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不寛容にたいして寛容になること

不寛容な人間やそういった行いに対しての自分の不寛容さを見つけることができた。

社会に寛容であることのおしつけを至るところに見るのだが、それは、一方的な寛容であって、不寛容な人間を無意識に社会から排除してしまう行いに見える。「寛容になりなさい」と他者にいってしまう社会的なふるまいは、その発信者の社会への不寛容さの露呈であるし、なんというか。品がない。


また、正しい(適切)、正しくない(適切でない)といった判断への、瞬間的な気持ちの依存度を今日はみてみた。

「これは正しい」とじぶんがそのばで”思う”ことと、実際にそれが正しいことは区分されるべきであるという考えがあるからだ。正しい/正しくないといった「判断」を下そうとしてしまった時には、その問題から一旦距離を置かなければ、その正しさを無為に殺してしまうことになる。


複数から選別された正しさは恣意的であって、それは感情の揺れや気分が乗り越えるべき課題である。そういったケースにおいて「正しさ」を扱う天秤の持つ思考は腐り、錆びが入っている。そういうった骨董的なアイディアには塩載せて、縄で縛って、オレンジ色の照明をあてておくのが得策である。そうすれば、現代アートとかいいはなって、高い値段で売れるのだろう。


この二つから導いてみたかったことは、『じぶんを喜ばせようとした行為』への、反省である。

その行為進行中の残念さ、行為完了後の残念さに目をむける時間をもてた。

「これをやったら面白そうだなぁ」と、行為の後におもうのか、行為を始める時に思うのか、思い返してみればそのように思っていたのか。


この3パターンがぼくの日常にあるのだが、


「これをやったら面白そうだなぁ」の中に


「これをやったらじぶんを喜ばせることができるなぁ」が多めに混じっているときは、大抵たのしめずに終わる。おそらく、「じぶんを楽しませること」にエネルギー/意識がいってしまい、じぶんが楽しんでいることに思考/酸素がまわらないことが原因のように思える。


未来完了系の正しさや喜びを求めてじぶんの身体をつかってしまいそうになったとき、今後はどんどんレッドカードを出し、その思考からじぶんを退場させてあげたい。胡散臭いじぶんは、どんどん向き合って、びんたをして目を覚ましてやる必要があるのだ。

いつのまにかやってしまっていて、振り返った時に楽しかった、喜ばしかったときの記憶は、終始香しい。美化さえさせない。こういったことの根幹には「思考をすてよ、たびに出よ」思想があるのだが、わたしにはまだ思考の点検は必要であると感じた。


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