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変人とは「自身の興味を感づき、それに従い、時間と熱量を注ぐもっともマトマな人間」である。


他者を変人と呼ぶ人が大嫌いだ。その"変人"と呼ばれている人は、他者からの要求ではなく、自分の純粋な興味に従って人生を謳歌している。周りと興味が違うのだから、会話の内容も、行動も違ってくる。服装も変わってくるだろうし、何かが他の人とは変わってくる。誰しもが興味も趣向も違うのだから、わざわざそういった人のことを変人と呼ぶのが、いかに、意味のないことだろうか。


むしろ、私は、他者を変人と呼ぶことには害悪があるとさえ思っている。この後は、私の持論だから、好きに賛同も嫌悪も、読み手の好きにして欲しい。ぼくはあなたと同様に人生で何度か、「あなたは変人だ」と言われてきた。「新造君は変わっているから」と半ば諦められたり、贔屓されることもあった。そのときに私は「突き放された」と思った。その人の理解の範疇にないから、私を「変人」と呼ぶことで、私の興味・行動に、それ以上その人の思考をつぎ込むのをやめた合図だととらえた。

もちろん、その人には、その人なりの興味があるから、別に私に興味を注がなくてもいい。が、しかし。わざわざ私に向かって「変人」と言語化するな。あなたの心の中だけで、その言葉はしまっておいて欲しい。そして、他人の行動だからこそ、周囲は自分との差分が気になり、それを「変わっている」とか言語化するけど、協力するは以外ほっといて欲しい。私は、「変」とか言われると、傷つく。どんな小さな言葉でも傷つくし、あなたに悪意がなくても、傷つく。

「変人」と呼ばれる人は、私にとっては、「自分の興味を何か把握していて、それに時間や熱量を注ぐことができる人」である。稀有な存在である。しかし、自分の興味に忠実であり続けることは、容易ではないし、総じて繊細な人が多いと思う。私自身は、自分で自分のことをまともだと思っているが、大変繊細なので、すごく簡単に傷つく。だから外野が、こちらの気もしれずに、「変人」とか「変わっている」とか言うな。自分の興味もわからず行動も出来ない凡人が、安全な外野から才能の足を引っ張るような小石を投げるのが許せない。

これまで人生で出会った何人かの人々は、変人を褒め言葉だと思っているみたいだった。それはその人の言語感覚だからよしとして、私は変人を褒め言葉であるとは思っていない。自分に向けられたそれは、小さな小さな、針である。そして、そうした。更に、何人かは「私は変人です」「私ヘンでしょう?」と言う人がいる。彼らは何らかの理由で変人に憧れ、変人になりたいと願う変人ワナビーであって、真性の変人ではない。

そもそも、変とは中心・平均からの差分であると私は考えている。それぞれの人間が、それぞれを中心とした世界で生きているならば、その人は変人ではなく、その人自身の世界での中心。規範。平均。標準。つまりは、もっともマトマな人物である。だから、自分のことを「変人」と自称したい変人ワナビーは、自分中心の世界では無く、他者を中心とした世界に生きている。そうなると、私の変人の定義である「自分自身の興味を感づき、それに従い、時間と熱量を注ぐ」から外れる。

自分のことを変人と言いたがるその人の持ち合わせている価値観は案外常識的だったりする。変人になりたいワナビーがいかにまともで、本物の変人には「自分は変人である」という自覚がないんだから、世の中はいかに面白いか。

そして、この「本物の変人」に、自分のやり方がヘンだという自覚がないのは、変人という存在の本質に関わることだ。ここからは説明がややこしくなるので、「本物の変人(定義=自分自身の興味を感づき、それに従い、時間と熱量を注ぐ人)」のことを、「純人」と呼び改めることにする。

もし、純人が自分のやり方や興味が、他の人と違うと気がついて、それで抑制してしまっては、その人は純人ではない。また、周りから「変人」とたくさん言われ、拍手喝采されてしまっては、自ら自己演出をするようになって、本来の無為自然的な有様が失われてします。本来は天然物だったのに、その力みが養殖に自らを変容させてしまう。どこかぎこちなく、振る舞いとしての変人は、純人としてのパフォーマンスを大幅に低下させてしまうのではないか?そう私は危惧している。だからこそ、周囲は、純人のことを「変人」などと呼んで、彼らの天性の才能を鈍らせるようなことはして欲しくない。

「薔薇が美しいのは、自分が美しいということを知らないからである」と開高健は言った。それを純人に当てはめるならば「変人が魅力的なのは、自分が変わっているということを知らないからである」と言えると思う。花の美しさにせよ、人間のユニークさにせよ、その根っこには他者との比較による自己演出では無く、あっけらかんとした無自覚があると思うと、大変面白いと思う。

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