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『グリーン・ナイト』拾遺

怪物の頭を切り落とし、その反映を見なさい。
    ──ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』46頁

切り返しとは、端的には、他者を見ている自分自身の視野において、ほかでもないその他者の眼から見える自分自身を見ることだ。
    ──山城むつみ『ドストエフスキー』473頁(講談社文芸文庫)


 書き残したものを書き繋ぎ、書き損ねたものを書き足す。これは、拙論「Bring Me the Head of Sir Gawain──デヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』論」から溢れ落ちたものを記述し直し、語り直そうという試みである。


 一年前に語り損ねたもの、「首を切断した者と首を持つ者の不一致という主題」は「首を拾うこと」と「首をつなぐこと」としてあらためて分析される。ひとまず、昨年そうしたように『女王メアリーの処刑』(原題“The Execution of Mary Stuart”、監督アルフレッド・クラーク、撮影ウィリアム・ハイセ、一八九五年)についてふたたび記述することからはじめる。
 『女王メアリーの処刑』は映画史最初期の二〇秒たらずの短いフィルムであり、リュミエール兄弟が発明した上映方式のシネマトグラフではなく、エジソン社の開発した覗き眼鏡方式のキネトスコープ作品である。そこでは十六世紀のスコットランドの女王メアリー・スチュアートの処刑の光景が演じられている。侍女とおぼしき女性に促され、跪いて断頭台に頭をのせる女王メアリー・スチュアート。処刑人は斧を振りかぶり、あらわになっている首筋めがけて刃を振り下ろす。首が斬られ、胴体は斧に押し出されるかたちで台から滑り落ち、切断された首が台から転がり落ちる。処刑人は首を掴み、これを掲げ上げる。
 これらの様子は一見すべてがワンカットで撮影されているように見える。しかし、処刑人が振りかぶった斧が頂点に達したところでフィルムに不自然なガタつきが起こることを見逃してはならない。ストップ・トリック(ストップ・アクション)──斧を振り上げた時点で撮影を一旦中断し、女王を演じる俳優と人形が入れ換えた後、ふたたび撮影を再開し、斧を振り下ろす──の影響だろうか、撮影再開時のクランクの再始動の揺れが記録されたふうにも見える。このフィルムには時間的な切断があり、それを気づかせないように縫合をおこなっているが、切断を描くためのその継ぎ目はフィルムに記録されてしまっている。一度この繋ぎ目を目にしてしまうと、このフィルム自体がこのときはまだ技法として確立されていない切断と縫合による叙述法である「編集=モンタージュ」のアレゴリーのように思えてくる。


 『グリーン・ナイト』における斬首の場面も技術的な洗練の度合いの差異はあれど、基本的には『女王メアリーの処刑』と同じような処理が為されている。VFXを担当したWeta Digital社が公開している動画において、ガウェインが緑の騎士の首を剣で斬り落とす場面の仕組みを見ることができる。


 胴体から切断される緑の騎士の首のレプリカを持ったスタッフが首を手放し落下するところを撮影し、その素材を合成することで斬首の光景をワンカットで見せつける。結果的に斬首の段階では『グリーン・ナイト』と『女王メアリーの処刑』は同じような様相を呈する。事態が異なってくるのは、その後のことだ。エジソン社の初期映画では斬首された首は処刑人が掴み、自身の頭部よりも高い位置に掲げる。跪く女王、振り下ろされる斧、転がる首、処刑台から滑り落ちる胴体といった下降運動の群をフィルムのなかで統御しているのは、斧を振り上げるという上昇運動である。撮影を切断するこの上昇運動は、首を掲げるというかたちで反復され、そのときフィルムはほんとうに途切れ、終わりをむかえる。
 いっぽう、デヴィッド・ロウリーの映画では、首を拾うのは斬首されたラルフ・アイネソン扮する緑の騎士の方であり、持ち上げられた首は斬首したデヴ・パテル扮するガウェインの顔と内側からのショット/切り返しショットとして提示される。『グリーン・ナイト』の首は持ち上げれることで映画を締めくくるものではなく、別の顔、つまり別の首につなげれるものとして機能する。
 内側からの切り返しに至るまでの演出、つまり首を斬られた緑の騎士がみずからの首を拾うまでの演出は、入念に振り付けられた動作と動線から成立している。剣を振るい、緑の騎士を斬首したガウェインは背後の玉座にいるショーン・ハリス扮する叔父にあたる王とケイト・ディッキー扮する王妃のほうへ振り向く。すると、ガウェインの背後で首の無い緑の騎士の胴体が起き上がる。緑の騎士の胴体とガウェインは背中を向け合うかたちになっていたが、起き上がったとき、家鳴りのような音が響くため、ガウェインはふたたび振り返る。胴体は首を拾おうと画面左に向かって動き出す。目の前の光景に慄いたのか、切り返しショットにて胴体と反対方向(画面左)に向かって退くガウェインをカメラはつねに同じ位置に収めるつづけようとするかのように同じ速度でフォローする。カメラはバスト・ショットからロー・アングルに切り替わり、緑の騎士が首を拾う様子を捉える。床の首に近づく緑の騎士の足と後景に映るガウェインの足は円を描くように対称に動いている。両手で挟むように首を持った緑の騎士の胴体は動けないでいるガウェインの真正面に向き直り、首を持ち上げる。このとき、ガウェインが剣を振り下ろした際のような「アクションつなぎ」によって胴体を捉えたミディアム・ショットからの首のクロースアップへつなげられ、それがガウェインのクロースアップへと上述したショット/切り返しショットとして提示される。斬首した者と斬首された者の動きは鏡に映されたかのように、あるいはダンスをするかのように対称的な動線で演出されている。この場面を成立させているのは、両者の動きを正確に交互に映す「編集=モンタージュ」の正確なテンポによる。同じような動きをしていても、最終的には首を斬った者が動けなくなり、首を斬られた者は高らかに笑いながら馬を駆りその場から去る。首斬りゲームの交代劇としてこの上ない場面だが、「編集=モンタージュ」が効果を発揮しているのはなにもこの場面だけではない。首斬りゲームが始まる直前のガウェインと緑の騎士の動作もまた「編集=モンタージュ」によって同じような分節と組織化が施されているが、まったく正反対の様相を呈しているからだ。
 王から剣を貸し与えられたガウェインは食事が並ぶ円形のテーブルを勢いよく乗り越える。「アクションつなぎ」によってごく自然な運動の滑らかさが表象されているが、このとき、カップを蹴飛ばしたことにガウェインは気づいていないか、気にもとめていないようだ。カップからワインが溢れ、文字の刻まれたテーブルの面を赤く染める様子が不気味に映る。このワインの赤色は、緑の騎士の首から噴出する血の赤色を予告しつつ、血とともに床にむした苔の緑色と対照を見せるだろう。一方、暗がりから現れ出た緑の騎士はガウェインに対峙するも立ち合う様子を見せず、おもむろに両手を広げたかと思うと、左手に持っていた戦斧をくるりと回転させ、差し出すようにして両手で水平に支えると、そのままゆっくりと跪いて戦斧を床に置く。この動きもまた「アクションつなぎ」によって設計されている。また、膝をついた姿勢のまま身体を捻り、後頸をガウェインに晒すときの動きも同様の編集が施されている。首斬りゲームの参加者の動作はどちらも「アクションつなぎ」から成っているが、緑の騎士のそれが身体を制御しきった停止に向けての制動的な動作であるのに対し、ガウェインのテーブルを乗り越える動作はカップを倒すという予期せぬ事態を波及させている。
 完璧な制御をみせる緑の騎士と思わぬ余波を生むガウェインの対称的な「アクションつなぎ」による運動は、斬首の光景=ワンカットを機に逆転し始め、やがて上述した振り付けられた円運動を経て、制動の交代劇として完了する。興味深いのは、サイズは異なるが、戦斧を置く際の緑の騎士の動作を右側から捉えたショットから俯瞰ショットへの「アクションつなぎ」が、緑の騎士が去ったあと剣を握ったまま立ち尽くしているガウェインを捉えたショット編集でも反復されていることだ。緑の騎士の動作を捉えたショットはミディアムサイズであり、ガウェインのそれはフルサイズのショットではあるが、身体の側面(前者は右半身、後者は左半身。左右の違いは両者が向き合っていたことによる)から俯瞰へのつなぎは共通している。この対比であきらかになる顕著な差異は両者の身体の状態にある。緑の騎士の動きは首を晒す静止の状態に向けてゆるやかに連結されている。いっぽうのガウェインは、直立不動の姿勢が側面と俯瞰という異なるアングルから反復的に捉えられる。しかし、ガウェインのそれはまったく同じ姿勢を映したショットが繰り返されているにすぎない。ここに「アクション」はない。「アクション」なき身体に「アクションつなぎ」はありえない。デヴ・パテル扮するガウェインは、ここでは「アクション」によって静止状態をつくれない、あるいは保てない存在として表象される。
 緑の騎士の随意的な静止に対する、ガウェインの不随意的な停止。この不随意の停止は一年後の約束のために旅立った後にもバリー・コーガン率いる盗賊たちによって外因的な拘束としてもたらされたりするが、一方で、たとえばクリスマスのゲームに挑戦するためにテーブルを乗り越えたときに足蹴にして倒したコップのように、ガウェインの運動が意図せざる結果をまねく非=随意的ともいうべきアクションもたびたび描かれるようになる。そのような非=随意的なアクションの代表は、言うまでもなく斬首の剣が描く弧の軌跡だろう。首を斬り落としたにもかからわず、緑の騎士は絶命することなく起き上がり、一年後にガウェインの首を刎ねると宣言するのだから……
しかし、そのほかにも、首にかかわるガウェインの非=随意的なアクションが『グリーン・ナイト』の劇中には存在する。エリン・ケリーマン扮する聖ウィニフレッドの切断された頭部にまつわる場面がそうだ。聖ウィニフレッドに依頼され、泉の底にあった頭蓋を掬い上げたガウェインが館に戻り二階に足を運ぶと、ベッドの上に頭部の無い白骨が横たえられているのを発見する。ふと、視線を下ろすと、手に持っていた頭蓋が肉を備え、頭蓋を拾ってくるように依頼した女の顔がこちらを見上げている。驚きのあまりガウェインは咄嗟に手を離す。首はすばやく床を横切るように転がっていく……
 ガウェインから聖ウィニフレッド首への視線の動きはまずカメラのティルトダウンによって表象される。そして、驚愕する表情のガウェインのバストショットへつながれ、反射的に首から手を離すショット、床に落ちた首が転がっていく様子を捉えたフルショットへと連鎖する。転がった先で停止した首は、あらぬ方を向いたままガウェインに向けて語り出す。語り終えた首はガウェインのリヴァース・ショットから切り返されると、ふたたび頭蓋骨に戻っている。それを見たガウェインは前進し、その身体がバストショットからフレーム・アウトしたところで、画面はフルショットになり床の頭蓋骨へ近づきしゃがむガウェインを捉える。このとき、膝を落としたガウェインは身体を捻りながら左手をのばし、右手を床につけバランスをとるような姿勢になっている。ロー・アングルの位置に置かれたカメラは頭蓋骨をミディアム・クロースアップで映す。頭蓋骨を拾おうとガウェインの手がフレーム・インしてくるが、その手は先ほどのショットで伸ばされていた左手だけではなく、床に触れていたはずの右手も左手といっしょに画面に映り込んでいる。
 首を落とす瞬間は「アクションつなぎ」によるショット連鎖で見事に演出されているのに、首を拾う瞬間になるとなぜか「つなぎ間違い」が起きている。これが編集上の単なるミスか、なんらかの演出効果を狙った意図的なものであるかはここでは問わない。ひとまず言えることは、首を落とすという非=随意的なアクション(=身体反応)が滑らかにモンタージュされているのに対し、首を拾うときのガウェインの随意的なアクション(=行為)は「つなぎ間違い」によってぎこちなさが与えられ、結果的に対照的な印象を与えているということである。非=随意的な反応が騎士にふさわしい反応でないことは、上述した緑の騎士の首を晒す停止へ向けた随意的な動作との対比によってほのめかされているが、ガウェインの非=随意的な反応に対し簡潔に言葉で評した人物が劇中に登場している。アリシア・ヴィキャンデル扮する城主の奥方の誘惑にガウェインが屈し、奥方と性的に交わる場面において、ガウェインがひとりオーガズムに達し射精してしまう瞬間は非=随意的な反応の最たるものと言っても過言ではないだろう。無様な反応を晒したガウェインは奥方から「騎士じゃないわね/You are not knight.」と評されてしまう。このような非=随意的な反応が騎士らしからぬ動作であることは、緑の礼拝堂における打ち首の場面でガウェインが恐怖に耐え切れず、思わず身を竦める瞬間にあらためて思い出されるだろう。
 いっぼうの随意的なアクションにおける「つなぎ間違い」はどうだろうか。それは騎士にふさわしい振舞いといえるのか。なるほど、たしかに「首を拾うこと」は緑の騎士が行なったことの反復であり、それ自体は何の価値判断にも照らすことをしなければ、言葉通りの騎士の振舞いそのものではある。しかし、ここで注目したいのは「首を拾う」という騎士らしいアクションを行なっている時に「つなぎ間違い」が起きているということだ。緑の騎士の身体が「アクションつなぎ」による運動の連鎖を見せていたことを考えれば、ガウェインの「つなぎ間違い」にも何かしらの意味が発生するはずだからだ。「首を拾う」ことは、たしかに、緑の騎士の振舞いの反復ではある。しかし、それ以上に非=随意的なアクション、騎士らしからぬ運動を周囲に波及させるガウェインの「アクションつなぎ」と対照にあるということが、この騎士にふさわしいアクション=行為におけるモンタージュで提示される。
 「首を拾うこと」はそれのみで完結する行為ではなく、「首をつなぐ」という目的の遂行のためにおこなわれる。切断されたものをつなぎ直すという行為が、映画における「編集=モンタージュ」を想起するのは必然だろう。ガウェインが「首を拾う」瞬間に「つなぎ間違い」が起こることで、「首を拾うこと/つなぐこと」は、『女王メアリーの処刑』のストップトリックよりも直裁的な「編集=モンタージュ」のアレゴリーとして現れる。さらに、首斬りゲームの際の緑の騎士の停止へと至る運動を表象した「アクションつなぎ」もまた、運動の切断とその縫合が同時的に展開されることから「編集=モンタージュ」の寓意と見ることも可能だろう。この場面で「編集=モンタージュ」されているのは『グリーン・ナイト』のタイトルロールであるライフ・アイネソン扮する緑の騎士である。映画と同じ名前を持つ存在に切断と縫合が施されるということ。ここにおいて、クリスマスの首斬りゲーム、あるいは緑の騎士という存在そのものが、「編集=モンタージュ」された映画『グリーン・ナイト』そのものの謂いとなる。
 『グリーン・ナイト』というこの映画のタイトルは、元になった叙事詩のタイトル「Sir Gawain and the Green Knight」を切断したものである。ただし、切断された詩の題名の前半部は、劇中から排除されることはなく、本来なら「the Green Knight」というこの映画のタイトルが冠されるべき開幕に変わる変わる異なるタイポグラフィで何度もあらわれる。ここには、切断の完了とやがて来るべき縫合が予告されている。ならば、『グリーン・ナイト』のクライマックスは、ガウェインの首が斬られる瞬間ではなく、その首がつなげられる瞬間にこそおとずれるはずだ。そして、その瞬間はともすると拍子抜けしてしまうほど呆気なく実現される。
 緑の礼拝堂を見つけ出したガウェインは、ついにみずからの首を差し出すことになる。跪き、首を垂らすガウェインだが、緑の騎士が戦斧を振り上げると思わず身を竦めて動じてしまう。ガウェインは戦斧の一撃を受け入れようとするが、ついには約束を放棄し緑の礼拝堂から逃げ出してしまう。この後、故郷へ帰ってきたガウェインの顛末がサイレント映画のごとく語られる。アリシア・ヴィキャンデルが一人二役で演じた娼婦エセルとの再会、叔父叔母にあたる王と王妃の病没と王位の継承、エセルの男児の出産、その強奪、他国の若き女王との婚姻、戦争、息子の戦死、敗走。戦火に襲われる城下、敵はガウェインの城に攻め込んでくる。妻や娘や母が玉座から離れていくなか、ガウェインは座して扉を見つめている。扉が開いたとき、ガウェインは如何なるときも身につけていた腰帯をついに引き抜く。腰帯が腹部からすべて引き摺り出されたとき、ガウェインの首筋に一本の線が走り、首がひとりでに落ちていく。床に転がる首と玉座の身体を捉えたロングショット、それにつづくいまだ緑の礼拝堂で跪いているガウェインのクロースアップのショット。
 ここでは「首を拾うこと」と「首をつなぐこと」が同時に実現されている。ただし、ガウェインの首は緑の騎士や聖ウィニフレッドのように物理的に拾い上げられたわけではなく、監督であるデヴィッド・ロウリー自身の手にによる「編集=モンタージュ」の効果によって時間=空間的に元にあった場所に戻されている。モンタージュによって「切断=縫合」が施されたガウェインの首と身体は、「アクションつなぎ」によってモンタージュされた緑の騎士の首を拾う随意的なアクションを想起させつつ、画面上のアクションの欠如において、アクションによる静止を実現できない首を切り落とした直後のガウェインも同時に想起させる。つまり、ここでは一年前のクリスマスのゲームにおけるガウェイン卿と緑の騎士の対照的な様態が、言うなれば「編集=モンタージュ」され反映されている。
 「切断=縫合」、つまり「編集=モンタージュ」を体験したパテルのガウェインが為すべきことは、もはや戦斧の一撃を受け入れることではなく、みずからの「首=身体」を切断可能な状態に変容させる、あるいはすでに変容が終わったあとだと示すことだ。劇中では腰帯を解き、投げ捨てることでその変容が描写されるが、注目すべきは、腰帯に纏わるアクションが演じられた後である。
 腰帯を放棄したガウェインは、ふたたび首を下げ、緑の騎士の一撃を受け入れる準備ができたことを念を押すようにほぼ同じ台詞を二回繰り返し言う。このときのガウェインのクロースアップは、フレームが首から下を切り取り、まるで首だけが話しているように見える。その態度と言葉を受けた緑の騎士は戦斧を振り下ろすことはなく、ガウェインと同様に跪き、ガウェインと視線を合わす。「よくやった、勇敢なる騎士よ/Well done,my brave knight.」と称賛の言葉を送った緑の騎士は、戦斧の代わりに指でガウェインの首筋をなぞり、「首と共に去れ/Off with your head.」と口にして微笑みを浮かべる。

 須藤健太郎は『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』に登場する白いシーツをかぶった幽霊をカメラやスクリーンの喩であると同時に「(…)このお化けはモンタージュの一種の寓意像として現れているのである。」と指摘したが、この言葉は『グリーン・ナイト』における緑の騎士の首筋をなぞる手の動きにも当てはまるだろう。須藤は同論(「何が「ゴースト」と呼ばれているのか──デヴィッド・ロウリー『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』」)において「(シーツが画面にあるというだけで、)つながりようのないものまでがつながっていくからである。」とも述べているが、「つながりようのないものまでがつながっていく」という事態は、まさしく『グリーン・ナイト』における首の有様を言い表しているにも等しい。ただし、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』のシーツがモンタージュの寓意であることとは些か異なり、ここでの緑の騎士の手は、『グリーン・ナイト』の編集を行うロウリーの手そのものの寓意として画面に表象されている。そして、同時に、ここには「編集=モンタージュ」というある意味で不可視の作業も、須藤がシーツに見たのとは異なるかたちで表象されている。
 緑の騎士が打首を中断し、ガウェインと視線を合わせるために跪く。緑の騎士が身体を下げるようすが「アクションつなぎ」で示され、画面はクロースアップで緑の騎士の顔を捉える。緑の騎士の顔は画面の右側に置かれ、「よくやった、勇敢なる騎士よ/Well done,my brave knight.」の台詞の途中で同じサイズのガウェインのクロースアップ(顔は画面左側に位置している)へ、ショット/切り返しショットとしてつながれる。
 ここで注目したいのは、切り返しショットにあたるこのガウェインのクロースアップが緑の騎士のそれと切り返されていたときに与える奇妙な唐突さだ。斬首を受け入れ、地面に向かって顔を伏せているガウェインのクロースアップと緑の騎士と視線を合わせるガウェインのクロースアップの中間にあったであろう、顔を振り上げるという動作がここでは省略されている。直前に緑の騎士の打ち首を制したときに、ガウェインは顔を上げている動作が捉えられているだけに、このときの唐突さはより強調される。ここで思い出されるのは、聖ウィニフレッドの頭蓋をガウェインが拾い上げるときの「つなぎ間違い」だ。頭蓋に左手を伸ばすガウェインを捉えたフルショットが、床の頭蓋を画面中央に捉えたロー・アングルのアップにつながれたとき、フレーム・インするガウェインの手は両手になっていた。左手を伸ばしていたとき、右手を後ろに回しバランスを取るように床に触れていたことからも、この両手へのつなぎが自然なつなぎでないことは明らかだろう。ガウェインの手の「つなぎ間違い」は、ガウェインの顔の「つなぎ間違い」として反復される。そこに、「首」というこの映画の主題がかかわっていることはあらためて指摘するまでもないだろう。では、『グリーン・ナイト』の「首」という主題、言い換えるなら「首を拾うこと=首をつなぐこと」という主題は「つなぎ間違い」を通してどのように反復/変奏がされているのだろうか。
 どちらの場面にも「首」に触れる手が映り込んでいる。その手は、斬首された頭部を拾った緑の騎士の胴体のように自己に属する手ではなく、あくまで他者から差し伸べられた手である。しかし、それらの手の目的は異なる。ガウェインの手は聖ウィニフレッドの首を元の位置に戻すために伸ばされる。つまり、「首をつなぐこと」を目的とした手であるが、緑の騎士のガウェインの首に伸びる手はそれが儀式的な身振りとはいえ、あくまで「首を切断すること」を目的としている。ふたつの手の対照的な目的は、おのずとその対象となっている首の在り方の対照をも浮かび上がらせる。聖ウィニフレッドの首はいまだ切断された状態にある。それは喩えるなら未編集の状態の首である。対するガウェインの首は、「つなぎ間違い」があるとはいえ、というより「つなぎ間違い」があるからこそ、それははっきりと「編集=モンタージュ」がすでに完了したあとの首だと言うことができる。「切断=縫合」がすでに為された首に対して、そうだと示すこと。『女王メアリーの処刑』のように観衆、あるいは覗き見客に見せつける手ではなく、首そのものに対しての指示。緑の騎士の手の動きは、首が体験した時間=空間的な断絶と接合を指し示す。そして、その時間=空間的な断絶の繋ぎ目こそ、「つなぎ間違い」と呼ばれるものだ。物理的運動を介さない「首」の上昇。それはまさしく、王冠が外れた床の首と玉座に座したままの首の無い胴体を捉えたロングショットにつづく、まるでその光景を目撃したかのようなガウェインのクロースアップへの「つなぎ」、そのみしるし、、、、にほかならない。そこにはもはや随意的なアクションも非=随意的なアクションもなく、不可視の手による操作だけがあり、その操作に対して唯一可能なのはその不可視の手が施した「切断=縫合」、つまり「編集=モンタージュ」の痕跡をジェスチャーによって指し示すことのみである。
 しかし、また同時に思い出すべきなのは、ガウェインに切断された緑の騎士の首のことだ。ガウェインと内側から切り返された緑の騎士の首の正面クロースアップはあからさまにカメラの隠喩であった。そして、その首と切り返しの関係にあたるガウェインのクロースアップは、首が口を開いた直後の切り返しショットにおいて、最初のクロースアップよりもさらに近い距離からガウェインの顔を捉えている。このとき、最初のショットでは見えていた肩が二回目のショットでは切断されたかのようにほとんど見えなくなっている。このフレーミングによる肩の切断は、城主の奥方が撮影したポートレートと後の場面で登場する玉座の背後に掛けられた王の肖像画という像において反復される。そして、緑の礼拝堂において、緑の騎士は奇妙な唐突さであらわれたガウェインのクロースアップ・ショットの下端を、ガウェインの首筋と同時になぞるように手を動かす。つまり、緑の騎士の指のなぞりは編集だけでなく、カメラのフレーミングによる切断の謂いでもある。
 さらに、ここにもうひとつの首を召喚する。床を転がる聖ウィニフレッドの首である。この首は緑の騎士のそれと異なり、落下して床を転がったあと、ガウェインにもベッド上のみずからの白骨にも拾われることなく口を開く。ここでの発話は緑の騎士のときと異なり、視線が合わないまま行われる。このときの聖ウィニフレッドが言う台詞はいかにも示唆的だ。この首は「あなたが見える/Now I can see thee.」と、あらぬ方向を向いたまま言ってのける。これに続く台詞は「力の限り守ってあげます/And I will strike thee down with every care I have for thee.」であり、画面上ではガウェインが一方的に見下ろしているような視線の上下関係が反転されるであろうことを予告する。この視線の上下関係の反転は、緑の礼拝堂に辿り着いたガウェインが階段上の椅子に座している緑の騎士を見上げながら約束の日を待つ場面で描かれることになる。緑の騎士=『グリーン・ナイト』を見上げるガウェインの首。このショット/切り返しショットの継起は、観客とスクリーンのそれである。緑の礼拝堂は映画館の謂として表象される。われわれは、ガウェインが緑の礼拝堂の入口を潜り抜けるさいのショットに映るのは木に囲まれた丸みのある光の差込口ともいえるアーチ型の入口のシルエットを映写機の投射レンズのようだったと遡行的に理解する。しかし、光の差込口は礼拝堂の入口だけではない。緑の騎士が座す背景にもアーチトップ型の窓のような光の入口が配置されている。ガウェインもまた光を受ける存在でもあるのだ。時刻が午から夜へと進むなか、光もまた変化する。光量の乏しさは夜が深まるにつれ、映画を上映している映画館内のそれへと近づく。ガウェインは長くそこに微動だにせずとどまり、緑の騎士を見上げているが、緑の騎士もまた眼を開き、ガウェインを眼差す。観客/スクリーンという一方的な視線の関係が、双方向的なショット/切り返しショットのそれへと変容する。



 そして、このようなショット/切り返しショット的な双方向の関係は、玉座のガウェインと緑の礼拝堂のガウェインとのあいだにも、おそらくは結ばれるているのだろう。破城槌で破られたであろう城門から射光する光。思い出されるのは、ヴィキャンデル扮する城主の奥方のピンホール・カメラの光だ。玉座の背後には、ピンホール・カメラにて撮影されたポートレートに酷似した肖像画が掛けられていた(それは同じ肖像画なのだろうか? だとしたら何故ここにあるのか?)。扉から差し込んでくる光はカメラのそれか、それとも映写機のそれか、あるいはスクリーンに反射するものなのか。おそらく、そのどちらでもあるのだろう。その光を受けた玉座のガウェインは、まるで映写機からフィルムを引き摺り出すかのように腰帯を引き抜く。しかし、玉座の身体と床の王冠と首を照らす矩形の光は、いまもそこに射し込んでいる。まだ終わりではない。退場という作業がまだ残っている。首は不可視の操作で持ち上げられてしまった。『女王メアリーの処刑』がそうしていたように、まるで別れの挨拶のように、首を高く掲げてもらわなければならない。だが、緑の騎士は戦斧を振り下ろすこともしないまま、首を拾う処刑人の動作を模倣するかのように跪く。そして、ガウェインの首筋を指でなぞり、ささやかに人差し指をはね上げる。まるで、その動作こそ、別れの挨拶であるかのように。最後に、微笑みを残し、緑の騎士は映画を終わらせる。
 この微笑みがガウェインに向けられた表情であることは言うまでもないが、その視線が水平的であることは指摘しておくべきだろう。なぜなら、『グリーン・ナイト』には垂直的な視線やショットが幾度も現れ、そしてその対象はガウェインそのひとにほかならないからだ。たとえば、最初のクリスマスの首斬りゲームにおいて、首と胴体が泣き別れした緑の騎士と剣を持ったままのガウェインを真上から捉えた俯瞰ショットは、視線の垂直性と対象の小ささも作用してか、キネトスコープを覗き込んでいるかのような印象を与える。この俯瞰ショットは、緑の騎士が馬に乗って去ったあと、ひとり取り残されるガウェインを捉えたショットとしてまったく同じサイズで反復される。また、緑の礼拝堂に向かう旅路においても、ガウェインはたびたび俯瞰ショットによってその道程を捉えられる。その姿は風景に比して非常に小さい。


 見上げるのではなく、覗き込むこと。支配的ともいえる視線のこの垂直性は、『斬首の光景』においてジュリア・クリステヴァが記述した怪物を眼差す英雄の視線を思い出させる。

幸いなことに、眼差しの行き来は不意に単純な解決にたどり着く。メドゥーサの眼差しは殺すが、彼女は最終的に鏡に映った影、、、、、、──二重化、表象を図像にしたもの──によって殺される。実際、ヒステリックな怪物女は、首を切り落とされないかぎり正面から見つめられることはなかったのだが、彼女を見ることを可能にしたのは……盾に映るその影だ。ペルセウスによるアンドロメダの解放を扱ったいくつかの図像では、切断され、海や井戸、あるいはアテナの盾に映し出されたゴルゴンの首をじっくり見つめている二人の恋人が描かれている。たとえば、紀元前四世紀のこの花瓶。広口のタラテルに自らの盾の上に座ったアテナが描かれているが、アテナは切断された首を泉の上に差しだし、それをペルセウスはただ……泉に映った姿を通してむさぼるように見つめている(図12)。一世紀のポンペイのとあるフレスコ画もまた、ゴルゴンの切られた首を見つめるペルセウスとアンドロメダを描いている(図13)。別の絵(四世紀・古代イタリアの陶器)では、アテナ、ペルセウス、ヘルメスが、女神の盾の紋章の位置、通常ゴルゴネイオン〔ゴルゴンの首の絵〕が描かれている場所に映し出された、彼らの背後にいるメドゥーサの姿を三者とも吸い寄せられるように見つめている。このイメージは、紀元前四世紀から三世紀にかけてのエトルリアの鏡にも現れている。死と太陽はじっと見つめることができない、と私たちに教えてくれたラ・ロシュフーコーよりもはるか以前に、アテナは正面からではなく、写し、模造から、恐るべきものに立ち向かうことを可能にするバックミラー(後写鏡)を発明していたと言えるのではないだろうか?

──ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』45〜46頁
図12  アプリアの広口の壺(紀元前四世紀)
図13  ポンペイのフレスコ画(一世紀)


 メドゥーサ/ゴルゴンの首という映写機、泉というスクリーン。そこには切られた首の反映をキネトスコープ的に把握し、享受する姿が描かれている。
 『グリーン・ナイト』においても、このような視線の垂直性は何度もショットに反映されてきた。俯瞰のカメラはもちろん、隣に座る/立つ王から、盗賊から、ベッド脇の聖ウィニフレッドから、巨人から、身体を重ねる奥方から、馬上の城主から、階段の上の緑の騎士から見下ろされるガウェイン。見下ろすことのできる存在は、ほんの一時しかガウェインの側にいることができない。緑の騎士の首は持ち上げられ、つねに見下ろすことを可能にしていた愛馬はいずこに去り、旅に同行する狐はガウェイン自身が遠ざけてしまい、息子はわれわれに声を聞かせることのないまま物言わなくなり、老いたかつての恋人は非難の目を向けたまま静かに透明になって消えていく。『グリーン・ナイト』のガウェインはキネトスコープ的な垂直性のカメラに捉えられ、他の登場人物とはシネマトグラフ的な仰視によって視線を交わす存在なのだ。そのシネマトグラフ的な視線の最たる例が、緑の礼拝堂における階段上の緑の騎士とのそれであることは先に言及したとおりだ。
 例外があるとすれば、それは玉座のガウェインを眼差す視線だろう。時間的にも空間的にも距たった自分自身への視線。そして、その視線が、おそらくは双方向であること。垂直性は、時間と空間を共有している者同士にしか導入できない。垂直性があるとしても、その視線は交錯している。その交錯する一点は、時間=空間的な断絶の繋ぎ目は、まずはクロースアップとしてあらわれ、「つなぎ間違い」として眼に見えるかたちでふたたびあらわれる。緑の騎士は跪くのは、それを指し示すためだ。そのとき、視線の垂直性は消え、水平的な視線があらわれる。
 そしてその水平的な視線は、聖ウィニフレッドの首にまつわる場面で予告されていたものだった。そこには、クリステヴァが記述した「むさぼるように見つめている」ようすを奇妙に反転させた光景が見られる。ガウェインを泉に案内した聖ウィニフレッドは、泉の底にあるみずからの頭部を拾ってくるようガウェインに依頼する。それを聞いたガウェインは、困惑しながらこう尋ねる。「高貴なる方、頭は肩の上にあります/Your head is on your neck,my lady.」。その返答はこうだ。「いいえ。ないのよ。あるように見えるだけ/No.It is not.It might look like it is,but it is not.」。
 ここでは実物と反映がクリステヴァが例示した図像ときれいに逆転した位置におさまっている。泉の底から頭蓋骨を拾い上げたガウェインが下半身を水に浸したままほとりで息をついていると、ロングショットで狐と内側からの切り返しになる。この視線の水平性は、ガウェインがベッドの背凭れに凭れた白骨に頭蓋骨を戻したときにふたたび導入される。見下ろすことも見上げることもない、首へのまなざし。そのまなざしが結ぶ一線が、『グリーン・ナイト』の最後を飾る。
(12/26 太字部追記)
 緑の騎士が最後に浮かべる微笑みは、映画が観客に向けるものではない。キネトスコープはもちろん、シネマトグラフにおいても、スクリーンと観客のあいだには視線の上下関係が維持されている。映画が真に水平的な眼差しを向ける存在、それは映画自身にほかならない。怪物の首の反映を見るのではなく、怪物からの直視のなかにわたし、、、の反映を見ること。あなたの微笑みが向けられたわたし、、、を、あなたの微笑みのなかに見ること。「我が勇敢なる騎士/my brave knight.」とあなたが呼ぶわたし、、、を、あなたの微笑みに見ること。
 ショット/切り返しショットというそれぞれ個別のショットでありながらも、同時にひとつの映画でもあるもの。隣接しながらも距たるもののために、『グリーン・ナイト』は微笑みかける。


 ここに綴った文章が、この微笑みへの切り返しになっていることを祈る。(12/27 追記)

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