決戦! 長篠の戦い その25

前回からの続き
新田次郎氏の小説「武田勝頼」より引用個所は『 』で表示。

『馬場美濃守信春は敗戦と決まったとき、自ら殿(しんがり)となることを決意した。武田軍が敗戦を招いた最大の原因は、信長の謀略「佐久間信盛の謀反」に引っかかったからだ。勝頼は、真田昌幸や曾根内匠の言を入れて、決戦をさけようとした。しかし穴山信君等親類衆の意見によって、決戦になった。馬場信春はそのとき身を挺して決戦に反対すればよかったのだが、それをしなかった。彼はそのことについて責任を感じていたのである。
最右翼の馬場隊は敵にうしろは見せずに、敵に相対したまま徐々に引いた。引いたと見て、攻め掛かって来る敵があれば容赦無く討ち取った。それまではろくな戦いもせず、武田軍が全線にわたって退却を始めたのを見て、いまこそよい首にありつこうと、寄り集まって来る、連合軍将兵に対して、信春は高いところからあれこれと下知した。引くと見せかけ突然踏み止まり、深入りした敵の首をあっという間に五十ほど取り、声をそろえて、
「そんなに首が欲しくば、この首を進上しようぞ」
とはやし立てた。
連合軍は馬場隊にはばまれて追撃は阻止された。したがって最右翼の馬場隊だけが取り残され、連合軍は、敗走している武田隊の中央隊から左翼隊にかけての敵を攻めようとした。馬場隊はそうはさせじと、連合軍の横腹を突いた。
馬場隊は堂々と退いて行った。見事に殿としての役割を果たしはしたが、結果は、連合軍に包囲される形になった。当然なことであった。
馬場信春は、勝頼が寒狭川を渡って落ち延びたという報告を受け取ると、いよいよ、自分の最期が来たことを知った。
彼は寒狭川を渡らず、寒狭川の西岸で山を背にして戦っていた。馬場隊は次々と討たれてその数を減じて行った。信春の身辺にも少数の兵しか残らなかった。
「お逃げ下され、山の中へ逃げこめばなんとかなります」
と家来がすすめたが、信春は頭を横に振った。とても逃げおおせるものではないと思った。彼は自分の年齢を考えた。
彼は辛夷(こぶし)の大木の根本に腰をおろして来るべき敵を待った。
彼は春先に咲く辛夷が大好きだった。その辛夷は新緑の枝を延ばしていたが、来年の春になるとまた美しい白い花を咲かせるだろう。死に場所として悪くはないところだと思った。
刀を引っ携げた数名の敵が同時に現われた。最後まで残っていた馬場信春の家来三人がこれと渡り合った。
「岡三郎左衛門・・・・」
と名乗って突然、斬りつけて来た者があった。馬場信春はその刀を見事に受けて立った。敵が名乗ったから自分も名乗ろうと思ったがその余裕はなかった。敵は馬場信春と知って斬りかかって来たようだった。遮二無二首を取ろうと斬りこんで来る、そのあせりがよく分かった。
相手は若かった。初めての合戦であるかのような気負い方であったが、隙だらけであった。その隙が見えていても、馬場信春にはそこへ斬り込むだけの力はなかった。
心身ともに疲れ果てていたのである。
(もう五つ六つ若かったならば・・・)
と彼は老いの身をなげいた。いや、疲れてさえいなければこんな若造には負けはしない。そうも思った。
敵はほとんど盲滅法に斬り込んで来たが、その度に馬場信春の刀にかわされた。敵は唸り声を発しながら、信春に体当たりをした。
信春は、その体力に押し負けて木の根元に倒れた。信春の上に男がまたがった。敵の右手に鎧通しがかまえられたのが見えた。
信春には、その刀の輝きがまぶしかった。
「ごめん・・・」
という声を耳にしたとき、信春は咽喉(のど)のあたりに熱いものを感じた。
「岡三郎左衛門、馬場美濃守信春殿を討ち取ったり」
と彼は大声を上げた。彼は馬場信春をずっと狙い続けていた。白地に黒のよろけ二条の山道の旗指物を追っていた。どうせなら大将馬場信春の首を取ろうと、一刻あまり、ただひたすら、白地に黒の二条の山道の旗指物の本陣を追っていた。乱戦になり、混戦になり、山道の旗は伏せられてしまったが、馬場信春とおぼしき大将の跡を追い続けていた。
彼は機会があっても戦わず、その力をたくわえながら執拗に追い求めた末、終に得たのがこの幸運であった。
合戦が終った後、信長は岡三郎左衛門を傍らに召してこの手柄を賞賛した。
信長は敵の武将の首を前に置いて、侮蔑(ぶべつ)的な言葉を吐く場合がしばしばあった。だが、馬場信春に対しては、
「あっぱれ、世に類(たぐい)なき名将・・・」
という言葉を使った。信長としては珍しいことだった。敗戦となった武田軍の殿(しんがり)となって戦った馬場信春の采配ぶりを見てあっぱれと感じたのであろう。』
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また、著者は「信長公記」に書かれている長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)について、次のように述べている。
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『「信長公記」は、文献資料としては良質なものであるが絶対的なものではない。この記録にも見られるとおり、鉄砲の偉力を強調しすぎている。確かに設楽ヶ原の合戦では、その日に丁度梅雨が上がったので連合軍の鉄砲がフルに活躍した。しかし、鉄砲だけで勝負が決まったのではない。武田隊も、鉄砲の偉力は充分知っている。無防備で向って行けば鉄砲に負けることは分かりきったことだ。分かっていて、自殺的攻撃を六時から午後の二時まで、実に八時間も繰り返すということはあり得ない。緒戦では連合軍の鉄砲が威力を発揮して、武田軍に損害を与えたであろうが、その後になってからは、武田軍は鉄砲を防ぎながらの攻撃方法を取ったに違いない。実際に設楽ヶ原の合戦場を見て回って、武田側の部将の墓(戦死した場所)を見ると、土屋昌続一人が柵の近くで死んでいるだけで他のほとんどの部将は、柵からほど遠いところで討たれている。
つまり武田軍が多くの死傷者を出したのは、八時間戦った後の敗戦の最中、即ち退却の途中であったと考えるべきである。
一部の史家が設楽ヶ原の合戦を「馬と鉄砲」の戦いだと単純に解釈して以来、それが、俗説を次々と生み、武田勝頼をして悲劇の中の愚将に仕立て上げたのであろう。
勝頼が愚将なら、勝頼の下で働いた武田の諸将もまたすべて愚将ということになる。
当時の武田の内部事情を分析せず、勝頼一人の考えで武田軍一万五千を生かすも殺すもできるという、そもそもの仮定が間違っているから、「馬と鉄砲」の誤謬(ごびゅう)が出たのであろう。勝頼も武田の諸将も決して愚将ではなかった。やれるだけやって敗れたのである。なによりも八時間の戦いの長さがそれを示している。』

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私が紹介してきた新田次郎氏の「武田勝頼」の引用も、いったんここで終わりとなる。思えば、私が長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)を扱いたいと思った動機は以下の2点のみだ。

・長篠の戦いの内容は、「武田騎馬軍が柵へ突撃して鉄砲に撃たれて敗けた」という単純な構図ではないはず。
・設楽ヶ原の合戦が緑豊かな場所で行われた。山や田んぼのある風景。

私は立派な城郭のある城や町、海上などの戦いにはあまり興味がない。山や丘陵、田畑のある場所で行われた戦いに興味がある。城でも山城なら好きだ。戦い自体よりもその景色や場所が好きなのだろう。現代であれば、そのような田舎の見晴らしの良い日の当たる山の斜面などで、おにぎり等を食べたいと思う。4~6月が気温的にも一番良い季節かもしれない。
当初は長篠の決戦だけ取り扱おうと思っていたのだが、その伏線を描いたほうが武田勝頼の人物像やその背景も分かりやすく、家臣団内部の問題なども理解しやすくなるので、思いのほか話が長くなってしまった。
新田次郎氏の小説「武田勝頼」はこの引用時点で、ストーリーの半分ほどである。興味のある方は実際に小説で続きを読んで欲しい。武田家が亡ぶのは長篠の合戦が一つのきっかけではあったかもしれないが、武田はまだまだ再起を図る力を残していた。その後、北条家と同盟し勝頼は正室を迎えた。また上杉家とは同盟を結びつつも上杉家の家督争いの際に、北条家の婿と敵対する側と手を結んだ。人生は選択の連続だと言うが、正しい選択を選んだのかどうかという事よりも、自ら決断した選択の中でその人はどう生きたのかについて読者は興味を持つのだろう。

決戦時の設楽ヶ原は梅雨明けと重なり、馬防柵のあたりの地面はぬかるんでいたと思われる。連吾川も少しは増水していたことだろう。そのような足の動きの悪い中で武田軍は鉄砲の標的になったことも事実かもしれない。遠路はるばるやって来た武田軍はそのような悪条件の中で、地元の連合軍が構える陣城へと攻め入った。戦闘の前半は城攻めに近い不利な戦いとなっていた可能性も大きい。
それでも戦う決断をしたのには、織田・徳川連合軍が山と山の間の窪地に軍勢を隠し、兵力を少なく見せかけていた可能性もある。前回の記事の中で設楽ヶ原資料館のパンフレットを載せたが、その中で左上の羽柴軍などは開戦時にかなり後方に陣を構えている。これは単純に後方に対する備えか。それとも自軍を相手から隠していたのか。もしくは万が一、佐久間隊が本当に裏切った場合に対する備えだったのだろうか。
また、武田を攻撃に向かわせた要因に、柵を設け防戦一方の気配を見せた連合軍の士気は低いと武田軍に思わせた事も大きかったのかもしれない。全ては推測になってしまうが、あらゆる可能性を考えて当時を推し量ることは後世に生きる私たちの楽しみの一つかもしれない。

さて、私の長篠の戦いの文章の大部分を占める事になった小説「武田勝頼」の著者である新田次郎氏について紹介したいと思う。それには以下の文を引用したほうが分かりやすいので紹介する。
「武田信玄」(ぱる出版)の中の尾崎秀樹氏の【新田次郎にみる信玄像】より一部引用 【 】は引用個所。

【新田次郎が武田家の歴史に関心を抱くようになったのは、中学を卒業する前後かららしい。「信玄堤に雪が降る」と題した歴史エッセイの中で、彼は次のように回想している。
「中学を卒業して受験のために上京したのが昭和5年の3月のことで、その煙っぽい汽車の長旅の中で窓外に見た甲州の景色は今とほとんど変わっていない。この時、私の前に老人が座った。昔のことをよく知っていて、山梨県の大月の駅から見える岩殿の城跡を指しながら、
『小山田信茂はあの城で、謀叛を起こしたのだ。勝頼を迎える準備をすると言って、城に帰ると、突然勝頼に攻めかかったのだ。行く手をさえぎられた勝頼、信勝の一行は田野で織田勢の追撃を受けて、進退きわまり、切腹して死んだ』
老人は武田家滅亡の様子を手に取るように話してくれた。当時は諏訪から新宿まで8時間かかった。この汽車の中での話はいたく私を動かした。
生きんがために勝頼にそむいた信茂が、あっさり信長に首を斬られたことになったのも面白かった。私が武田家の興亡に興味を持つようになったのはこのころからであった」
諏訪中学(現在の清陵高校)を卒業して上京した彼は、中央線の車中で出会った老人から史蹟を指して教えられ、話を聞いているうちに、それにひきこまれ、土地の人々の心に歴史が深い影を投げていることを改めて知った。
新田次郎の先祖は諏訪氏に仕えた郷士だったそうである。武田信玄は甲州・信州の全域を支配し、諏訪一帯もまた武田氏の滅亡までは、その版図にふくまれていた。信玄は諏訪頼重を自刃させたが、諏訪家の血統はのこした。頼重の室は信玄の妹であり、その子に諏訪家を継がせたし、また頼重の娘を側室に迎え、その間に生まれた勝頼に武田家の跡を托している。新田次郎氏は『武田信玄』のなかで、頼重の娘を湖衣姫と名づけ、若き信玄に限りない愛情をそそがせているし、一般には愚将のように語りつたえられた勝頼を、信玄に劣らない武将として描いている。これはおそらく作者の郷土諏訪への愛着の現われとも見られる。新田家には古い武具も残っていた。母方や父方の祖父から、いろいろ昔ばなしを聞くことも少なくなかったらしい。曾祖父が諏訪の殿様のお供をして江戸へ出たときの話や、武田耕雲斎の率いる水戸天狗党の残党と、諏訪藩が和田峠で戦ったおり出陣した話などもあった。土地に伝わる説話や伝承、歴史の故事なども教えられた。それがいろいろな形となって『武田信玄』などの歴史長編の中に生きている】

私も新田次郎氏は家臣団よりも武田勝頼寄りに小説を描いていると思う。決戦前夜についても勝頼は退却を考えていたという設定である。穴山信君も実際にはどこまで勝頼と対立して、どこまで独自路線を貫いていたのかは分からない。佐久間信盛の内応説も確定した事実ではないだろう。やはり新田次郎氏が諏訪の出身だという事が大きく影響している。武田家家臣の山県家を扱った霧島兵庫氏の小説『甲州赤鬼伝』では、勝頼は真逆に描かれている。決戦前夜の会議では退却を主張する山県昌景を「くどい。いくつになっても命が惜しいか、この老いぼれめ」と侮辱した言葉で吐き捨てている。
私も実際には勝頼は連戦連勝の勢いに乗って設楽ヶ原の戦いに臨んだのではないかと思っている。梅雨明け直前の影響で雨も降っていたかもしれない。それなら鉄砲の偉力も半減される。それに敵は柵の背後に隠れ士気は低いと考えられた。多くの敵は山間部の窪地に潜み戦力を低くみせかけていた。勝頼は最後の連日の戦いの最期のひと押しで設楽ヶ原の戦いでも勝利できると判断したのではないだろうか。並みいる宿老達の反対も押し切った可能性もある。

それでも小説『武田勝頼』は読んでいて楽しい。なにより設楽ヶ原の戦いが鉄砲により騎馬軍団が打ち倒されるという単純な構図ではなく、時には柵を破り敵の奥深くまで迫っていた様子が描かれている。退却時の戦いも含めて混戦であったことが分かる。そして決戦前夜は勝頼も退却を考えていた様子が描かれている。
決戦前夜の会議の真実は如何にあったのだろうか。真実は当事者たちのみ知るという事だろうか。

その26へ続く

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