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シリーズ 「街道をゆく」をゆく 005

第1回 「湖西のみち」

その5    近江聖人 中江藤樹と近江高島(2)

藤樹神社の横にある「藤樹記念館」は昭和63年(1988年)3月に中江藤樹の生誕380年を記念して建設された資料館である。藤樹神社の宝物と藤樹書院所蔵の資料を収蔵・展示しており、藤樹についてさまざまな角度から知ることのできる場所である。一人の人物について子供から研究者まですべての人に役立つように丁寧に展示も考えられたなかなか良い資料館だと感心した。

近江聖人中江藤樹記念館

また、陽明学関係の図書についても1万冊におよぶ蔵書を所有しているとのこと。これほどの文化的価値のある施設が町にあるというのは非常に誇るべきだと思う。

中江藤樹は諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門。慶長13年(1608年)近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川。この後訪れる「藤樹書院」のあった場所)で帰農していた中江吉次の長男として生まれた。

若干9歳のときに伯耆国米子藩(鳥取県米子市)藩主の加藤貞泰の武士であった祖父の徳左衛門吉長の養子となり、実親のもとを離れ米子に移る。元和2年(1617年)主君の加藤貞泰が伊予大洲(愛媛県大洲市)に転封となると、祖父母とともにこれに従い大洲に移住。元和8年(1622年)に祖父が亡くなると15歳で100石取りの家督を継いだ。

子供のころから学を好み、11歳で『大学』を17歳で『四書大全』※1を読んだが、若いころの藤樹は、当初学んだ朱子学の影響もあり、自らにも人にも厳しい姿勢で接し、人を批判することを躊躇わない尖った性格だったようである。このような姿勢は藩内で軋轢をうみ、孤立することも少なくなかった。仲間にときにはその厳直な姿勢から、彼の姿が現われると「孔子殿が現われた」と揶揄されるようなこともあったという。
しかし、藤樹のこうした儒教の素養と実践に感化されるものも藩内に少しづつ現われていた。

こうした中、寛永11年(1634年)27歳で藤樹は藩※2に対し辞職願いを提出する。実は、寛永2年(1625年)に藤樹の実父吉次が没していて、故郷の高島郡小川村には母のみが一人で生活していた。藤樹は何度か母を大洲に呼び寄せようとするが、老母は、なかなか住み馴れた場所を離れたがらず首を縦にふらない。このまま大洲に自分がいたのでは、一人遠く近江高島に残した母に対して儒教の最も大切な徳目の「孝行」ができないというのが辞職願の理由であった。朱子学の実践を旨として自他に厳しかった藤樹にとって、この矛盾は自らを許すことのできないものだったのだろう。

また、彼自身は喘息の持病を持っており、藩士としても十分な勤めができないという問題も抱えていた。

しかしながら、この願いは取り上げられず、藤樹は、結局、許しを得ないまま脱藩して京都に戻ってしまう。脱藩は主君への奉公を放棄する重罪ではあったが、大洲藩は当時、隣藩の伊予松山藩の蒲生家が、当主忠知が嗣子なく死去したため、断絶改易となり、次の城主が決まるまで松山城に在番(城主が決まるまで代わりに城を守ること)することになって、それどころではなかったこと、また、すでに家中の重職の中に藤樹をしたう一定の理解者がいたこともあり、不問とされたようである。

加藤直泰の付家老、佃一永に提出された辞職願

この後、藤樹はすぐには近江に戻らず、百日あまり京都の知人の宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのを待つ。しかし、特段藩の方からの咎めもなかったため、18年ぶりに母の待つ近江高島の小川村に戻ることができた。
武家としての勤めを辞めたものの、小川村にはそこそこの田畑があったようで生活が困窮するほどではなかったらしい。また、米や酒を売買して利鞘を稼いだり、農民に低利での貸付をしたりして利も得ていた。寛永14年(1637年)には伊勢亀山藩士の高橋小平太の娘・久と結婚する。
この頃から門人が藤樹の門を叩くようになってきており、寛永16年(1639年)、藤樹32歳の頃には塾としてもひとつの形ができあがったようで、「藤樹規」という門人の心得が作成されている。


「藤樹規」

また、大洲藩や新谷藩の藩士たちのうち、彼を慕い近江を訪れて門人となる者も現れるようになり、寛永17年(1640年)には彼らの求めに応じて『翁問答』を著すこととなる(しかし、実際に彼が校訂をした上でこの本が出版されるのは慶安3年(1650年)である)。

翁問答と鑑草


寛永18年(1641年)には、のちに藤樹の思想から発展させ独自の陽明学を打ち立て、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰ら、尊王攘夷思想の思想家たちに影響を与えることになる熊沢蕃山が彼の元に入門する。このようにして彼の元には彼の儒学を学ぶ人々が集まってくるようになる。それは武士だけでなく、付近の農民や庶民も含まれ、在郷の村民たちに非常に慕われた。藤樹の屋敷には、藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。

藤樹書院にある藤の木

正保元年(1644年)彼が37歳のとき、『王陽明全集』に触れ、これに感銘を受け、朱子学から離れ、陽明学に入っていくことになる。
陽明学は朱子学を批判して「心即理」、「知行合一」、「致良知」の説を主張する。「心即理」とは、心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するという考え方である。「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人である)というように、すべての人が本来的に聖人であるので、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、聖人となるというものである。儒学を士大夫の学ではなく、庶民すべてが聖人となれるという考えは、彼の元に武士だけでなく庶民もまた学び、その影響を受けたということに繋がっているのだろう。「知行合一」とは、知ることと行うことは同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離できないものであるとする考えである。「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」とされる。知れば行動することなるし、行動しなければ知ることは完成しない。いわば「行動・実践の儒学」である。

藤樹の筆による「致良知」

中江藤樹の主要著作とされる『翁問答』は草稿段階では、彼が『王陽明全集』に触れる前に書かれているため、藤樹の『翁問答』の時点での思想が必ずしも王陽明のそれと一致しているわけではない面もあるようだ。しかし、『翁問答』に手を付ける前に、陽明学をベースにした易学などの書『性理会通』や王陽明の弟子にあたる王畿の言行録である『王龍渓語録』に触れていることもあり、一定の陽明学の知識と影響はすでに受けていたと思われるし、また、『翁問答』について彼自身が校訂して出版されるのは『王陽明全集』に触れた後なので、一定の考えの訂正は反映されていると考えるのが妥当だろう。
また、正保4年(1647年)の秋、藤樹は『鑑草』を著す。『鑑草』の内容は一般の女子向けに家庭内の道徳について書かれたものである。(残念ながら現在、『鑑草』はなかなか手に入れることができないので、私はまだ読めていない)
慶安元年(1648年)には門人が増えて手狭になったため、屋敷を広げてのちに藤樹書院とされる書院を建て増ししている。

藤樹書林の模型

正保3年(1646年)には夫人久子が26歳の若さで産後の日立ちが悪く没し、翌正保4年(1647年)、小川村のすぐ近くの大溝(高島市勝野)に陣屋を構える大溝藩主分部伊賀守嘉治の命で藩士の別所弥次兵衛友武の女布里を継室に迎える。
しかし、その翌年慶安元年(1648年)8月25日朝、藤樹は齢41歳でこの世を去った。藤樹が亡くなったことを知った在郷の村人たちは親類が亡くなったかのように嘆き悲しみながらその柩を見送ったという。






中江藤樹自筆の「孝経」









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※1 『四書大全』とは、明の永楽帝が、科挙(官僚の登用試験)の基準として編纂させた四書の注釈書である。四書とは、孔子以降の儒教において重要とされた『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の儒教の四つの重要な書物を指す。

※2 大洲藩は初代大洲藩主加藤貞泰が、元和9年(1623年)に死去するとそのその長男の五郎八泰興が貞泰の遺領6万石を相続することになるが、これに母の法眼院が、弟の直泰に分知(領地を分けること)することを求めた。幕府もこれを認めたが、これを認めない泰興との間で騒動になりかけた。寛永16年(1639年)に、親族の大名や旗本がなんとか両者を説得し、泰興が6万石を相続し、6万石の格式を維持するが、その内1万石を直泰分とし、幕府からの朱印状にもこの旨明示し、直泰は1万石の大名として取り扱われるという妥協案で落ち着いた。こうして作られたのが大洲藩の支藩の新谷(にいや)藩である。新谷藩は大洲藩の領内のいくつかの領地を組み合わせた藩で寛永18年(1641年)に陣屋(藩主の屋敷と政庁)は大洲城から7㎞ほど東方に行ったところにある新谷(現在は大洲市新谷町)におかれることとなった。藩士は元の大洲藩士の中から選ばれて転属させられた。中江藤樹は、相続について妥協案が成立する寛永16年(1639年)より以前、寛永9年(1632年)に直泰の家臣として転属させられている。したがって、形式上は彼が脱藩したのは大洲の本藩ではなく、直泰の家中である。ただし、実際には藤樹が脱藩した時点である寛永11年(1634年)では、まだ直泰への分知が合意されておらず、直泰の新藩に実体があるわけでもなく、また、この時点では新谷に陣屋がおかれる目途すら立っているわけでもないため「新谷藩」を脱藩したという言い方は問題がある。

※3 藤樹の教えが武士たちだけでなく、市井の一般庶民まで広がっていた一つの逸話として「馬方又左衛門の話」がある。
川原市(現在の高島市新旭町安井川)で馬方(馬に人や荷を載せて運ぶ者)をしていた又左衛門という者が、ある日、加賀前田家の飛脚を七里(約27㎞)離れた榎の宿(現在の大津市和邇)まで乗せて送った。その後、又左衛門は再び元の道を七里辿り、家のある河原市まで戻ってきた。一日の仕事を終え、馬から鞍を下ろそうとすると鞍に今日乗せた飛脚のものと思われる大金の入った包みがあることに気が付いた。
又左衛門は飛脚が困っているだろうと考え、馬には飼葉をやり休ませた上で、自分は疲れた体も厭わず、再び、榎まで一心に走って飛脚の元にこれを届けた。殿様から預かった大金を失くした飛脚はもはや生きてはおられぬと考えていたところ、又左衛門がその金を一銭も欠けることなく届けてくれたことに感激し、礼金を渡そうとするが、又左衛門は当然のことをしたまでとそれを受け取らない。この馬方の誠意とすがすがしい言動が、飛脚やその場にいた人々に大きな感銘を与え、どうしてそのようなことができるのかを尋ねたところ、馬方は日頃から師事している藤樹先生の教えを守っただけであると答えたという。



馬方又左衛門の逸話(中江藤樹記念館の展示)


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