「第4回 歌舞伎町のフランクフルト学派 かぶー1グランプリ2022」感想

 『スピッツ論 「分裂」するポップミュージック』の著者で批評家/ライターの伏見瞬さんと同じく批評家で「椎名林檎における母性の問題」(「すばる」2021年2月号)ですばるクリティーク賞を受賞しデビューした西村紗知さんが主催するイベント「歌舞伎町のフランクフルト学派」第4回にて、2022年に発表され、かつ単行本化されていない批評文を対象にしベスト1を決める「かぶー1 グランプリ」が開催され、拙論「Bring Me the Head of Sir Gawain──デヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』論」が推薦(どなたかわかりませんがありがとうございます)、かつ嬉しいことにベスト10に選ばれました(グランプリは山本浩貴(いぬのせなか座)「死の投影者(projector)による国家と死——〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」、それ以外は順不同)。
 ちなみに、その様子はアーカイブ配信されていまして、3/18まで有料ですが視聴できます(上記リンクにて)。


こちらの記事は相当に気合を入れて書いたんですが、かぶー1グランプリが取り上げてくれるまでスキが3つしかなく、時間が経つにつれ、失敗した批評なのではないかという不安が募っていったのですが、アーカイブで見た講評ではかなり評価してもらっていて、その影響もあってか今ではスキが7つになりました。倍! うれしい!

 とりあえず感想としては、選評と聞くというのは納得と驚きが入り混じった新鮮な体験なのだということです。選出してくださった伏見さんは、拙論をざっくり言ってテマティスムであり、蓮實重彦からの影響を指摘しています。実際、論を書いているあいだは蓮實のことを意識していたのは間違いありません。とはいえ、「蓮實重彦が「大いに気に入ってしまった『ダンケルク』(二〇一七)論」のように蓮實重彦の特定の批評を直接参考にしたと言えるような反映のさせ方ではなく、いまだに書かれていない(あるいは発表されていない)蓮實重彦による『グリーン・ナイト』論を想像しながら論を進めていったというのがおそらくは書いてるときの実態に近いと思います(とはいえ、できあがったものはあくまで「的」でしかないのですが)。
 驚いたところは、同じく他薦の三宅唱による映画『ケイコ 目を澄ませて』について論じた平倉圭「深さと距たり」という文章が「タイプの似た批評」として紹介されたことです。アーカイブを見た時点では「深さと距たり」は未読だったので早速読んでみたのですが、やはりというか、当然というか、平倉さんの論考の方が描写の記述や論理の展開のさせ方など、諸々が洗練されていて、クオリティではこっちの方が上ですね。それでもあえて拙論のほうを選んでくださって本当にありがとうございます。
 さて、「深さと距たり」は文字通り『ケイコ 目を澄ませて』における「深さ」と「距たり」について論述した文章です。まず「深さ」という主題が、画面に具体的に映っているものから考察されます。河川敷/浸水域という環境、人物とカメラの位置関係、主要な舞台となる場所の空間的配置などから「深さ」という主題を掘り下げたあと、次に「距たり」という主題が導き出されます。今度はやや抽象的な記述になり、それは「深さ」が映像/視覚的な条件から記述されていたのに対し、「距たり」は音響/聴覚的な条件から由来しているからだと思います。「距たり」はまず、ろう者であるケイコと彼女を取り巻く環境のそれとして提示されます。次にろう者=ケイコを演じた聴者=岸井ゆきのという役と演者のあいだにある「距たり」、三浦友和扮するボクシングジムの会長とケイコとの「距たり」、最終的に映画と観客とのあいだの「距たり」に至ります。
 この箇所で見事なのは「橋は異なる二つの土地の高さを一つのショット内にモンタージュする。」という河川敷という土地の低さと橋そのものの高さを具体的に指摘した文章が、後から出てくる「距たりを保ちながら互いを〈縫い合わせる=ウィービングする〉。」といった箇所や「折りたたむ」、「絡まりながら」、「結び合わせる」、「結び直している」といった語と呼応するところでしょう。
 このような呼応は最後に筆者自身が映画のロケーション撮影がされた荒川の河川敷におもむくことにも響いていますが、平倉さんは「縫う/たたむ/結ぶ」といった比喩表現が力を持つには映画内の運動が重要だとの言及も忘れません。ケイコとトレーナー松本のコンビネーション・ミットの場面をさして「比喩としてのウィービングを比喩に留めないのはこの運動だ。」と具体的かつあらためて(たとえば、110頁で記述されるトレーナー林が練習生を呼びつけ体重増加を叱責するシーンのケイコの無反応を「複数の運動のタイミングは絶妙に振り付けられている。」という箇所)書くとき、運動と図式の関係はまさしく「橋」のように感じられるでしょう。文章を読んだ人には、「深さと距たり」というこの論考の題名にも上記の比喩とそれにまつわる運動を重ねることができると思います。

 翻って拙論ですが、平倉さんほどには喩的な連鎖と運動の記述が不徹底だったなと思わされます。
 伏見さんが映像で引用してくれた箇所は論の最後のほうにあたるところで、フラッシュフォワードが終わり、緑の礼拝堂で跪く現在時のガウェインのクロースアップへカットが変わるシーンを描写したものでした。

 不徹底だと感じるのは、再会/帰還を論じておきながら、論の冒頭で言及した『メアリー女王の処刑』および、この映画との対比から展開された「首を持つ者は誰か、という主題。もっというなら首を切断した者と首を持つ者の不一致という主題」について言及しそびれているからでしょう。端的に言えば、跪いているガウェインの首を持ち上げ、元の位置に戻したのは誰なのかということを指摘しそびれているとも言えます。腰帯を引き抜き首を落としたのはガウェイン自身であることは拙論の中でも言及しました。では、首を戻したのは? 伏見さんは引用部にて「飛躍がある」と評していました。登場人物にとっての再会/帰還が、ここでは観客にとっての再会/帰還となっている、と。ここからはさらに飛躍を重ねることになります。なぜなら、ガウェインの首を元の位置に戻したのは、デヴィッド・ロウリー自身である、と主張するからです。理由は単純で、監督であるロウリーは『グリーン・ナイト』の編集も兼任しているからです。

 首の落ちた玉座のガウェインを捉えたロングショットから緑の礼拝堂で跪いているガウェインのクロースアップショットへの「繋ぎ」。「首を切断した者と首を持つ者の不一致という主題」はガウェイン/デヴィッド・ロウリー(編集者)の関係としてひとまず収束します。
 こういったことを思いついたのは「深さと隔たり」を読んだからですが、少なくとも『メアリー女王の処刑』にふたたび言及しようとは当初から考えていました。なぜそうしなかったのかというと、『グリーン・ナイト』劇中で行われる首斬りゲームが行われるクリスマスにあわせて記事を投稿しようと映画を見た直後に予定を立てていたんですが、あっという間に一月経過し、24、25日にだいたい記事の2/3くらいを突貫して書いたからでして……マジでしっかり書き直す時間を設けないとダメだと今更ながら思い至りました。

 しかし、こんなふうに拙論が批評される機会はそうそう無いですし、来年以降もかぶー1グランプリは開催してほしいですね。最初にも言いましたが、アーカイブは有料ですが3/18までは視聴できるので、何かしらの批評活動をしている方は見て損はないと思います。傾向と対策などポロッと溢したりしているので、見れば来年の優勝を勝ち取れるかもしれません……

 以下はかぶー1グランプリで紹介された批評で個人的におもしろかったと思ったものを紹介したいと思います。最初はやはりこれでしょう。

山本浩貴(いぬのせなか座)「死の投影者(projector)による国家と死——〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」

 『ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在』に発表された文章で、この号の発売当初から話題になっていたものを遅まきながら読みましたが、これはたしかに凄い。いまだ一読しただけでとても全容を把握できたとは言えませんが、しかし意味がわからないというわけでもなく、抽象的な言い方になりますが、包括的な理解は未完ですが、この論が狙う標的あるいは射程の長さといったものは感覚的ながら把握できる感じといえばいいのか……(『アメリカン・スナイパー』のラスト近くの狙撃シーンを連想しました。ブラッドリー・クーパー扮するクリス・カイルが同程度の技量を持つ元オリンピック選手の敵スナイパー・ムスタファを発見、狙撃しますが、クリス・カイルの視点ショットにはムスタファの姿は見えません。観客には見えないものを見るクリス・カイルが引き金を引くと銃弾はスローモーションで発射され、ムスタファの頭部を貫通します。距離も位置も本人にのみ把握できる視界の正確さが、スローモーションの銃弾によって事後的に照明される。この論の文章は『アメリカン・スナイパー』におけるスローモーションの銃弾のように感じられてなりません)。アーカイブの中で伏見さんが言っていた「飛躍がない」ということ、膨大な参考文献(註もまた膨大かつ長大)とホラー作品の精緻な分析がこれしかないという順序で的確に配置され、最終的な結論に至るとき、意味が不明瞭だったタイトルに込められた企図がおのずから理解できているという凄まじい筆力で書かれた論だと思いました。個人的な意見ですが再読にあたっては節ごとに分析されている映像作品を見て、それから論を読み進めていくという読み方もいいかもしれません。映像の分析が論に書かれた思考を展開しているのだと実感できますし、書かれている論理を把握するのにも映像の力が助けになると思います。



速水健朗「なぜ批評は嫌われるのか 「一億総批評家」の先に生じた事態とは」

SNSの普及によって誰もが何かしらのレビューを掲載するようになった現代において、批評が目の敵にされている現状を非常にスマートにまとめていておもしろかったです。『サウスパーク』の一エピソードを寓話的な導入として、いくつかの事例を取り出し「解釈」と「共感」の対立構造を描いていく筆致は鮮やかですし、それでいて現状では圧倒的に多数の支持を集める「共感」の過大評価、つまりは脆さも指摘することも忘れません。最後の一文も落語めいていて、筆者の腕前に思わずクスリとしてしまいます。


住本麻子「「とり乱し」の先、「出会い」がつくる条件 田中美津『いのちの女たちへ』論」

 1970年代のウーマン・リブ運動の代表的な人物である田中美津の著書『いのちの女たちへ──とり乱しウーマン・リブ論』の文体の奇妙さを論じながら、影響が指摘される野坂昭如との比較、両者の共通項としての戯作のことばの検討というテクスト論的な記述がまずおもしろく、さらにそこからウーマン・リブやフェミニズムへのバックラッシュなどの社会的な現象に論が展開していくのも見事。しかし、このバックラッシュを内部の問題として引き込むための方法論として再度、田中の「とり乱し」た文体への検討へ帰還する様がとても良かった。テクストを論じることが、同時に社会を論じることになることの好例。


マルドロールちゃん「模造の消尽のためのエスキス」

 「死の投影者(projector)による国家と死——〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」とグランプリを争った論考。同人誌『PROJEKT METAPHYSICA』Vol.1に収録されていますが、現在購入不可とのことで未読なんですが、お二人が口々に「これ、ヤベーよ」「山本さんvsマルドロールちゃん」「格が違う」「欲望の塊」と戦慄と絶賛を繰り返している様子が凄い(ちなみに『PROJEKT METAPHYSICA』 のnoteはこちら https://note.com/pro_metaphysica/n/n905314ba7209)。西村さんによればバタイユに依拠した文章で、千葉雅也や東浩紀に対する応答でもあるとのこと。アーカイブを見てて笑ったのは伏見さんが指摘した東浩紀の書き換えを行った箇所。長々と引用を行い、いざ文章が書き換えられたとき、引用文はいかなる変化を被ったのか。マジで笑いました。ちなみに筆者のマルドロールちゃん(さん)はVtuberをやってるらしく、ここでもバタイユの研究書の紹介やシェフェール『映画を見に行く普通の男』やスタンリー・カヴェル『幸福の追求 ハリウッドの再婚喜劇』などの紹介もあっておもしろかったです。とくに『幸福の追求』の回ではカヴェルの哲学者としてのスタンスの提示からはじまり、カヴェル哲学の入門書ともいける古田徹也『このゲームにゴールはないーひとの心の哲学』がオススメされていたりするので、カヴェル入門動画としても良かったと思います。


 最後にもういちど、「歌舞伎町のフランクフルト学派」第4回は3/18まで配信されてますので、上記した以外にもおもしろい批評に興味のある方はぜひ見てください。

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