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長崎県波佐見〓みみがひらいて

耳がひらく。今日は耳がなんどもひらく。そうすると音の聞こえがさっきと変わる。聞こえてくる音の芯まで捉えられるようになる。なんどもひらくのは、より開いていっているのか。それとも一旦閉じたものがまた、ひらくのを、なんども繰り返しているのか。ただ、音のきこえが違う。聞こえる、というよりも、見えるという風にいいたくなる。耳がひらくと、世界の色彩も少し変わるから。朝の訪れ、雨の訪れ、晴れ間の訪れ、夕方の訪れ、闇の訪れ。さまざまな訪れを、風の匂い、鳥や虫の鳴き方から感じる。大げさではなく、それほどに変わる。


おなじ空間にいても、それぞれの時間で音がちがう。土地を移動せずとも、時間のなかをぼくたちは移動しているのだ。あっちからこっち、こっちからそっち。一度来た方向には戻ることはできない。けれど思い出すことはできて、しっかりとまるごと思い出すことはできないから勘違いの含んだ過去は、新しいヘンテコな国へのパスポートになる。ひとつの部屋にいて、本を読んだり、文章を書いたり、手紙の文面を考えたり、たくさんの「たり」をしながら、音がきこえてくる。集中していると、その時間に空間を流れていた音のことは忘れて閉まっているのだけど。さっききいていた音とは違うことが、わかる。座る位置を変えるだけで、冷蔵庫の音からは遠ざかり、川のせせらぎの音が強くなる。


無為自然ということばがある。よく思い出すことばです。都会よりも、田舎とよばれる地域のほうが音の種類がおおく、幅がひろいのではないか。窓の締め切った都心の家にいると、聞こえてくるのは空調や機械のモーター音だろうか。躰からも音ははっせられているけれど。今、山の上で文章をかきながら、川、セミ、風の音が聞こえる。鳥が窓の外を飛んでいった。聞こえてくるけど、目には見えるけれど、名前を知らない。緑、とひとことでいってしまうけど、そこにはたくさんの知らない樹木や植物があって、個体差も、あって。緑、川、風、ということばを、今日は何度口にしたかわからない。もっと、彼らのことを知りたい。そうおもったら、風の高い音が、ひゅううぅい、ぎゅううぅい、と聞こえてくる。


たしかに音はした。それを、文字にするのはどうしたらいい。文字のフォントを変えて、色を変えて、そういったPhotoshop的なことが思い浮かぶけれど、ピアノや、喉や、水彩絵の具で、風の音を表すことができたら素敵だと思う。窓の外には雲が流れていて、樹木が静物のようにしずかにしているようにみえるけれど。近づいてみたらダイナミックに動いてるのもあるだろう。外にでよう。樹木、ということばのスキーマが、どうもぼくは薄いようだから。ひぐらしが遠くで鳴きはじめた。新しいおとが聞こえると、左耳の奥が新しく、ひらいた。


さんぽ。そして、ご飯から帰って来た。昼におなかがすいて、山を降りて町に食料をもとめようとしたときに「ああ、おれはイノシシだな」と思った。人里に、食料を求めて、下山していく。ひとり笑ってしまって、下山はやめて昼寝をすることにした。起きてから、上の「耳がひらく」の文章を書いた。ある程度満足したころには、ときは夕方。さすがに腹がへって、下山をする。途中、一台の軽トラの主人と挨拶をする。「歩いてるね」「どこいくか」などと話しかけられたので、「町へ」と答えると、主人も「俺もいくよ」などというから、あなたの車にのせてください、とお願いをした。波佐見の方に言葉はほとんど聞き取れず、それでも、なんだかいい時間があった。


夜は、波佐見で庭師をやっているGとご飯を食べた。今日あったことを共有し、波佐見とはざまのことを話す。ととろや庭、森と林、岡潔や情緒の話をした。わたしが頼んだトルコライスは、2.5人前ほどの量があったが、昼を抜いたから食べることができた。せわしなく、ゆるやかに、1日が過ぎていく。1日という時間が、いったいどれだけの時間なのかを思い出し始めた。時間のすぎかたが、懐かしい。早過ぎず、遅過ぎず。こういったはやさが1日という時間だったよなと思い出される。なにかの狭間を抜け出た気がした。さて、手紙を書いて眠ろうと思う。

長崎県波佐見町鬼木郷G邸にて

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。