吉祥寺にできた幾つかの海について

数週間ぶりに、吉祥寺にきている。まさしくの春にみたその街は、いつの間にか町に移り変わっているだろう。そう想うだけで、ぼくの喉元に感傷的ななにかが広がるには十分だった。改札をでると、駅前では退開発がすすんでいたようで、海が出来上がっていた。

「ワタシは昔からずっとここにいるよ」

誇らしげにそこに陣取っている。それも一つではなく幾つかの海があり、

「来年もワタシと一緒にいるんだよね」

と仲良さそうにぼくの目の前に横たわっているのだ。これは、どうしたことだ(ぼくの困惑をあなたに伝えることが出来ていれば幸いである)。吉祥寺の移り変わりのことで尋ねたいことはたくさんあり、それに相応しい人をぼくは探しはじめた。人は色取々に散らばっているが、誰に声をかけるべきか。わけを唯一知っていそうなのは、目の前にいた一匹の河童だけだった。

河童は、椅子に座り絵を描いていた。あまりに彼の色が風景に馴染んでいたので、ぼくは昨日の自分が予想するよりか幾分も驚かなかった。近づいて彼が何を描いているのか見ようとすると、それの持つらしい声を拾えた。政治についてぶつくさ言葉を落としている。どうやら芸術と政治について一人で議論しているようだった。ぼくは彼から少し離れたところに座って、絵を描く彼の様子を眺めていた。

「ぼくは政治が好きなんだ」

河童はぼくに対して話し始めたようだった。

「政治の定義なんてここでは語る必要ないんだ。限定したところで、そこに生産性は生まれないからね。こんな身なりをしているけど、ぼくは政治が好きなんだ。そう、ぼくは政治が好きなんだ。どうだ。聞くけど、君は政治が好きかい?」

河童はぼくの答えを待つことはなかった。

「そもそもだ。この国の政治を思った時に、ぼくは河童になるしかないと思ったんだ。河童は人々から崇められたり、畏れられたり、君からすればちょっと遠くの存在かもしれない。だから、河童は普段は人間から姿を隠しているわけだけど、だからといってそういった神聖さだけが河童の強みじゃないんだ。ほら。エロ河童なんて言葉があるだろ。そういった一種の見下しをぼくの存在が孕んでいるからこそ、ぼくはぼくの存在を奢らずにいれて、こうして絵の具をを扱っている。これは大きな発見だったよ。」

彼は、自身の存在を誇らしいと思っているようだ。そして、話を聞いているうちに河童として生きることを決めた、彼のその生活態度をぼくは羨ましく思った。

吉祥寺のことは大胆にも聞きそびれたわけだが、海がそこにあることが、腑に落ちていた。人々はどういった態度で生活に腰を下ろすべきか。その課題としての海が、吉祥寺にもたらされているのだ。


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