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米神新都心(5)

釣りに出かけた。18時前に海に向かって、20分ほど海を眺めていた。魚は釣れなかった。釣る気もなかった。今日は空が綺麗だろうと思って、堤防で海が見たかった。堤防で堂々としているためには、釣竿があると便利だ。釣り人の格好をしていれば、周りに溶け込むことができる。釣り糸を海に垂らしておけば、魚が釣れることもある。釣ろうとしても釣れなくて、その邪念がなくなれば釣れるようになる。モテる、も同じようなことだ。そんな話をなんども聞いてきたが、ぼくは、それは邪念がなくなるのではなく、邪念が"抜ける"からだと思っている。今日の今日は、本当に釣る気がなくて、それでいて釣れなかった。お盆だからか、釣り人も多く、静かな海を見にきたはずなのに、堤防はせわしない感じがする。

日が暮れていくと、海の色が変わる。海は空の色を写しているようなものなのに、海と空とでは光の質感が違う。波は揺れている。素材は水だ。空の素材は何だろう。水も空気も、当たり前すぎて、その実際を知らない。空気の中には酸素が入っていて、人間にとっては生存に必要なシステムを回す素材であるけれど、食材にとっては毒だ。酸素は食材の老化を進ませる。生きているうちは、それを無毒化することができたけど、ぼくも心臓が止まってしまったら、この肉は酸素にどんどんやられていくんだろう。水だって、僕の体内に侵入して肉体をふやかすし、腐敗の原因にもなる。空気や水だなんて大雑把な言い方をしたけれど、関わり方によって、その素材の現れ方は変わってくる。

人も、どんな人にとっても誠実な人だとか、悪人なんかは、存在しないのかと思う。イワシが大量に釣れたら、ぼくは嬉しい。少量なら、唐揚げ、煮込み、南蛮漬けなんかにする。1日で食べきれないなら油漬けにしていわゆるオイルサーディンにする。ぼくが美味しいとばくばく食べているうちに、海の中ではイワシの葬いが行われている。地上の祭りと海中の葬式。冠婚葬祭は、表裏一体というより、一続きの流れの中にある。庭の草を今日は抜いて、焼いた。名前の知らない植物を雑草と呼んで、ぶちぶち引っこ抜いて、太陽の日を浴びさせてカラカラにして、最後には燃やしてしまう。状態や種類によって立ち香るものが変わる。厭な匂いにはハエが飛んでくる。カルビを焼いてもハエは来なかったが、草を焼くとくるみたいだ。時折、香ばしく立ち現れたものに緑茶を連想する。何を焼いたら、この好みの匂いが出るのだろう。抜いたばかりの草は、水分を多く含んでいるからか、大量の煙を吐き出して、近所の迷惑にならないだろうか、と少し心配になったりもする。しかし、この焚き火も、拡大解釈すれば香炉のようなもので、いい香りを乗せることができれば火事とは誤解されないだろうし、肉ではなく茶葉の匂いならば、洗濯物についても、さほど厭な気分にはならないかもしれない。

家の庭はプライベートなエリアではあるけれど、外部から簡単に覗くことができるし、庭の上に広がる空には煙だって風船だって飛ばし合うことができる。家の中にいる時には、扇風機を回して半裸で1日を過ごしているけれど、たまたま壁があるだけであって。見えるとか、見えないとか、そういった小さなことで世界を区分けして、のびのび生きているつもりになっている。隙間風がはいってくるわ、どこからともなく家の中に小蟻が侵入してきている。それは、僕の見えるとか、見えないとかは置き去りにして、もうそれは勝手に入って、出ていく。私がそれを、うざったいとか、苛立つとか、いちいち反応もできないような量の、そして感知もできない質的なもので、じつは家の中の空気も物理も移動している。坊主で釣りから帰ってきたが、帰ってきた家の様変わりに、空の具合でしか、変化を見出せない。日が暮れた、だの思うけれど、その繰り返しの中で今日はお盆にさしかかっていて、その時期の釣りが、ぼくの生前と死後にどのような影響を与えるかは、考えもしていなかった。

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