金魚の糞と、私と世界

私が止まっていようが下を向いていようが、否応なく時は流れるらしい。田舎の無人駅のベンチは、世界に自分1人しかいないような孤独感や、地球の進化の歴史を考えてしまうような飽和的な時間感覚を与えてくれる。にも関わらず、私をびくりともなびかせない風は一方で、容赦なく葉の色を変え、地に落とし、季節をあくせくと運んでゆく。朝一番の電車の中から、二日酔いの死にかけの目で眺める景色のように、私以外の時空間は不可逆的に、連続的に、等速で、進んでいく。
或る人は、恋人と共に、また或る人は、家族と協力して、また或る人は、ネクタイを引っ掛けて、積極的に時の流れを掴み続ける。他人や社会との関わりは、時の流れに縋り続けることなのかもしれない。何も無い私は、自分という存在を社会から差別化し、世界を俯瞰することでしか時を知覚することが出来ない。そうした世界との関わりは、私を時間の流れに巻き込んでゆく。世界の認識という私の微かな自発的動作を伴って、ほぼ受動的に私は時を進めていく。時間は私を置いていくが、結局、私は金魚の糞のように時間に引きずり回されるのである。

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