せめて全身でうれしい!を叫びたい
失って気付く大切さもあるけれど、手にしてはじめて気付くことも同じくらいある。
平日の仕事帰り。夜の公園を散歩。
並んでブランコをこぐ。
持っていた缶ビールがちょっと溢れた。
空にはお椀みたいな月。
指でつんってしても、ちゃんと元のかたちに戻ってくるだろうなっていう、安心なかたち。
なんてことない時間。
「帰ろっか」
「そうしよっか」
なんてことない帰り道。
何度か手が触れて離れて信号待ち。 どちらともなく隣の手をとる。
とっさに浮かんだのは「あったかい」という感想で、あったかいと感じるということはわたしの手はその人のそれより冷たいってことか。そんなことをぼんやり思った。
人の体温に触れてはじめて自分の体温を知る。
いつだってそう。そうされてはじめて「ずっとこうしたかった」ってことに気づく。そしてほしかったものにも。
そんな感情の疎さにちょっとしたモヤモヤがあった。
さて。一緒に暮らす犬はうれしい悲しい寂しい困った……がとっても豊かだ。特に「うれしい」がかわいい。
わたしが散歩用のリードに手をかけると「お散歩に行くのですね!」とくるくる回って、たまらん!とばかりにくぅくぅ鳴く。
耳の後ろを撫ででやると、しっぽをパタパタ振って「それそれ〜それを待っていたの!」の至福な顔をする。
わたしはその度に心がたっぷり満タンになって、にっこりした気持ちになる。
彼(犬)のそういうところ、本当に素晴らしいと思う。“今”にとっても全力。
でね、ふと思ったんである。
そんな先読みしなくていいのかもって。
例えば後悔先に立たず的なことで何かを失ってしまったとして。そのときにはせめて、感情に蓋なんかしないで、死ぬほど後悔してタラレバを叫んでそして泣こう。
「うれしい」がおとずれたときもそう。照れたり困ったり迷ったりそんなことをする前に、目の前の「うれしい」を全身で浴びてうれしい気持ちを叫んだらいいんだ。
それはもう「顔にうれしいって書いてあるよ」って言われるくらいに。しっぽをブンブン振ってね。
なんだろ。ほんと学ばないよねって、いつまでもそう言われるのかもしれないけれど。
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