待ち・望む 2020.9.2

今日は午前中に再び猫のいたあの小高い丘を訪れてみた。こんな道あったっけ?今回もそう思わずにはいられない場所だった。田畑を抜けて正面の山の横にある棒道を抜けると丘が現れた。今まで気づかなかっただけだろうか。
そんなことを考えながら丘を登ると、あの猫が少し離れた横の茂みから現れた。ニャー!よくぞ来てくださいました。猫はテレパシーで話しかけてきた。やあ!おはよう。私は挨拶をした。

今日はあの街へ案内します。猫は言った。
私はここへ来るまでの間にいろいろと考えた。数日考えた末にこの不思議な世界を受け入れる覚悟を決めた。もう何が起きても不思議ではない。そんな心の準備ができていた。そして猫に案内をお願いしてから坂をくだった。
ここは1980年代の街です。私が案内できるのは途中までです。猫は街の入り口まで来ると言った。そして街を歩きはじめると今まで人影がなかった道路や商店街、アパートの隙間から人の気配を感じられるようになった。そして遠くにはマンションまで見えるようになってきた。まるで夢の中を夢と気づきながら歩いているようだった。

夢じゃないよ!猫が私の心を読んだかのように言った。そうだ、もうだいぶ街の中まで歩いてきたから二足歩行になります。そう言うと突然、猫はアニメの「長靴をはいた猫 80日間世界一周」に登場する猫の姿になった。私は唖然とした。これは夢ではないのだろう。しかし普通の現実ではない。おそらくヘミシンクを使っている時と同じ状態なのだろう。つまり変性意識状態になり別の世界を訪れているのだ。体は家の中にあり、意識だけがこの世界に来ているのだ。もっとも私はそうした状態になった事はほとんどないが。

しかし、そう思ってみても何かが違った。実際に物理的な体がこの場所を訪れているのだという確かな感覚があった。わーい、これで歩きやすくなった。猫は口を動かして実際に言葉を発していた。体のサイズは子供の大きさだった。そういえば猫の名前を聞いてなかったと思った。猫が変身した時、とっさにそう思ったのだ。名前は言えないことになっています。猫は言った。こうなったら好きなように名前をつけてやれ。猫田猫太郎。私はそう名付けた。

少しふざけた名前ではあったが、これで良いと思った。猫もそれで良いと言った。だから、これからは猫太郎と呼ぶことにした。その80年代の街では信号機はまだLEDではなかった。商店街のおもちゃ屋ではファミコンが販売されていた。ちょうどブームになっているようだった。店頭の道では電池で動く猿の人形がシンバルを叩きながら動き回っていた。子供達が数人おもちゃ屋の周りに集まっていた。八百屋もあり魚屋もあった。魚屋の前に来たとき魚屋の店主が猫太郎に声をかけた。活きのいい魚入っているよー。猫太郎はどうも!またよろしくと返答した。

猫太郎は魚を買って食べるのだろうか。私は疑問に思って考えていた。すると猫太郎は、実は魚は食べないんだよ。好きなのはネコ用のペットフード。特に焼津のまぐろの缶詰がお気に入り!と私に話してくれた。私が昔飼っていた猫の好みと一緒だった。そして、しばらくすると水族館があった。さすが不思議な世界!と私は笑ってしまった。こんなところに水族館があるはずがない。東京ドームを思わせるその水族館は青い色の建物で円形であった。入り口などの1階部分の周辺の屋根は円状になっており、複数の鉄柱で支えられていた。猫太郎は言った。水族館はいろいろな魚がいて楽しいよねぇ~。私はそうだねって言っておいたが、本当はそこまでは興味がなかった。中に入るつもりはなかったが、近くまで行ってみた。猫太郎は少しはしゃいでいるようで、水族館のチケット売り場付近の鉄柱の近くで何か考えているようだった。水族館に入る気はなさそうだった。よし、そろそろ出発しよう!っていう意思が猫太郎から伝わってきた。そして猫太郎がこちらを振り向いて走り出そうとした時、猫太郎は頭を鉄柱にぶつけた。ゴーンという音があたりに響いた。猫太郎は頭を抱えて悶絶していた。大丈夫か!と私は猫太郎を心配した。しばらく応答がなかったが、やがて歩けるようになった。

最初、猫太郎の実態を私は疑っていた。実は幽霊みたいな存在なのではないか。体が半透明な存在なのではないかと。しかし水族館での一件で猫太郎は実在しているのだと確信した。頭を鉄柱にぶつけて周りにあんな鐘をついたような音を響かせたことによって。
水族館を後にして歩きはじめると本屋があった。猫太郎を外に待たせて私は本屋に入ってみた。漫画コーナーに行くと藤子不二雄の漫画「魔太郎がくる!!」が置いてあった。懐かしいなーと思って少し立ち読みをした。それは新装版ではなく改訂前の漫画であった。新装版はオリジナルの残酷なシーンなどがカットされており読み応えがなかったのを思い出した。それにしても今読むとかなり不気味な絵で復讐シーンも残酷な描写であった。時代とともに本や漫画も変化してしまう。それも仕方ないな。そう思った。ドラクエ3のゾーマだって当時の私にとっては絶望と恐怖を与える恐ろしい存在であった。
最初に勇者に放つ有名なセリフ「○○よ、なにゆえもがき、生きるのか?滅びこそわが喜び、死にゆくものこそ美しい。さあ、わが腕のなかで、息絶えるがよい!」このセリフの後にゾーマとの戦いが始まるのであった。
特に8ビットの映像だと顔があまり見えないのが逆に恐怖であった。それが今のゲームではかわいらしい顔になってしまって・・・。
グリム童話も原作は残酷な話であった。数年前にそういった「本当は怖いグリム童話」シリーズがブームになったのを思い出した。
やはり時代とともに残酷な描写は表から消えてゆくのだと感じさせられた。

さて、本屋を出ようとレジの近くを通りがかった際に近くの壁にかかっているカレンダーに気づいた。1984年9月。そうか。この世界では今年は1984年なのか。そして本屋の外に出て表に平積みされている本に目をやった。その後ろの本屋の窓には宣伝用のポスターが貼ってあった。ベストセラーと書かれていた。その本のタイトルは『空気さなぎ』であった。
この本の名前には見覚えがあった。たしか作者はふかえり。
すると、猫太郎が声をかけてきた。さあ、そこへ行ってみよう、と。

本屋を離れて街をさらに進むと、路地が増えてきた。いくつかの路地の入口には「立ち入り禁止」のバリケードが置いてあった。猫太郎はそれについて説明してくれた。君は入りたければバリケードの先に進んでもOKだよ。君自身はOKなのだが、君の中の観念の一部が立ち入り禁止のバリケードを作っているんだよ。俺の中の観念が?意味がよく分からなかった。
猫太郎は続けた。それは年齢制限的な意味が強い。つまりある程度の経験を積んでいないと、その中に進んでも目にする光景の意味が理解しにくい。誤った方向で理解してしまう可能性もあるってことだよ。
レンタルビデオ店の18歳未満は入れないコーナーの表示と同じ意味ってこと?私は猫太郎に尋ねた。
ある意味、そうとも言える。でも具体的には違っている。ひとつには表現された行為をある種の象徴として理解できるか。いや、理解できなくてもいい。大事なのは理解しようと試みる思考が働くかってことだね。
試しにバリケードの前に進んでみると、そのバリケードからは奇妙な光が放たれていた。その光から放たれていた印象はGOあるいはOKのイメージであった。なるほど、そのバリケードの前に立つ者が条件を満たしているか否か、自然と判断しているようだった。条件を満たさないとNOあるいはNGのイメージが与えられるのであろう。

私は少し考えた。でもさぁ~いいじゃないか。男女の関係って誰もが興味を持つもんだよ。多少条件を満たさないほど若かったとしても少しくらい進んでみても。そんな発言をしているうちに自分がドキドキしてきた。それに全ての描写が象徴としての意味を持っている訳ではないだろう。
猫太郎は笑っていた。おぬしも好きよのう~。猫太郎にからかわれてしまった。この猫は何者なのだろう。
そして猫太郎は言った。あと、それだけの意味じゃないけどね。世の中には知らなくていいこともある。生きているうちに必ずしも世の中の全てを知る必要はない。
そっかぁ。そうだよな。知らなくていい事もある。自分の波長や振動数に合わない物事が関わっている世界は特にそうだろうな。私はそれについてもしばらく思いを巡らせていた。闇の世界、あらゆる宗教、あらゆる信条・・・。何か不吉な感じがしてきたのでそれ以上考えるのをやめた。
立ち入り禁止。それは私自身に対してだけでなく、私を通してこの世界を見ている一部の者達への注意喚起なのかもしれない。その種類は路地ごとに違っている。そして先へ進むと決めた者達は自己責任で進まなくてはならない。
そういった路地は時々街の中に存在しているのであった。

ところで、さっき本屋の外で言っていた、「そこへ行ってみよう」のそこってどこの事?私は猫太郎に尋ねた。今に分かるよ。ほら、あの場所だよ。あのアパート。すると、意識がそのアパートの中にいる2人にフォーカスされた。天吾とふかえりが見えた。
何でもありか。この世界は。

僕はここで待っているよ。この先への意識フォーカスには立ち会わないからね。猫太郎は言った。彼は少し私から距離をとって猫座りをした。そのうち毛づくろいを始めそうな感じであった。
そして私は再びフォーカスをアパートの中の二人に戻した。
さらに小説の世界を思い出した。
ふかえりの抑揚のないしゃべり方を思い出した。それがとても好きだった。疑問符をつけないしゃべり方がかわいらしくて好きだった。
ふかえりの好きな音楽はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻と2巻。そして『マタイ受難曲』。
好きな小説は古い書物では平家物語と今昔物語。それより新しい文学は森鴎外の『山椒大夫』。
ボーイフレンドは作らない。妊娠したくないから。
ずいぶん風変わりな少女だ。

そして、小説に登場する天吾とふかえりの二人の会話のシーンを思い出した。それは私がとても好きな会話のシーンだった。それは天吾がチェーホフの『サハリン島』をふかえりに読んで聞かせる次の会話だった。

『 冬になると、小舎はかまどから出るいがらっぽい煙がいっぱいに立ちこめ、そこへもってきて、ギリヤーク人たちが、妻や子供にいたるまで、タバコをふかすのである。ギリヤーク人の病弱ぶりや死亡率については何ひとつ明らかにされていないが、こうした不健全な衛生環境が彼らの健康状態に悪影響を及ぼさずにおかぬことは、考える必要がある。もしかすると背が低いのも、顔がむくんでいるのも、動作に生気がなく、大儀そうなのも、この衛生環境が原因かもしれない。

「きのどくなギリヤークじん」とふかえりは言った。

 ギリヤーク人の性格については、さまざまな本の著者が各人各様の解釈を下しているが、ただひとつの点、つまり彼らが好戦的ではなく、論争や喧嘩を好まず、どの隣人とも平和に祈り合っている民族だという点では、だれもが一致している。新しい人々がやってくると、彼らは常に、自分の未来に対する不安から、疑い深い目で見るものの、少しの抵抗もなしに、その都度愛想良く迎え入れる。かりに彼らが、サハリンをいかにも陰鬱な感じに描写し、そうすれば異民族が島から出ていってくれるだろうと考えて、嘘をつくようなことがあるとしたら、それが最大限の抵抗なのだ。クルデンシュテルンの一行とは、抱擁し合うほどの仲で、L・I・シュレンクが発病したときなど、その知らせがたちまちギリヤーク人のあいだに広まり、心からの悲しみをよび起こしたものである。彼らが嘘をつくのは、商いをする時とか、あるいは疑わしい人物なり、彼らの考えで危険人物と思われる人間なりと話す時に限られているが、嘘をつく前にお互い目配せを交わし合うところなど、まったく子供じみた仕草だ。商売を離れた普通の社会では、一切の嘘や自慢話は、彼らにとって鼻持ちならないものなのである。

「すてきなギリヤークじん」とふかえりは言った。 
 
                                                                                                                     』

なぜ、この二人の会話が好きなのかはよく分からない。何か微笑ましさが感じられるからなのか。私にとっては未開の地、サハリンについての記述があるからなのか。私はサハリンについて考えてみた。まったく知らない土地だ。でも広大な美しい景色が広がっているのであれば観光してみたいと思った。そのくらいの北の寒い地方であればハスキー犬を飼って一緒に駆け回りたいと思った。夏も熱中症の心配はないだろう。あるいは最近は温暖化でそうでもないのだろうか。

天吾とふかえりの二人へのフォーカスはそれで終わった。その後は、意識を街中に戻し猫太郎を見た。猫太郎は予想通り自分の身体を舐めながら毛づくろいをしていた。私の視線を感じると、もう終わりですか?と尋ねてきた。今日はもう終わりにするよ。
そしてその後は猫太郎と一緒に街中をぶらりと歩いた。結局、猫太郎は途中までしか案内できないと言っておきながら、ほとんど一緒に街を案内してくれた。
そろそろ帰るよ。
では、丘に戻りましょう。猫太郎は最初に来た丘に案内してくれた。丘に戻るとモワーっと霧が晴れた感じがした。そして振り返って街を見下ろすと人々の姿が見えなくなっていた。そこには町の姿があるだけだった。
街の中ではそれほど長い時間を過ごした感じはしなかったが、丘に戻ると既に夕方になっていた。時間の流れ方が違うのか?

1日目と同じように猫太郎に別れをつげた。再び戻ってくると約束をして。そして家に着いた。
家の2階の窓から外を眺めた。夕焼け空だった。あの丘のほうを眺めてみた。家からは丘は見えない。今頃は猫太郎も自分の住処に帰っていることだろう。そう思ったとき、空の上に小さな物体が飛んでいるのが見えた。それは光りながら飛んでおり、不規則な動きをしたかと思うと消えてしまった。それはあの丘の上空付近だった。UFOだろうか?いや、今までも飛行機と見間違えたりとさんざん騙された。たぶん違うだろう。

今日はあの街では不思議なことばかりだった。天吾とふかえりは村上春樹の小説「1Q84」に登場する人物。小説の中の人物が街に登場したのだ。
次は何だろうか。実写版の映画「アラジン」のように魔法の絨毯が登場するのだろうか。しかし、そのようなディズニーの雰囲気は感じられなかった。どちらかというと、ジブリ映画の「千と千尋の神隠し」の雰囲気が近いかもしれない。映画で夕方になると黒い影が現れて夜になるとはっきりと姿を現す住人達の様子が、私が訪れた街の住人達の出現方法に似ていた。

街を望む丘。あの丘は他の人にも見えているのだろうか。そんなことをしばらく考えていた。
そして今度はいつ訪れようか。不思議な街を望むあの丘を。
夜になって寝る前に今日も月を確認してみたかった。しかし天気が悪くて見えなかった。たぶん月はひとつだったのだろう。

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