変だったでしょう。本当は暴力が嫌いなのに武力を使って戦乱の世を終わらせる大きな役割を担ったのですから。あのような役を演じるのも相当大変ですよ」
そのような会話が想像された。
もちろん、肉体を去った後だからこそ生きていた頃の人生を振り返って俯瞰することが可能なのだ。生きている間(役を演じている間)は役者として演じていることに気づいていない。そして、彼らがその後どうするのかは分からない。さらにその先の光の輝く次元へ進むのか。そこでは肉体時の記憶はさらに薄れていくに違いない。それとも再度、どこかの惑星に再び人間のような存在として転生するのか。
いずれにしても、勝頼と信勝と北条夫人が仲良く暮らしている様子が伝わってきて安心できた。
彼らは今では私達と違う非物資の存在になっているが活き活きと生きている。姿は違うが私たちと同じ生命体なのだ。彼らを偶像崇拝のようにエゴの気持ちから拝み、その力に頼ろうとする事には注意が必要だ。しかし、彼らに尊敬と感謝の気持ちを注ぐことは間違っていないだろう。彼らもそれを気持ちよく感じるはずだ。
戦国時代という遠い昔の時代。私たちの常識が通じない時代でもある。しかし戦国時代という名称は後世に生きる私たちが名付けた時代であり、当時を生きる人々は戦国時代などという形で認識していなかったようだ。それが当たり前の生き方だったのだろう。私たちの時代も未来人から見ると戦国時代なのかもしれない。国や会社同士の競争、政治の対立、宗教の巨大化。その様子は500年前の戦乱の世の暴力的な非常識さに比べると遠く及ばないが、どこか似ている部分があるのかもしれない。私達は現代と比較した戦国時代の非日常性にも興味を持つのだろう。そして中身を構成しているのは当時も今も人間なのだ。だからこそ私たちは今でも戦国時代の人々に魅了されるのかもしれない。

「決戦! 長篠の戦い」 完

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