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決戦! 長篠の戦い その22

(上写真は新城市の馬防柵に設置の長篠・設楽原合戦屏風絵図より)
 設楽ヶ原の合戦について、新田次郎氏の小説「武田勝頼」をベースに私なりの想像や別の著者の資料を参考にして、小説ふうに合戦の模様を作ってみた。内容の多くは新田次郎氏の小説が反映されている為、まず初めに新田氏が合戦を描く前に文中で断っている次の個所を引用しておく。

『設楽ヶ原の合戦について記述したものは多いが、多くは徳川時代に入ってから書かれたものでその史実性がとぼしい。設楽ヶ原の合戦の原典を大別すると『原本信長記』と『甲陽軍鑑』の二つである。史料としては『原本信長記』が良質であり、『甲陽軍鑑』は史料としては劣る。ところが『原本信長記』の記述は短くて、この合戦の細部については書かれていないし、『甲陽軍鑑』は間違いだらけで全面的には信用できない。江戸時代になって書かれた多くの俗書は原典を『甲陽軍鑑』によっているものが多いのであまり当てにはならぬ。『松平記』『三河物語』、成瀬家の『長篠合戦図屏風』などが比較的信用が置ける文献であろう。
 設楽ヶ原の合戦を解析した教科書的な著述としては、旧陸軍参謀本部編纂になる『大日本戦史』の中の「長篠役」がある。また高柳光寿氏著の『長篠之戦』がある。私は高柳光寿氏が『長篠之戦』の文中で指摘している「長篠役」の誤謬を認め、高柳光寿氏の『長篠之戦』の説を支持する。従って、この小説の骨子も『長篠之戦』によるところが多い。もっともこれは小説であるから、下敷きには『長篠之戦』を用いたが、内容はかなり違ったものになることをまず読者にお断りしてから、日本の合戦の歴史中もっとも謎が多く、もっとも悲惨な大会戦を描くことにする。』
 
その他資料も含めて以下に参考文献を記載する。
新田次郎 『武田勝頼』
PHP研究所『歴史街道 長篠合戦の真実』
鴨川達夫 『武田信玄と勝頼 文書にみる戦国大名の実像』

 信長は初めて見る武田軍の陣形を眺めながら考えていた。ついにこの時がやって来た。進むにしろ退くにしろ、それなりの打撃を与えねば気が済まぬ。信長の頭に浮かぶのは信玄がまだ存命の頃の事であった。
 元亀3年(1572年)の秋までは信玄と信長は友好関係にあった。それが同年の冬になり突然、信玄が遠江・三河に侵攻してきた。信玄は三方ヶ原の戦いで家康を破り岐阜に迫ろうとしていた。信長にとっては北は浅井・朝倉、西は本願寺などの敵対勢力に囲まれ、東の武田まで敵対勢力になることは完全な信長包囲網が形成されることになり、死活問題であった。信長にとっては予想外の裏切りであった。友好関係にあると信じていたのに突如反対陣営の主将として登場したのである。その驚きと怒りの感情を同年の11月に上杉謙信に宛てた書状において以下のようにぶちまけている。
「信玄の行ないは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の嘲笑を顧みないものだ。(信玄に対する)遺恨は幾重にも重なり、尽きることがない。(信玄とは)二度と再び付き合わない。」
 しかし信玄はいずれ信長と対決する考えはあったものの、この時は家康に一定の打撃を与えればそれで十分であったようだ。というのはこの時の出陣は当時信長に圧迫されつつあった勢力によって、反信長陣営の主将として引っ張り出されたのである。いうまでもなく、信玄は関東・中部の人間であるので機内・近国の政争は、ほとんど別世界であったと思われる。そのため、本心は三方ヶ原の合戦の後は飛騨への工作をしつつも、早く甲斐へ帰りたかったのである。朝倉義景や本願寺との連携よりも、上杉謙信に攻められつつあった越中や、謙信不在時に攻略の好機であった越後のほうが気になっていたのも、その意味では当然なのである。
 だが信長にとっては信玄の心中はともかく、裏切られた事には変わりがなく、許しがたいことであった。
 そもそも信玄が永禄11年(1568年)に今川氏真の領土である駿河に侵攻できたのは信長との和睦があったからであった。家康も信長に従い今川領の遠江に侵攻した。信玄は信長を通じて家康を動かしたのだと思われる。また、春が来て謙信が動けるようになると信長に仲介してもらって謙信と和睦しようとした。このように、信玄のこの時の戦略は信長に大きく依存していた。当時、信玄は駿河の今川氏真・越後の上杉謙信に挟まれていた。しかも今川氏真に対して戦端を開けば、それまで中立的立場だった小田原の北条氏康・氏政父子も氏真に味方することが予想された(氏真は氏康の女婿)。つまり三方を囲まれる形になり、さすがの信玄も単独で勝つ見込みがなかったに違いない。そこで信玄は謙信が遠くに出陣しにくい厳冬期を選び、家康に同時に氏真に攻めかかかるように信長を通じて手配した。信玄が「信長に見放されたら自分は滅亡してしまう」と述べた書状があるが、これは本音であったようだ。
 このような信長の協力があって駿河侵攻ができた恩義を忘れ敵対したことを恨み、これより3年後、長篠の戦いで勝頼に勝利したことを報じた書状では、信玄が「恩を忘れて勝手な真似をした」ことに言及した上で、今回その鬱憤(うっぷん)を晴らしたと述べている。信長はあとあとまで信玄を恨んでいたようだ。
 天正3年(1575年)早朝、茶臼山にいた信長はこの時の恨みをいざ晴らさんと自軍に再度の指示を与えた。鉄砲をうまく使え。敵を柵に引き付けろ。敵は1万5000、味方は3万8000、人数はこちらのほうが多い。持久戦になれば必ず勝てる、と。

長篠の戦い布陣図

↑ 「シリーズ実像に迫る 【長篠の戦い】 金子拓著」に掲載の織田・徳川軍と武田軍の布陣図を真似して自分で作ってみた。  ↑
 ※図をクリックすると拡大して見ることができる。ちなみにベースとなっている地図は現在の衛星写真である。

 この日の早朝、武田軍の兵士達は小雨に降られながらその時を待っていた。腹は満たされていた。昨日の夜は今日の決戦に備えて飯が炊かれたのでたくさん食べた。思えば今まであまり眠れぬ日々が続いた。昨夜もよく眠れなかった。現地の木や草を刈り簡易的に作った雨除け、あるいは自然に生えている木々を利用して雨を避けて寝ていたが、完全には雨を避けられるはずもなく体は絶えず濡れていた。風邪をひいている者もいた。また、長期の滞在で体も洗えず体がかゆくなっている兵士達もいた。正直、もう甲斐や信州へ帰りたいと思っていた。だが、ここまで連戦連勝である。相手は柵などを設置し鉄砲も多いそうだが、士気は低いと噂されていた。
 昨晩の食事が終わると侍大将は部下たちに言っていた。なぁに、もうひとふんばりだ。いつものように仕事をこなすだけだ。相手がどれだけの人数でかかって来ても恐くはない。甲州武士は尾張武士よりも3倍以上強い。三河の兵はともかく、尾張の兵など鉄砲に気をつければ問題ない。
  今までの実績が自信につながっていた。勝利後の帰路では川で体でも洗って帰ろうと皆は笑い合っていた。それほどの余裕を感じられる雰囲気であった。

 まもなく開戦の時。先ほどまで降っていた雨は上がり雲間からは日が差し始めていた。昨夜とは打って変わって武田軍の空気は張り詰めていた。それは上層部の部将たちから伝わってくる空気だった。兵士達はいつもより鬼気迫る雰囲気を敏感に察知していた。だが今はこの張り詰めた空気に武者震いしながら、ただただ前方を見ていた。陣振れがあれば、いつもどおり働くのみ。それしか考えられなかった。一同、闘志をみなぎらせていた。
 そして午前6時、武田本陣より押し太鼓が鳴った。武田軍は全線に渡って動き出した。陣中の押し太鼓を打ち鳴らしながら連吾川まで来た。武田軍は騎馬武者を先頭として、その後から足軽が追従してきた。得意の進軍隊形で連吾川を越えた。

その23へ続く

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