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決戦! 長篠の戦い その23

前回からの続き(多くの文章を新田次郎氏の小説「武田勝頼」より引用)

武田軍の進軍する光景については、司馬遼太郎氏の小説の中でも「まるで戦車があたりを蹂躙するかのように」というような表現で書かれていたのを思い出す。その武田軍が連吾川を越えて進撃してきた。だが、この時期は梅雨が明けるかどうかの時期で川は増水していた。

足軽隊は体半分まで水に浸かりながら進んだ。川を越えても梅雨の影響を受けた湿地帯に足をとられた。連吾川を一帯とした設楽ヶ原周辺は採草地であった。ぬかるみに進軍のスピードが緩んだ時、連合軍の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。どうにかして川を渡ったばかりの馬はこの轟音に驚き立ち止まり、あるいは騎馬武者を振り落して奔走した。足軽兵は鉄砲に当たり体に鈍い痛みを覚えたと同時に倒れた。胸に鉄砲玉を受けた兵士は声も出なかった。助からないことは承知していた。痛みによってもがき苦しみたくない。願うのはただ早く意識が遠のき死ぬことだけであった。ここまで生きて来た人生のことなど振り返る余裕もなかった。

これによって武田軍の先頭は混乱した。指揮を取る者の馬が狂奔(きょうほん)したことによって指揮を取る者がいなくなった。後続部隊は馬から落ちた指揮者を収容するのがせいいっぱいであった。そのまま前進できる状態ではなかった。武田隊は引いた。引かねばさらに混乱が生じる恐れがあった。武田軍は堂々と引いた。引くと見て付け入ってくる敵に何時もで振り返って戦うことができるような訓練ができていた。連吾川を越え、連合軍の射程距離外に出ても、連合軍は付け入って来る気配はなかった。

各部隊で損害が調べられた。馬の損害が大きかったが将兵の損害は比較的少なかった。武田軍は信長の鉄砲のみで馬や兵を討つやり方に怒ったが、敵の鉄砲隊は怖いぞと印象づけられたことによって二番手の攻撃法は変更された。
「敵の鉄砲をかわす算段をせよ」
と勝頼からの命令が出た。
鉄砲を防ぐ方法は、盾と竹の束に(たば)に隠れての前進であった。盾と竹束に隠れて接近し一気に突っ込む方法であった。連吾川の東岸で、馬から降りた武者たちはそれぞれ盾に隠れて連吾川を渡った。この武田軍の第二番隊が川を渡ったときになって、雨が降ってきた。連合軍の鉄砲隊はかねてより木材で作ってあった囲いや屋根の下に移動した。武田軍は長槍で柵の兵に襲いかかった。連合軍は鉄砲を放ったが、今度はその効果は不十分であった。鉄砲隊に代わって連合軍の将兵が柵に寄って防いだ。柵を越えようとする武田軍とそうさせまいとする守備軍で激しい殺し合いになった。

武田軍の右翼隊の総大将馬場信春は、連合軍の水野信元、佐久間信盛の両隊のうち、まずは水野隊に向って攻撃を開始した。佐久間隊についてはかねてよりの打ち合わせにより、織田を裏切り武田に味方するとの考えであったので先に水野隊を攻撃した。水野隊が退きはじめたところで佐久間隊も徐々に後方に退き始めた。その様子を見て馬場信春は、佐久間隊はそのまま退くとみせかけて織田軍本体へ突撃するつもりなのだと考えていた。だが、佐久間隊は二の柵の丸山あたりまで下がったところで止まった。それから動かなかった。これはおかしいと思った。もしや佐久間信盛の誓書は偽りであったのだろうか・・・。

もしここで佐久間隊が武田軍の攻撃に転じれば、深追いした馬場隊は退路を断たれ全滅の危険がある。馬場信春は三の柵まで深追いした味方を二の柵まで退かせると同時に、それまで待機していた馬場隊旗下の精鋭五百に丸山の佐久間隊を攻撃させた。辰の刻(午前八時)の頃であった。これできっと佐久間隊は退くだろうと考えていた。だが退かなかった。これは変だと信春は思った。伝騎をいちはやく穴山信君と本陣の勝頼に飛ばして、このことをいち早く報告した。信春は勝頼が「さもあらんかなと思っていた」という報告を受けたとき、自分の不明を恥じた。早朝の会議で勝頼は真田昌幸らの意見を取りあげ決戦見送りを決議したい意向であったが、御親類衆に押し切られてしまった。あのとき、自分が決戦に反対していれば御親類衆もあそこまで強硬に出ることはなかっただろうと思った。だがいまさら悔いても仕方がない。いまは佐久間信盛の首を挙げてやるのみ。信春は寄せ太鼓を打つよう命じた。寄せ太鼓は総攻撃に掛かれの合図の太鼓であった。死んでも後退は許されなかった。上手な鼓手の太鼓の響きは全身に力がみなぎり、槍の扱いも軽くなると言われていた。

武田軍の最右翼の丸山に馬場隊の旗が立った。敵からも味方からもよく見えた。最左翼の山県隊から見ると丸山に白雲がたなびいているようだった。武田軍は全線にわたって勇気づけられた。

長篠の戦い布陣図

(↑ 図は自分で作成したので地形図は衛星写真を使用している)

武田軍の陣形は図のようであるが、統率系統から考えると穴山信君が右翼陣の諸将を掌握し、中央陣の諸将の指揮は武田信豊が取り、左翼陣は山県昌景が執っていた。
小幡隊はほぼ中央にいた。小幡隊は西上野衆の精鋭五百人によって構成されていた。赤一色の部隊で、赤武者として連合軍からもっとも恐れられていた。
赤備えは小幡隊だけではなく、最左翼の山県昌景隊も旗も槍の塗りも赤だった。
小幡隊の右隣の武田信豊の部隊は、黒備えとして有名であった。

小幡隊の赤備えの一団が動き出した。
「いざ、赤武者の槍を受けてみよ」
小幡信貞は馬上で叫びつつ、連吾川に向った。一回目の攻撃では馬を狙撃されたので、連吾川の手前で馬を降り、盾や竹束を並べ立てて、密集部隊を組み、掛け声をかけながら連合軍の石川数正隊におし寄せて行った。攻撃軍は鉄砲隊の射程距離に入る前に分散して進んだ。まもなく一斉に鉄砲の銃撃がはじまった。するとそれまで盾に隠れてゆっくり前進していた部隊が突然走り出した。各自が間合いを取りながら柵に向かって突進した。鉄砲の弾に盾を破壊され、竹束を射抜かれて倒れる者もいたが、柵に攻めこみ、鉄砲隊を一度に三人も槍にかけて討ち取った赤武者もあった。
「鉄砲隊引け!」
の号令と共に鉄砲隊が退くと石川数正隊の槍足軽隊が出て来て赤武者隊と槍を合わせた。だが、赤武者の槍にはかなわなかった。たちまち突き崩され、新手が出てもまた突き崩された。武田方の初鹿野伝右衛門が駆けつけたときには赤武者の先頭隊は一の柵を越えようとしていた。
勝頼は本陣から小幡隊の様子を見ていた際に、小幡隊が出過ぎているから左右をよく見て行動するよう小幡隊へ伝えるよう伝右衛門に命令したのであった。小幡信貞は勝頼の命令を受けて左右をよく見た。左右の武田の部隊はまだ連吾川を渡河していなかった。まずいなと思った。
(今、引けの号令を掛けるのはまずい、掛けても聞くものではなし、下手に掛けると部隊が混乱する)
小幡信貞はそう思った。号令はむやみやたらに掛けられるものではなかった。ころ合いを見計らって掛けないと失敗する。
そう思っているうちに、敵兵が一斉に退いて二の柵に隠れこんだ。小幡隊は一瞬呆然とした。柵の向こう側の敵が突然いなくなったからだ。
今が好機と一の柵を乗り越えて前に出たとき、二の柵に並んだ敵の鉄砲隊の一斉射撃を喰らった。槍と槍の戦いをしていたから、盾や竹束は手元にはなかった。赤武者隊は鉄砲に当たって多くの死者を出した。
「退け、退け!」
の命令で小幡隊は安全圏まで退いた。その間にも背後から狙撃されて死傷者を出した。

たまたまその場に居合わせた初鹿野伝右衛門は、勝頼にそのとおりのことを報告した。
「敵は柵と鉄砲を使って、わが軍に出血を強いるつもりだな」
勝頼はそこに居並ぶ者に言った。
真田昌幸がそれに答えた。
「そのとおりでございます。いたずらに出撃を繰り返すは愚策かと思います」
「ではそちの策を申してみよ」
「佐久間信盛が叛(かえ)らぬと決まったからには、このまま戦えば、時間と共に、わが軍の損害は多くなる一方です。退くべきです。今退けば、味方の損害は少なくてすみましょう。最後の機会です。味方が退けば、敵は柵から出てくるかもしれません。そうしたら反撃すればよい。敵は自ら作った柵にはまって、自滅するでしょう」
いざ御決心をお館様、と真田昌幸は言った。だが、勝頼は迷った。迷ったというよりもその下知を全軍が素直に聞いて退くかどうかについて危うんでいた。
勝頼の頭に穴山信君の魁偉な顔が浮かんだ。おそらく信君は承知しまい。他の親類衆もそうであろうと思った。
(彼等はいまだに佐久間信盛を信じているに違いない。丸山の馬場隊の旗が立ったのも、佐久間信盛の予定の行動によるものと見ているであろう。そうではないと説明しても、彼等には分かるまい)
「困ったことだ」
勝頼が洩らした。総大将がこの合戦の最中に困ったことだなどと言うべきではなかった。しかし彼はそう洩らした。
(昌幸の言うように、本陣から、各部隊長に向って、退けの命令を発した場合、こぞって、それに従うだろうか)
勝頼は信玄を思った。今もし信玄がここに居たとすれば、信玄の一言で武田全軍はいっせいに退くだろう。しかし、この自分にはそれができないのだ。
(合戦と決定し、戦を始めて、まだ二刻余しか経っていない。しかも、全体的には武田軍は押している。それなのに退けの命令を出しても、各部隊長はおそらく承知しまい。命令を聞いて、退く部隊と命令を聞かずに戦う部隊がいたら、それこそ大混乱に陥ってわが軍は負ける)
勝頼は頭を上げて昌幸に言った。
「手遅れだ。そのような命令を出すことはかえって混乱を招くことになる。退くにしても、まだその時期ではない」と言い切った。
そして、勝頼は、むかで衆に、各部隊長に対して、敵が柵と鉄砲を利用して、わが軍の消耗を狙っているから、その策にかからぬよう注意するように伝えた。
日は高くなり、戦いはいよいよ激しさを加えて行った。緒戦に鉄砲でひどい目に会った武田軍は、みだりに鉄砲隊の前に馬を乗り入れて、弾丸の餌食になるような愚かなことはしなかった。各部隊とも、それぞれ、鉄砲を避けながら、敵の柵を乗り越えることを考えていた。

その24へ続く

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