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映画監督•崔洋一と私の90日

実のところ、崔監督との付き合いは、さほど深いものではないのだ。「松田優作メモリアルライブ」の製作と、その上映付きイベントであった「ラスト・ショー」、私はこの二つをプロデュースしたに過ぎない。崔監督にとっての私は、彼の膨大な交遊録の末端に位置する一人でしかない。けれど私にとって、崔監督はとてつもなく大きな存在だった。

「生きるか死ぬか」の瀬戸際まで追い込まれることなど、人生の中で幾度も経験することではない。私は経験した。今年の1月、末期がんを公表した崔監督に「ラスト・ショー」の開催を決意した旨を電話した日から、4月21日の会期最終日までの90日間、私は常に「生きるか死ぬか」を突きつけられる日々の中に投げ込まれたのだ。

当初、「息をするのも苦しいんだ」と言葉も途絶えがちだった崔監督は、はじめの数週間こそ私に会の準備を任せていたが、日を追うごとに企画への関与を深め、やがては「崔洋一のラスト・ショー」として、すべてにおいて崔洋一流に完璧に演出することに全力を投じるようになった。私のような実績も実力もまるでない、全く無名のプロデューサーに「映画監督・崔洋一」の最後のステージをゆだねてしまったことに、崔監督は不安と焦燥を募らせていったのだろう。彼は病気を押して毎日のように会社にやって来ると、5時間、6時間かけてほとんど二人きりで打ち合わせを行った。崔監督の要求は極めて高く、その要求は刻一刻と数を増して、打ち合わせは白熱し、激しいやり取りは周囲の者たちを怯えさせた。帰宅した後も今度は場所を電話に移し、更に延々と「戦い」は続いた。崔監督はこの会を自身の最後のステージとすべく、文字通り命を削ってこの企画に挑んだ。そして、当然のように私にも「生きるか死ぬか」の瀬戸際まで自分を追い込むことを求めた。ほとんど睡眠もとれず(それは崔監督も同じだっただろう)ぎりぎりの地点まで追い詰められた私は、時に自分を見失いかけ、崔監督と自分の共通の知人に手当たり次第に連絡し、救いを求めた。けれどもちろん、誰にもなにもできることなどなく、鬼気迫る様相の崔監督を前にして、私はただ途方に暮れていた。それでも崔監督は容赦なく、大きな体を激しく揺さぶり、あたりに声を轟かせ、もっともっと難しい要求を突きつけてくる。ある者は「もうこの企画は中止すべきだ」と言った。それでも私は中止しなかった。なぜか。今振り返ると、プロデューサーとしての責任、などという理由ではなかったように思う。

このような状況でも会を開催することができたのは、たくさんの人々の協力があってのことだ。自作のクランクイン間際だったにもかかわらず崔監督を支え続けてくれた片桐さん、生放送の仕事を抜け出して連日駆けつけてくれた石川さん・仲村さん・星野さんチーム、崔監督の無茶振りに必死でついていったDJの野中さん、企画の始まりから寄り添ってくれていた立花さん、「ショーマストゴーオンだよ」と激励してくれた香月さん、素晴らしい写真を撮ってくれた渡邉さん、準備に奔走してくれた本多さん、深夜に音声調整に駆けつけてくれた内藤さん、1週間仕事を休んで受付に立ってくれた島野さん、限られた時間と予算の中ホームページを作ってくれた泉谷さん、そして、こんな無謀な企画に賛同し、できる限り崔監督の願いに近づけようと努力してくれたテアトル新宿の方々、更には、大変な心労をおかけしたにもかかわらず、崔監督と私の両方を支えてくれた奥様の青木さん… 皆が崔監督に思いを寄せていた。その力を得たおかげで、「ラスト・ショー」は完走できたのだ。

客席は映画界や政財界のお歴々によって華やかに埋め尽くされ、無料の酒がふんだんにふるまわれ、照明、音響、音楽、映像が混然一体となった一大エンターテイメントショーが繰り広げられる… 崔監督が目指した境地は、無力なプロデューサーが予算ゼロで作れるものでは到底なかった。結局、会は崔監督の思い通りにはならず、90日に及ぶ激しい「戦い」によって、崔監督と私の間には深い溝ができ、その溝は最期まで埋まることはなかった。だとしても、私はあの「ラスト・ショー」を開催できてよかったと思っている。1週間の会期の中、崔監督は、1日1日、輝きを増していった。介助なしでは歩けなかった彼が、会期の終盤にはテアトル新宿の階段を駆け下りるようになっていた。崔監督は先頭に立って皆を指揮し、会の隅々まで目を配り、時に厳しく、時に激しく、時に彼独特のユーモアを交え、的確な指示を次々に飛ばした。皆が崔監督を仰いでいた。私も自分がその場にいることに喜びを感じていた。映画監督・崔洋一がそこにいた。あの場所はまぎれもなく、崔監督の「最後の現場」だったのだ。

初めて訪れた崔監督の自宅は、コンクリート打ちっ放しの、彼らしいスタイリッシュな部屋だった。そこに崔監督がいた。亡くなっている、ということがうまく飲み込めないまま、その顔を覗いた。横たわっていたのは、見たこともないようなおだやかでやわらかな微笑みを浮かべる一人の男だった。私はこの人のこんな顔は知らない… そう思った瞬間、自分の内側で、なにかが堰を切ってあふれ出した。それはどうにもとどめることができず、私はもう奥様の青木さんと何を話せばいいのかさえわからなくなってしまった。名状しがたい思いを抱え、その部屋を後にした。その時私は、崔洋一という人間に、すさまじい「戦い」を繰り広げた相手に、自分がどれほど執着していたのか、気付かされたのだ。

今頃あちらの世では、黒澤満プロデュース、松田優作主演で、崔洋一監督作品の製作がヒバナを散らして進められていることだろう。すぐにでもその現場に馳せ参じたい気持ちもあるが、やはり自分は、今はまだこちらの世にいようと思う。崔監督と戦った「生きるか死ぬか」の90日を胸に置き、もう一度、映画作りに足掻いてみたいのだ。

崔さん、本当にありがとうございました。

「松田優作メモリアルライブ」「崔洋一 ラスト・ショー」
プロデューサー 久保田雅美


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