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Bring Me the Head of Sir Gawain──デヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』論

空間的な舞台装置というかたちではあるが、これは内面の劇場でもある。なぜならば人は、演じてみせるだけではなく、自らがその存在に近づくことを望みながら聖人や神的存在のまねび、、、を行うからだ。

──レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』


 みすず書房から出版されたジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』は『VISIONS CAPITALES(ヴィジョンズ・キャピタルズ)』という原題を持つ。visionsは「見ること」「光景」「幻視」を意味し、capitalesは「重要な」「主要な」のほかに「頭部の」「首にかかわる」「命にかかわる」という意味を持つ。またそれぞれの単語に複数形sがついていることからも原題は多義的、重層的な意味を内包していることが伺える。斬首の光景は首の光景であり、決定的な光景なのだ。このような複数の意味内容を邦題に反映させることを断念せざるをえなかったことの反省と、それによって誤解が生じることを避けようとする意図が『斬首の光景』の訳者両名が書くあとがきや解説から窺うことができる。訳者の一人である塚本昌則による解説「メドゥーサとしてのイメージ」の冒頭で「クリステヴァの意図が切断の生々しさを強調することではなく、むしろ逆に、どの斬首にも見出される、ある浄化された感情の由来を明らかにすることだということがわかってくる。」とわざわざ言及していることからもそれは明らかだ。そして、この塚本が指摘する「クリステヴァの意図」は『グリーン・ナイト』という映画にもそっくり当て嵌まるように思える。それはこの映画を観た人ならおのずと同意してくれるだろう。
 しかしながら、この指摘が当て嵌まるからといって『グリーン・ナイト』の斬首のスペクタクル性が否定されるわけではない。剣が振り下ろされ、その刃が頸部を通過し、頭部と胴体それぞれが重力に引き寄せられ、断面の赤味を晒しながら分離し落ちていくというクリスマスの首斬りはシーンとしては短いながらもワンカットで決定的な瞬間として捉えられている。このようなひと続きの光景としての斬首は、エジソン社が製作した『メアリー女王の処刑』(アルフレッド・クラーク監督、ウィリアム・ハイセ撮影、一八九五年)を彷彿とさせる。WETAデジタルのVFX解説動画(リンク先動画0:09〜)を見てみると、『グリーン・ナイト』の斬首の場面で転がり落ちる首は実際に制作された首であることがわかる。『グリーン・ナイト』はクロマキー合成によって胴体部からの首の分離をワンカットで実現しているが、映画史最初期の斬首の映画がストップ・トリックを用いてワンカットに見せかけていることと同種の画像処理がここで行われている。そもそも、『グリーン・ナイト』における斬首の光景はラルフ・アイネソン扮する緑の騎士が持ち掛けた余興に端を発することを思い出すと、このような光景がスペクタクル性が宿る見世物として提供されていてもさしたる違和感は無いはずだ。
 だがしかし、『グリーン・ナイト』の斬首シーンの直後の展開は『メアリー女王の処刑』と決定的な差異を齎すことになる。後者において、転げ落ちた女王の首は斬首者である処刑人が手で掴み、掲げ上げることで処刑場の観衆およびキネトスコープの観客に首を見せつけることになるのだが、『グリーン・ナイト』で首を持つのは斬首者であるデヴ・パテル扮するガウェインではなく、被斬首者である緑の騎士である。この緑の騎士の行為によって首を掲げる権利を奪われたガウェインはみずからが斬り落とした首と内側から切り返され、それと正対することになる。そのとき、われわれ観客はガウェインの眼を通してに首からの視線を浴びる。『グリーン・ナイト』における切断された首は視線を受け止める存在ではなく、視線を投げかける存在なのだ。ここにおいて限定的な閉ざされた空間での斬首という共通項を持っていた『グリーン・ナイト』と『メアリー女王の処刑』は、まったく対照的な映画となったといえるだろう。背景的な知識ながら、後者の撮影現場においてストップ・トリックによって入れ替えられた人形の首は処刑人を演じた役者によって掴まれていたのに対し、前者では実際に緑の騎士の首を手に持ったスタッフが映画本編からCGによってその姿を抹消されていることも両作の対照性を強めることになる。

WETAデジタルによる『グリーン・ナイト』VFX解説動画
アルフレッド・クラーク『メアリー女王の処刑』


 『メアリー女王の女王』の首を持つ行為は映画を閉じる絶好の徴であるが、『グリーン・ナイト』のそれはむしろ映画を本題へと進めるきっかけでしかない。首を持つ者は誰か、という主題。もっというなら首を切断した者と首を持つ者の不一致という主題は、『グリーン・ナイト』全編を通して描かれることになるだろう(たとえばデヴ・パテル扮するガウェインはエリン・ケリーマンの首を持つことになるが、その首を斬り落としたわけではない)。しかし、いまはその主題に立ち入る前にデヴィッド・ロウリーの作品に共通するもうひとつの主題について考えていきたい。
 『セインツ -約束の果て-』から『グリーン・ナイト』までのフィルモグラフィ(『St.Nick』は未見)において共通して現れるモチーフとして「崩壊した/崩壊する家」があることはロウリーの映画を観てきた者にとっては周知の事実だろう。さらに注意深く見れば、ロウリーの映画の主人公たちがそのような場所で必ず何かしらアクションを演じ、その結果としての別離とその経験を始点とする再会の契機を得ることに気づくはずだ。『セインツ -約束の果て-』ではケイシー・アフレック扮するボブの父親がかつて所持していた農場の荒屋での銃撃戦(アフレックは警察と追手のならず者とのあいだで二回も銃撃戦を繰り広げる)がそれに該当するだろう。また『ピートと秘密の友達』では自動車事故で両親を亡くした少年と群れから逸れたドラゴンが協力して築いたツリーハウスの前でカール・アーバン率いる伐採業者の捕獲隊によって緑色のドラゴンの捕物が演じられる。『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』では家の前で事後が起こり、後に家そのものが重機によって解体される。『さらば愛しきアウトロー』ではロバート・レッドフォードのアジトから警察とのカーチェイスが開始され、シシー・スペイセクの農場を見下ろす丘の上にて結末を迎える。このようなアクションの一幕を契機とした再会、あるいは帰還を結末とするロウリーの映画を見終えた者が理解するのは、上記したアクションの舞台となる「家」が登場人物たちにとって本来の帰るべき「家庭」ではなく、あくまで映画が持続するあいだのみ居住を許された「仮住まい」でしかないという事実である。『セインツ -約束の果て-』において銃撃戦の舞台となる荒屋には「B+R」という主人公となる恋人たちのイニシャルの刻印が残されており、長らくその場所で睦まじく過ごしていたことが窺えるもののむしろこの「B+R」はもっぱら生活ではなく逢瀬の空間であったことを証明している。また実現可能性がどれほどだったかは定かでは無いがケイシー・アフレックはルーニー・マーラの妊娠を機にこの荒屋の再建あるいは新天地における新生活の計画を口にする。『ピートと秘密の友達』のツリーハウスは同種族の社会から不可抗力的に離脱した人間とドラゴンが共同の生活を送るために設けた一時的な場所であり、少年が所持していた絵本に登場する迷子の犬に由来する名前を持つ緑のドラゴンのエリオットは夜になると星空を見上げ同族が住むと言い伝えられる北の方角を示す北極星を郷愁をもって見つめる。『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』の平家の一軒家はケイシー・アフレック扮するCの事故死により「家」としての機能を喪失する。最初はルーニー・マーラにとってであり、その後に居住する者たちとっては幽霊と化したCの干渉のせいで安住の空間ではなくなってしまう。そのCの幽霊にとっても空家として長い時間放置されたであろう結果として、家そのものが解体されるに至る。『さらば愛しきアウトロー』では少し事態が複雑化している。それはロバート・レッドフォードが演じる銀行強盗のフォレスト・タッカーには「家」と名指しできる特定の建築物が(少なくとも劇中では)存在しないからである。なるほど、確かにタッカーには強盗で奪った紙幣を隠す家屋を所持しているし、そこにトム・ウェイツやダニー・グローヴァーを招き入れ次の計画の準備や強奪した金の山分けなどを行なっている。しかし、トム・ウェイツが去り際に言及するようにその家屋の通りを挟んだ向こうには墓地が広がっている。シシー・スペイセクの「家」である農場の場面との比較において明確になるのだが、ここには、農場の土地を見渡すポーチに椅子を並べ穏やかに会話を楽しんだ老齢の男女を包み込むような景観があらかじめ損なわれているのだ。タッカーの家屋における機能不全のポーチの不吉さは、FBIに先に捕らえられ居場所を告げてしまったダニー・グローヴァーがそこで待ち構えていることからも明らかだろう。景観を楽しむということがそもそも考慮されていない空間に景観を楽しめるはずのない夜の遅い時間帯に黒い影に覆われた何者かがいるという事態。直前のシーンでスペイセクの顔にテールランプの赤い光がかかった瞬間に抱いた不吉な予感はここで再び活性化することになる。とはいえ、ここから開始されるカーチェイスの末の逮捕劇がタッカーにとって人生の一部を成す往復運動の一環であることはケイシー・アフレック扮する刑事が過去にタッカーを逮捕した刑事に話を聞く場面ですでに明かされており、面会に来たシシー・スペイセクに渡されたメモをきっかけに始まるモンタージュによってあらためて提示されることになる。フォレスト・タッカーにとっての「家」、「人生」と言い換えるほうが適切かもしれないそれは、銀行強盗と脱獄という二種類の犯罪の往復運動であるのだ。この二種類の犯罪がタッカーにとってどちらも欠くことのできない「人生」の両輪であることもまたモンタージュによって示される。これらのモンタージュでは「銀行強盗/脱獄」が行われた「州/群/町/年月日」が黄色の文字の字幕で画像に重ねられ、タッカーにとっての「living」を矢継ぎ早に提示していく。

『さらば愛しきアウトロー』の銀行強盗モンタージュ
『さらば愛しきアウトロー』の脱獄モンタージュ

 このような鏡像的なモンタージュは『さらば愛しきアウトロー』における「仮住まい」を逆説的に明らかにする。もはや誰の目にも明らかなようにフォレスト・タッカーにとっての「仮住まい」とは「銀号強盗」と「脱獄」以外のすべての時空間のことなのだ。故に彼にとって真に危険なのは、ポーチで待ち構えているダニー・グローヴァーではなく、刑務所の出迎えに来たシシー・スペイセクの存在なのである。先の刑事が「living」と対比するように口にした「making a living」を象徴する存在としてシシー・スペイセクはロバート・レッドフォードを待ち構えている。つまり、ダニー・グローヴァーがスペイセクを反復していたのではなく、スペイセクがグローヴァーを反復していたという事態がここでタッカー=レッドフォードに襲いかかるのだ(たとえばタッカー=レッドフォードが着ている服の色彩が囚人服と出所後のパーカーのどちらも黄色であるという一貫性は、タッカー=レッドフォードの「脱獄」の「失敗」を視覚的に表象しているとも考えられる。一七回目の「脱獄」はスペイセクの提案によって断念されたのだから)。そして、この時点でのスペイセクの農場も「家」としての機能をなかば失い「仮住まい」の様相を呈し始めている。タッカー=レッドフォードが初めて農場を訪れたシーンのスペイセクのセリフで子どもたちには売却を勧められているうえに農場が抵当に入っていることが察せられるものがあり(「私と銀行のもの」)、それが実現したかのように一頭の馬もいない寂れた様子の厩舎が映される。しかし、このシークエンスにおいて農場の「仮住まい」性を強調する細部として注目すべきは畳み掛けるように現れてくる額縁である。おそらくすでに売却したであろう馬の写真、窓枠、壁に直接残されていた百年前の「家」の建築者のサインは切り取られ額縁に収められている。この額縁は映画館のスクリーンとして即座にフレーム内フレームとして反復され、モンテ・ヘルマン『断絶』を上映しているスクリーンを見つめる映画館の椅子に腰掛けるレッドフォードとスペイセクの並びは直前の窓枠を前にしてベッドに並んだ姿、さらに遡ってポーチに椅子を並べていた姿をも反復する。

「サミュエル・アリエラ 1885年5月」という壁に書かれたサインが額縁に収められている。
モンテ・ヘルマン『断絶』を上映するスクリーン

 スクリーンではウォーレン・オーツ扮するGTOが車を走らせながら助手席の女性に向かって「家を建てよう」と話しかけている。女性は眠っているようだ。スペイセクはその台詞に共感したのか、隣に座るタッカー=レッドフォードへ視線を向ける。タッカー=レッドフォードはスクリーンを見つめ続けている。この『断絶』を上映している映画館でのシークエンスで明らかになるのは、ウォーレン・オーツの台詞に反応するスペイセクと、あくまでスクリーンに投影されている運動状態を見守りつづけるタッカー=レッドフォードという鑑賞態度の差異という事態である。スペイセクにとっては「家」という単語にって喚起されるのは言うまでもなく農場のことだ。彼女は「家」の終末期を過ごしていても百年前の建築者のサインを額縁に入れることで「仮住まい」性を拒否しようとしている。しかし、タッカー=レッドフォードにとって額縁という保存/鑑賞の装置は、サインを際立たせるものではなく、むしろ、壁紙が剥がされていたときに剥き出しになっていた壁の古ぼけた白さを隠蔽する装置にほかならない。この余白の抹消は面会の場面でスペイセクに渡された脱獄の記録が書かれた紙面のことを想起させるだろう。用紙の最初の行の右端に「17.」とだけ書きつけられた多くの余白を残す古ぼけて黄ばんだこの用紙を見たスペイセクは「こんどは最後までいたら?」という提案をする。スペイセクからタッカー=レッドフォードに切り返され、微笑んでいた表情から何かを思案ように口角が下がっていく様子を捉えたあと、「And he did.」という文章が青地に黄色の文字で浮かび上がる。この直後、刑務所の門から出てくるタッカー=レッドフォードと自動車に背を預けた姿勢で彼を出迎えにきたシシー・スペイセクの姿をどちらも遠い位置に置かれたカメラから捉えたロング・ショットが構図=逆構図で連鎖する。脱獄シーンのモンタージュで画面に加えられていて場所と年月日を示す字と「And he did.」はともに黄色の色彩を持ち、この出所のシークエンスが十七回目の脱獄であることをさりげなく提示するだろう。運動感の欠如した画面連鎖の後でタッカー=レッドフォードは額縁という固定的な装置に囲まれたスペイセクのかつての「家」に招かれ、そこで先述した額縁入りのサインを発見する。このとき、タッカー=レッドフォードはこのサインのように「仮住まい」というフレームのなかに閉じ込められたみずからを発見したのかもしれない。しかし、この見るという行為=アクションこそがタッカー=レッドフォードを彼にとっての「家」である銀行へと帰還させる契機となっていることを見落としてはならない。額縁はスクリーンへ変貌し、その白い余白のなかでは疾走する自動車の運動状態が描かれている。それを目にしたタッカー=レッドフォードは映画館のドアというフレームを抜け出した直後、十字路を曲がってきた現金輸送車が目の前をゆるやかな速度で通過していくの目撃する。次のシーンではおそらくは農場の付近であるだろう草原でタッカー=レッドフォード、スペイセクと彼女の飼い犬が歩調を合わせて画面のこちら側に向かってゆっくりと前進する様子が描かれている。衣装の変化から『断絶』を観に映画館へ行った日とは異なる日の出来事であることが予想される。二人のあいだにぴったり収まったまま歩く犬を捉えていたカメラがティルトアップすると、犬の身体の分だけスペースを開けて歩く二人の老人をカメラはミディアム・ショットで捉える。不意に列車の警笛と思われる音が遠方から響き渡ると、タッカー=レッドフォードは歩みを止め、それによってスペイセクは画面から排除され、さらにカメラはゆるやにタッカー=レッドフォード接近することでその表情はミディアム・クローズ・アップで捉えられる。シーンが変わり、ソファで微睡んでいるスペイセクに話しかけてから家から出て行ったタッカー=レッドフォードの姿が描かれた後、家の中から窓枠越しに庭の手入れをしているケイシー・アフレック扮するハント刑事が画面に登場する。電話の呼び鈴に反応し、受話器を手に取るまでの様子が編集を介在することなくワンカットで撮られるが、やや仰角ぎみのバスト・ショットで受話器を耳に当てたケイシー・アフレックの背後には固定電話にカメラが向いたことでいちど画面から消失していた窓枠が復活している。電話の主を察知したアフレックとの会話を突然切り上げ、タッカー=レッドフォードはおもむろに銀行へ足を進め、入口のドアをくぐり抜け、銀行の内部へ姿を消す。タッカー=レッドフォードを追っていたカメラは銀行の矩形のドア全体がぴったり収まる位置で停止し、そして、そのドアの枠を額縁に見立てるかのように黄色い字幕でタッカー=レッドフォードがさらに四回の銀行強盗を行ったことが示される。このような『さらば愛しきアウトロー』終盤の演出的な関心はタッカー=レッドフォードをフレームそのものと対峙させ、いかにしてフレームの内部へ帰還させるかという点だろう。そして、この帰還に際して、ロウリーはケイシー・アフレックをフレームの越境者として演出していることを見落としてはならない。この越境を成立させる具体的な細部として電話が画面に登場するが、電話が待ち構える存在としてのスペイセクを召喚した装置として言及されていたことを思い出すと、このシークエンスでの電話は追跡する存在としてのアフレックを再登場させる機能を果たすとともに、フレームの此方/彼方という対称性を生起させることで強盗と刑事が互いの身分に気づかないまま束の間遭遇し、前者が逃亡したあとに後者が閉じ込められるという状況すら反復させる機能をも担っていることに気づく。このようにして『さらば愛しきアウトロー』というフィルムは上映時間の大部分を通して描いてきた犯罪劇と追跡劇をふたたび活性化するようにして結ばれることになる。
 『グリーン・ナイト』においてもこれまで見てきたような「仮住まい」でのアクションと、それを契機とする再会/帰還が描かれることになる。そして、再会/帰還に関しては『さらば愛しきアウトロー』がそうだったように「見る」という行為が重要な要素となるのだが、まずは『グリーン・ナイト』における「仮住まい」から確認していきたい。デヴィッド・ロウリーの今のところの長編最新作における「仮住まい」でのアクションとはあらためて言及するまでもなく、クリスマスの遊び事=斬首である。斬首が執り行われた場所はショーン・ハリス扮するアーサー王が住まう巨大な城であるが、デヴ・パテルのガウェインは王の血筋とはいえ未だふさわしい空間では無いことは、王の隣へ座るように命じられたガウェインが「そこは私の場所ではありません」と返答したことや円卓を囲む騎士たちとの比較を想起すれば理解するに事足りるだろう。ガウェインは王の血縁というただそれだけの理由でかろうじてその権力の直接的な庇護下にいることをゆるされているに過ぎない。そのような「仮住まい」から旅立つ契機となるのは何度も言及したように斬首というアクションを行ったためであるが、さらに注意深く斬首を伴うクリスマスのゲームを見てみると、見るという行為もまた旅立ちに関して具体的な作用を及ぼしていることがわかるだろう。緑の騎士は切断された首を持ち上げ、未だ生々しく血が滴る剣を持ったまま呆然としているガウェインと視線の高さが合致したと思しき瞬間に瞼を開き「一年後に会おう」と預言のように言い残し、去っていく。具体的な期限がこの台詞によって定められているのだ。そして、このシーンでは特殊メイクを施したラルフ・アイネソンと中世的な口髭に覆われたデヴ・パテルのクローズ・アップが内側から切り返され、両者の鏡像的とも言ってよい視覚的な結びつきも演出している。パテルのガウェインは緑の騎士の首に一年後のみずからの姿を投影するであろうという予想がこの場面には漂っている。内側からの切り返しにおける首との対面の視覚的な印象はパテルのガウェインに強烈な印象を与え、緑の礼拝堂における斧の一撃はみずからの行為をそっくりそのまま反復したものになると確信させ、それ以外の可能性を考える余地をパテルのガウェインから奪ってしまうのだが、たとえばクリスマスの斬首から一年が経過し、あいかわらず飲んだくれ喧嘩して帰ってきたガウェインを待ち構えていたショーン・ハリスが示唆したように再会/帰還への可能性も残されている。この再会/帰還の余地はジョエル・エドガートン扮する城の主人によってふたたび言及されることになるだろう。
 ともあれ、パテルのガウェインは緑の礼拝堂へ向かって旅立つことになるのだが、早々にして馬を失った結果、その旅路のほとんどを歩行によって踏破しなければならなくなる。『グリーン・ナイト』というフィルムは、この踏破を描くことに多くを占められているが、同時に「仮住まい」での滞在にも同程度の時間的な分量を用いている印象を観客に抱かせる。それは「仮住まい」での出来事がパテルのガウェインを緑の礼拝堂への旅路を続行させるような動機づけとして機能していることに起因していることが理由なのかもしれない。衣服以外の所持品をすべて喪失したガウェインが辿り着いた荒廃した様子の無人の館において、エリン・ケリーマンと思わぬ遭遇をして動揺したまま立ち去ろうとするデヴ・パテルは「何処へ行くの?」と問いかけられ、「故郷へ」と応える。ゲームの成立に必要な道具である戦斧を喪失してしまったことによるように思われる意気阻喪の態度は、ケリーマン扮する聖ウィニフレッドの依頼に応え、すでに白骨化した彼女の首が投げ込まれた泉から取り戻し、屋内に戻った瞬間まるで生きているかのように肉を供えた首として現れた瞬間に取り落としたそれをベッドに横たわる遺骸に頭部を置いたとき、突如として夜が明けたように光に照らされた室内で失ったはずの戦斧を発見した際にひとまずは解消されたように見える。旅路へと復帰したパテルのガウェインは、幾日もの歩行の果てにジョエル・エドガートン扮する城主の館へと辿り着く。城主曰くここは狩りの季節にだけ滞在する館であり、みずからが狩りに出掛けているあいだはパテルのガウェインに館のことを任せたいと提案する。こうしてふたたび「仮住まい」に滞在することになったガウェインだが、ここは持主である城主ですら全容を把握できない奇妙な空間らしい。パテルのガウェインにとってその奇妙さは、エドガートン扮する城主の奥方が故郷に残してきたアリシア・ヴィキャンデル扮する互いに愛情を抱いているものの娼婦という職業のせいか曖昧な関係性に留まっているエセルという女性と瓜二つの見た目であるという事態としてまずは降り掛かってくる。ヴィキャンデルが一人二役で演じる城主の奥方はパテルのガウェインに徐々に性的な度合を増していくアプローチをかけて彼を翻弄する。奥方のアプローチに戸惑いを解消できないまま対応するガウェインは、朝方、大胆にも寝所に赴いたヴィキャンデル扮する奥方のガウンの腰に巻かれた緑色の帯を発見する。それはサリタ・チョウドリー扮する彼の母親に与えられた特別な呪文が込められた腰帯とそっくりな代物であり、パテルのガウェインはその腰帯を巻いておくことで緑の騎士から喰らわされる斧の一撃から身を守れる可能性を垣間見たのだろうか、「この腰帯が欲しいか」とのし掛かってきた奥方に問われると、息を喘がせながら「欲しい」と応える。奥方の腰から腰帯を解くと同時に射精したパテルのガウェインは恥辱をおぼえ、同時にベッドの反対側に最初から事の成り行きを耳にしていたであろう目隠しをされた老女を発見し、間男にふさわしい動揺を見せながら裸のままベッドから飛び出すと衣服を引っ掴み、部屋から立ち去ろうとするが、思わずそこに置きっぱなしした戦斧をあらためて手に取る。このようにして舞い戻った戦斧と腰帯という道具は、パデルのガウェインに緑の騎士の首と正対したときに抱いたのとは別の可能性を見出させる余地を与えるだろう。斧の一振りを喰らっても、腰帯の呪文のおかげで首が無事であるかもしれないという可能性が抱く余地がここで観客にも与えられる。しかし、この可能性は劇中で何度か口にされた騎士の誇りにふさわしい態度ではないことは突如として人間の言葉を喋り出した狐によってあらためて指摘されることになる。斧を振り回して狐を追い払ったものの、パテルのガウェインは結局は腰帯を解く事なく緑の礼拝堂へ辿り着く。観客はパテルのガウェインがどのような顛末を迎えるかと同時に、主に腰帯を解くのかどうかという点においてサスペンス=宙吊りの感覚を味わう事になるだろう。そして、狐の指摘によって生起したサスペンスに耐えていた観客はパテルのガウェインの逃亡という予想外のアクションによって、さらなる宙吊りの感覚に見舞われることになる。
 ガウェインの逃亡から始まる「The voyage home」と題されたこのシークエンスでは、ゲームを放棄したパテルのガウェインの帰還、エセルとの再会とベッドでの行為、王位継承、出産とその嬰児を奪う様子、高貴な身分の女性との婚約、おそらくは他国との戦争と息子の戦死、戦線が遂に城まで到達し、臣下や母親や后や娘が逃亡するなか、王座に座したままのパテルのガウェインが腰帯を引き抜くと、首に赤い筋が入り、ひとりでに落ちていくまでの過程が描かれる。このシークエンスで注目すべきなのは、王位を継承してもなお、パテルのガウェインにとってこの城は「仮住まい」のままであろう点である。それは、メーガン・ティエナン扮する若き女王と初夜を迎えであろうガウェインが寝所にて天井を見上げたとき、天井画が罅割れ、粉塵が舞い落ちることで、これまで述べてきた「崩壊する家」というロウリー的主題と接続されることで証明される。この粉塵は攻城に晒されているであろう場面でもふたたび現れる。城内の臣下が押さえつけていた扉が衝撃に耐えきれずついに開いたとき、王座のガウェインは腰帯を引き抜き、首を落とす。『グリーン・ナイト』の序盤で描かれた城という「仮住まい」での斬首の行為は、終盤で「崩壊する家」での首の落下という運動として反復される。ロウリーの過去作で見てきたように「仮住まい」あるいは「崩壊する家」での行為=アクションは再会/帰還への契機である。われわれは加齢したガウェインの落ちた首から、緑の礼拝堂で跪いている若きガウェインの顔へ再会/帰還する。その表情はこれまで観客が見てきた一連のシークエンスとその結末である落ちた首をこの若きガウェインも見たのだろうとなかば確信させる。斧を振り下ろそうとする緑の騎士に向かって若きガウェインは決然とした口調で「待て」と言ってその動きを制すると、躊躇う事なく腰帯を解き、首を差し出す姿勢に戻り、斬首の再開を促す。それを見た緑の騎士もまた跪いて、パテルのガウェインと視線の高さを合わせると、「よくやった」とその行為を褒めたたえる。そして、その首筋に指を走らせると「Off with your head」という言葉と微笑みを与える。次のショットは切株に彫られたこのフィルムのタイトルかつタイトルロールの名前の俯瞰ショットであり、このショットとともに『グリーン・ナイト』は終了する。
 デヴ・パテル扮する若きガウェインを腰帯を解くという行為に導く「The voyage home」と題されたフラッシュフォワード的ヴィジョン。このヴィジョンが想起させる一篇のフィルムがある。そこにもまた実現可能性を内包したフラッシュフォワード的ヴィジョンが現れる。フィリップ・K・ディックの短編小説を原作としたスティーヴン・スピルバーグによる二〇〇二年の作品『マイノリティ・リポート』がそれである。三浦哲也はその著書『サスペンス映画史』で『マイノリティ・リポート』について、原作との内容比較を踏まえて論じている。そこでは未来に起きる殺人について、複数の解釈に開かれた可能性の検討がなされている。

 最終的にアンダートンは「殺す」。しかしそれは最初に述べられた予言がたんに実現された結果ではない。彼は二度の試行錯誤を踏まえ、納得づくでそれを実現させた。彼は未来を自分の手で変えていたのだ。ここで留意しなければならないのは「アンダートンが殺人を犯す」という最初と最後の報告が、同一のままで変化していたということである。機械が出力した文面は、同じままで様々な意味内容をもつことができたのであり、つまり、文それ自体と意味内容を区別することができれば、プログラムの下に自由の地歩が確保される。いまや問題なのは、予言を回避できるのかどうか、あるいは、プログラムを変更することができるのかどうかではない。予言とプログラムが文字どおり実現するのだとして、そうした文字の下に生きられる自由を見いだすことが問題なのだ。

──三浦哲也『サスペンス映画史』二三四頁

 アンダートンの未来における殺人事件については、三つの可能性が示される。第一の可能性。アンダートンはホテルの一室で、かつて自分の息子を殺害したと思しき男を発見し、逆上して彼を殺害する。第二の可能性、アンダートンはこの男が偽物で、すべてが仕組まれた罠であることを見抜き、殺害を思いとどまる。第三の可能性、そもそも被害者は始めからアンダートンに殺されるつもりでおり、アンダートンの手を添えた拳銃の引き金を自分で引く。最終的に第三の可能性が実現され、結局それはプリコグが見たイメージと同一であるが、しかし、アンダートンは実際に殺人を犯していない。見た目のうえでは同じであるが、彼は未来を変更していた。そのすべてがプログラムされていた、というメタ視点をとったとしても同様である。彼がさまざまな可能性を試し自由に振る舞っていたということがプログラムされていたということになり、そこで自由とプログラムは共存する。

──上掲書、二三五頁


 「この作品が問題にするのは、プログラムされた未来をいかにして変更し、そこに計算不可能なものを再導入するかである。」という三浦による『マイノリティ・リポート』の端的な要約は、『グリーン・ナイト』における斬首の遊び事の顛末および腰帯をめぐる内的葛藤のサスペンスを言い表した言葉としても機能するだろう。『グリーン・ナイト』における「プログラムされた未来」とは、この映画の最初から最後までがサリタ・チョウドリー扮するモーガン・ル・フェイによる企みの内部で進行していたかもしれないという疑惑であり、またパール詩人という抽象的な固有名による『ガウェイン卿と緑の騎士』という原典の結末部において、精妙極まる斧の一振りによって腰帯を巻いたままのガウェインの首筋にか細い切傷をつけたという記述である。先に引用した『サスペンス映画史』の記述を敷衍するなら、『グリーン・ナイト』における斬首の光景には三つの可能性が示されている。第一の可能性は、ガウェインは斧の一撃を受けた結果、首を切断され死亡する。第二の可能性は、原典の記述あるいは母親の目論見の通り腰帯を巻いたまま斧の一撃を受ける。第三の可能性は、斬首の恐怖に逃げ出し、王位を継承するも王国はやがて崩壊し、腰帯を引き抜くとともに首を落とす。しかし、ロウリーはここでデヴ・パテルのガウェインに第四の可能性を選択させる。腰帯を解き、すべてを緑の騎士に委ねるという選択である。この選択の結果、パテルのガウェインには「Off with your head」という言葉が送られることは先述したが、日本語字幕にて「首と共に去れ」と訳されていたこの言葉は直接的に解釈するなら、「その首を刎ねる」という意味になる。ここでは、『不思議の国のアリス』のハートの女王が叫ぶ「Off with his/her head!」/「Off with their heads!」という台詞と酷似したこの言葉が帰還を促す意味内容へと変容している。それは一年前のクリスマスのゲームで説明したゲームのルールは同一のまま、行為=アクションの水準においては変更したということである。「ここで留意しなければならないのは「アンダートンが殺人を犯す」という最初と最後の報告が、同一のままで変化していたということである。」。首を斬られ、その首を自身で持ち帰ること。それは緑の騎士の身振りそのものである。首を持ち、帰ること。『グリーン・ナイト』において騎士の名を冠する唯一の固有名詞を持つ存在である緑の騎士の行為=アクションを反復することは、デヴ・パテル扮する若きガウェインを原典の騎士にふさわしい存在に変貌させるだろう。切株に彫られた「…the GREEN KNIGHT」の文字を捉えた俯瞰ショットが、冒頭で矢継ぎ早に何度も映される「SIR GAWAIN and…」のタイポグラフィと映画の始まりと終わりを挟み込むことによって、若きガウェインは原典の詩へ帰還する。

 しかし、その帰還も、『センイツ -約束の果て-』の帰還がまた同時に別離であったように、『ピートと秘密の友達』の帰還がまた同時に別離であったように、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』の帰還がまた同時に別離であったように、『さらば愛しきアウトロー』の帰還がまた同時に別離であったように、『グリーン・ナイト』のそれもまた別離であるだろう。ジョエル・エドガートン扮する城主の言葉を思い出してみるまでもなく、デヴ・パテルが演じる騎士にふさわしくなったであろうガウェインの姿は映画が終わってしまうと同時にわれわれの視界から姿を消し、そしてあらゆる映画の主人公がそうであるように、これより先の姿を見せる事はもはや無いのだから。だが、別の姿を思い描くことはある程度許されていると思う。エンドクレジットが開始されてから、少し経った頃、ひとりの幼い少女が床に転がった王冠をしばらくもて遊び、ごっこ遊びをするようにそれを被る。『グリーン・ナイト』のごっこ遊びに耽る子どもは、『ピーター・パン&ウェンディ』においてその数をいや増し、子どもたち自身が冒険の旅に出掛けることになるだろう。

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