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決戦! 長篠の戦い その31

既にこのシリーズで引用済みの部分と重複するかもしれないが、今回は2つの書籍から紹介したい。

「情念」に「つき動かされた」行動の積み重ね


まずは、鴨川達夫氏の「武田信玄と勝頼———文書にみる戦国大名の実像」を取りあげたい。

前回は織田信長を中心に戦国時代の日本とヨーロッパの思惑を絡めて長篠の戦いを紹介した。長篠の戦いだけを扱うにはかなり大袈裟な内容であったかもしれない。しかしながらポルトガル、スペインの野望が絡んでいた時代の中で戦いが行なわれた事は事実だろう。
そんな中でも中心となったのは飽くまで人間対人間である。このシリーズを進める内にいくつもの書籍を参考にし、引用をさせて頂いた。これら書籍の中で心が惹かれたのは当時の人間模様と心情が伝わってくる、あるいは想像できる文章であった。
結局はいつの時代も人間同士でのやり取りには感情が関わっている。科学技術が発達しようが生活が便利になろうが、人間の嫉み、恨み、物質欲といった行動を突き動かす原液ともいえるドロドロしたもの。それは変わらず存在しているのだ。一方で、喜び、愛情も同様に存在している。
だから戦国時代でも難しく考えずに現代と同じ感覚で文書を読めば良いと鴨川氏は教えてくれている。
以下、同書より武田勝頼、織田信長を中心に扱った文書を引用した。

 書名:「武田信玄と勝頼———文書にみる戦国大名の実像」
 作者:鴨川達夫
出版社:岩波新書
 初版:2007年3月
引用個所は『 』で表示。

天正8年~9年頃(1580年頃)の文書
『景勝と組んで信長との妥協を模索する―――、それがこの時期の勝頼の基本方針であった。信玄が宿敵・大敵とした上杉および織田、そのいずれとも、勝頼は敵対をやめ、またはやめようとしたのである。少し前に「信玄との決別」という表現を用いたが、それにしても鮮やかな路線変更である。一般には、勝頼は信玄の遺産を食い潰しただけだ、というイメージがあるのだろうが、どうやら勝頼はそれほどの凡将ではなかったようだ。
勝頼の滅亡
勝頼や景勝の模索に、信長はまったく聞く耳をもたなかった。たとえば、勝頼の佐竹義重を介した交渉の場合、天正7年(1579)のうちに安土に到着した使者を、信長は天正8年が明けても相手にせず、門前払いを食わせ続けたという。信長は、勝頼と「和睦」するどころか、「降伏」を受け入れる気持ちすらなく、すでに勝頼の打倒を固く決意していたのだろう。』

『このように、勝頼の滅亡は、東国を代表する有力大名の最後としては、あまりにもあっけないものであった。先ほども述べたように、このような結果を必然とするほどには、勝頼の勢力は衰えていなかったと思われる。にもかかわらず、離反者が続出して、勝頼が短時日で討ち取られた理由は、はたしてどこにあるのだろうか。
理由の一半は、この戦いにおける信忠の戦いぶりにあろう。信忠の進撃は、きわめて急なものであった。これを抑えようとして、信長は何度も注意を与えているが、それを振り切るようにして、信忠は甲府まで進んでしまった。この急進激が、勝頼から応戦の余裕を奪い、組織的な抵抗を許さなかったのだと思う。
しかし、それ以上に重要なのは、この戦いが天正10年という年に戦われたことであろう。朝倉義景・浅井長政など、華々しく信長と戦った大名が敗れ去ってすでに10年、足利義昭や石山本願寺ももはや敵ではなく、中国の覇者毛利輝元も、次第に旗色が悪くなっていた。信長が確固たる覇権を打ち立てたことは、誰の目にも明らかであっただろう。
そうした状況のもとで信長と勝頼の衝突が避けられなくなったとき、木曾や穴山が信長を選んだことは、無理もないように思われる。詳しく見ていただいたように、勝頼には信長との衝突を避ける考えがあり、そのための努力は傾けた。しかし、信長は聞く耳をもたず、勝頼との対決姿勢を崩さなかった。その時点で、いずれ離反者が続出することは、避けられないものになったのである。前節で強調しておいたように、信長は信玄が突如友好関係を破ったことを深く恨み、それは勝頼の代になっても変わることがなかった。信長が聞く耳をもたなかったのは、これが理由であろう。そうだとすれば、義景や本願寺の求めに応じて、信玄が信長と対決する路線に踏み出したことが、その時点では誤った判断ではなかったとしても、結果的に武田家の運命を決めてしまったことになりそうだ。』

『 おわりに
 以上、武田信玄・勝頼の文書を読みながら、武田家の歴史をたどってきた。事実の流れを示すにあたって、「信玄の××構想」とか「勝頼の××戦略」などのように、大上段に振りかぶって説明することは、ほとんどしていないつもりである。そうではなく、ごく単純な人間の感情に基づいて、事実の流れを説明してきた。今川氏真に裏切られた信玄の恨みや、その信玄に裏切られた織田信長の恨み、そういったものが歴史を動かしたのだと考えた。勝頼が滅亡する場面で、木曽義昌や穴山信君が信長を選んだことも、人間としては自然なふるまいであると理解した。
このようなやり方では、事実の流れを説明できていないだろうか。そんなことはない。十分に説明できている―――、筆者としてはそう自負している。むしろ、単純であるだけに、多くの読者に納得していただけたのではないかと思う。
上記のほかにも、当事者がどのような感情をもっていたかに注意することで、さまざまな場面をわかりやすく描き出したつもりである。信玄が一対三(今川・上杉・北条)の戦いを恐れて信長を頼ったことや、遠江・三河攻めに消極的であったことについても、書状に書き記された文章、つまり信玄本人の口から語ってもらった。早い話が、恨みと打算、義理と人情が、歴史を動かしていたのである。
時代や環境は大きく異なるかもしれないが、これとまったく同じ意見を読んだことがある(立花隆『「田中真紀子」研究』)。少し長いが引用してみよう。
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 最近、政治記者を長くやって、日本の政治権力抗争の現場をつぶさに見てきた渡邊恒雄(読売新聞社長)の『渡邊恒雄回顧録』(中央公論社)を読んでいたら、こんなくだりにぶつかって、全くそうだと思いました。
≪渡邊 僕は日本の戦後史の流れを見たとき、イデオロギーや外交戦略といった政策は、必ずしも絶対的なものではなく、人間の権力闘争のなかでの、憎悪、嫉妬、そしてコンプレックスといったもののほうが、大きく作用してきたと思うんだ。≫
(中略)政治のすべてにおいてこれがいえるんです。政治を支配しているのは情念なんですよ。表面的には、政策論争とか、イデオロギー論争で政治が動いているように見えるかもしれないけれども、もっと下のほうで政治をつき動かしているのは、人間の情念の世界のドロドロですよ。
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このような見方は、戦国時代の政治史にも、そのまま当てはまるのではないだろうか。信玄や信長の場合も、「構想」や「戦略」を掲げてその実現に邁進した、などと理解するのは、いささかきれいごとに過ぎるのであろう。その場その場の行動、それも「情念」に「つき動かされた」行動の積み重ねが、信玄や信長の事績をかたち作っているだけだ———、筆者はそう思う。信玄には不得意な分野もあれば得意な分野もあり、執念深さを見せるかと思えば弱気で臆病な一面もある———、これらは第四章で詳しく見ていただいた通りである。つまり、歴史上の有名人も、所詮は私たちと同じ人間なのだ、ということである。したがって、彼らの事績を説明しようとするとき、ことさらに難しく考える必要はない、私たちももっている自然な感情を、彼らにも当てはめてよいし、むしろそうすべきなのだ。』

自軍の損害を最小限に抑えるための布陣

そして、次に取り上げるのは、金子拓氏の「長篠の戦い」の最後の部分。
書名:「シリーズ実像に迫る021 長篠の戦い」
 作者:金子拓
出版社:戎光祥出版
 初版:2020年1月
引用個所は『 』で表示。

『「長篠合戦図屏風」に描かれたいくさの場面は、江戸時代の人びとが「こうであったらしい」「こうあるべき」と頭に描いた姿である。この図柄も手伝ってか、長篠の戦いは、鉄砲を効果的に用いた”新戦術”により軍事革命をもたらした画期的ないくさとして著名になった。桶狭間の戦いとともに、信長の軍事的能力の高さを示す代表的な戦いとして数えあげられるに至った。
しかし、それ以前からの流れを踏まえ、なぜそのような戦いになったのかという意識で考え直してみると、信長は最初からこうした戦い方を想定していくさの準備をし、有海原に布陣し、馬防柵を構築したわけではないことがわかっていただけただろう。
あくまで自軍の損害を最小限に抑えるための布陣であり、また馬防柵の構築と、その背後からの奇襲作戦であった。たまたま勝頼が情勢を見誤って兵を動かしたことに乗じて、鳶巣山砦への攻撃を案出し(あるいはそうした提案を採用し)、それが成功したことによって、結果的にあのような戦いとなったのである。
その時々の指揮官の判断が、いくさの帰趨を大きく左右する。その判断いかんによって、勝ち負けがどう転ぶかわからない。敗北した武田軍にしても、天正3年5月21日という日に、あのような状態で戦闘をおこなうつもりではなかったのではないかとも指摘されている。鉄砲戦術というよりも、あの場所を布陣地として定め、かつ相手を粉砕できるという機を逃さなかった信長の判断こそ、賞されるべきではないかと思うのである。』

まとめ

今回は人間と人間との関係、現代の私達にも通じる情念や、その場その場での判断、守りを固めたという事に関連する文章を取りあげた。結局は戦国時代の人々の行動理由や判断は、現代の我々と大きな違いはない。そして、それは長篠の戦いに関連する人々も同様であった。
現代の政治でも同じかもしれない。何か大きな世界的な潮流に乗って政治を判断しているようにも見えるが、何だかんだ言っても、いくらカタカナ言葉を並べていても、結局は一人一人の政治家が自身の情念に突き動かされて最終的には行動するのだ。それが原動力になっているのだ。そう言い切っても良いのかもしれない。

その32へ続く。


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