見出し画像

【長編】マドリーとバルベルデの初めの4年間を読み解く

レアル・マドリーとウルグアイ人は久しく深いつながりがなかった。120年の歴史を持つマドリーで、過去に在籍経験のあるウルグアイ人はホセ・サンタマリアとパブロ・ガルシア、そしてフェデ・バルベルデの3人のみである。

ホセ・サンタマリアは聞いたことがある方も多いかもしれない。ディ・ステファノ、パコ・ヘント、フェレンツ・プスカッシュらを擁したマドリーを後方から支えた偉大なるセンターバックだ。
1957年から66年までの在籍の間、チャンピオンズリーグの旧略称であるチャンピオンズカップのタイトルを4度、リーグ優勝を6度経験している。キャリア晩年となる1965-66シーズンでは、チャンピオンズカップのトロフィーを掲げ、そのままマドリードの地でフットボーラーとしての勇退を発表した。

パブロ・ガルシアは2005年にマドリーに加入したのち、レンタル移籍を繰り返し、マドリーでは26試合のみの出場にとどまった。

そして、フェデ・バルベルデはクラブ3人目のウルグアイ人となり、同胞ホセ・サンタマリア以来となるウルグアイ・インパクトを残すことに成功している。


『礎と出会い』カスティージャ

バルベルデがマドリーにやってきた2016年、マドリーは前シーズンにウンデシマを決め、いわゆるディフェンディングチャンピオンだった。そして、監督はジネディーヌ・ジダン。そんな黄金期にやってきた若きバルベルデは、カスティージャを舞台に挑戦が始まった。

カスティージャではルカ・ジダンとエンツォ・ジダンのジダン兄弟や、エルモソ(現アトレティコ)、ウーデゴール(現アーセナル)、アクラフ(現PSG)といった、ファンも聞き馴染みのある選手たちとチームメイト。
当時の監督は、数年後にトップチームで再会を果たすことになるサンティアゴ・ソラーリ。彼はバルベルデを大きく評価し、セグンダBグループ2の全38試合のうち30試合で起用することになる。そのうちの数試合を紹介する。

➀第3節 SDアモレビエタ戦
エンツォと共に中盤を構成。前半22分、左サイドを駆け上がった味方からのグラウンダー性のクロスにダイレクトで合わせ、右足を振り抜く。このシュートがゴールの右隅に刺さり、カスティージャでの2戦目にして初ゴールを記録。今では彼の代名詞となった「ミドルシュート」はこの頃から顔を覗かせていたのだ。

当時の映像は以下のMARCAの記事に載っている。

②第19節 アルバセテ・バロンピエ戦
自慢の快足が飛び出す。後半3分、バルベルデが自陣で相手のパスをインターセプト。コントロールが大きくなったのか、あえて大きく蹴り出したのかは分からないが、ボールはアルバセテの最終ラインの裏へ蹴られ、バルベルデはアルバセテDFを一瞬にして追い抜き、GKも負かした。

Youtubeで公開されていたフルタイム映像。該当シーンから再生される。

③第23節 ゲルニカ戦
CBの欠員続出の事態を受けたソラーリは、バルベルデにセンターバックを任せた。そして、その際の右ラテラルはアクラフだった。ゲームはスコアレスで終え、バルベルデはクリーンシートに貢献した。

そして数年後、バルベルデは当時の記憶を思い出すことになる。それが20-21シーズンのリヴァプール戦(CL準々決勝2nd leg)だ。
当時、カルバハルは負傷離脱中、ルーカスも直近のクラシコで負傷交代をしていた。ラモスもヴァランもおらず、ナチョのCB起用は確定だった。残された右ラテラルの本職はオドリオソラしかいなかったが、ジダンはアンフィールドでバルベルデを右ラテラルに置き、1st legのアドバンテージを守り切ることに成功したという過去がある。

左CBがバルベルデ。

話を戻すと、リーグ戦38試合中の3試合のみの紹介ではあったが、万能型かつ、パンチ力もスピードもあるという特徴は少年時代からの武器であり、さらに磨きがかかった改造後のフェデ・バルベルデが今、我々が見ている彼である。

これまで注目してきた16-17シーズン、バルベルデはリーグ戦で3ゴールを決めており、上記では紹介しきれなかった残りの1ゴールは、言葉を失うほどのゴラッソである。


『苦難の一年、そして。』デポルティーボ

2017年7月1日、デポルティーボ・ラ・コルーニャへのレンタル移籍が発表された。
デポルティーボ・ラ・コルーニャは、スペインの最北西に位置するガリシア州を本拠地とするクラブで、バルベルデは愛する首都マドリードを離れることを決め、19歳と1か月でプリメーラ・デビューを果たすことになる。

当時デポルティーボ・ラ・コルーニャを指揮していたのはペペ・メルだった。彼は15-16シーズンにレアル・ベティスを指揮していた際に、セバージョスを重宝していた監督でもある。

そんなペペ・メルは、プレシーズンマッチでバルベルデをスタメンで起用し、バルベルデは自陣でもらったFKをその場からロングキックでゴールを直接決め、鮮烈なデビューゴールとなった。

初のプリメーラ挑戦となった17-18シーズン、デポルティーボ・ラ・コルーニャは、開幕戦の相手にマドリーを引き当てた。しかし、レンタル移籍中の選手は、レンタル元のクラブとの試合に出場できない条項がある。それにより、バルベルデのプリメーラ・デビューはお預けとなり、第3節レアル・ソシエダ戦がそのメモリアルゲームとなった。

ソシエダ戦以降、バルベルデは順調にプレー時間を伸ばしていったが、チーム状況は相反するものだった。デポルティーボ・ラ・コルーニャは開幕戦以降、2勝2分5敗に沈み、第9節ジローナ戦後にペペ・メルは解任された。

クラブのフロントは当時のBチーム監督をトップチームに昇格させ、命を繋ぐことを試みた。監督交代により、バルベルデのプレーポジションは攻撃的かつ中央寄りに固定化され、安定したプレー時間に監督からの信頼度が表れていた。

一方で、クラブは一向に降格圏から脱出することができず、第22節レアル・ソシエダ戦後にフロントは再び動いた。
バルベルデにとっては、初のプリメーラ挑戦となるクラブで、1シーズンに2度の監督交代を経験することになったのだ。
こうして安定したプレー環境が与えられない中、第23節レアル・ベティス戦で不運にも全治2か月の怪我を負ってしまう。
風当たりの強い日々だった。

バルベルデが怪我から復帰した頃、リーガは残り7試合となっていた。結局、復帰後のスタメンは1試合のみであり、向い風を追い風に変えることもできないまま、クラブはセグンダへの降格が決まった。

初のプリメーラ挑戦が望んだようなものとはならなかったバルベルデは、会見でこう語った。

今年は非常に厳しい年だった。自分のプレーは価値のあるものではなかった。(セグンダ降格は)誰のせいでもない。自分の将来のためにもっと改善しなければならない。ポジティブなことはほとんどない。僕にはたくさんのことが残っている。

今後について、バルベルデの口から出た言葉はこうだ。

(デポルティーボ・ラ・コルーニャに)残ることを望んでいるが、僕はレアル・マドリーの選手であり、マドリーが僕の次なる行き先を決定することを知っている。デポールが再びプリメーラに戻る手助けをしたい。 


『期待と忘却と源水』レアル・マドリー(1)

期待

バルベルデが18歳で母国ウルグアイからマドリードにやってきた時、マドリーはヨーロッパチャンピオン(ウンデシマ)だったことは上で述べた。
その2年後、彼が20歳でガリシア(デポルティーボ・ラ・コルーニャの本拠地)からマドリードに戻ってきた時、この時もマドリーはヨーロッパチャンピオン(デシモテルセラ)だった。

デポルティーボ・ラ・コルーニャでのバルベルデの活躍を見ていたフレン・ロペテギは、ウルグアイ代表に招集されずにマドリードで個別トレーニングをしていたバルベルデに対し、アメリカでのプレシーズンに参加して欲しいと声をかけた。
これが、バルベルデにとっての初のトップチーム帯同となった。

その年の夏、移籍市場でコバチッチがチェルシーへレンタルされ、事実上MFの枠が一つ空いていた。そこを埋めるピースとして、ロペテギはバルベルデのトップチーム昇格を計画していたのだ。

背番号37を背負ったバルベルデは、アメリカツアーでのユナイテッド戦、ユベントス戦、ローマ戦。マドリードに帰還してからはベルナベウでのACミラン戦にも出場した。そしてその試合は非公式戦ではあるが、自身のベルナベウ・デビューでもあった。

プレシーズンのバルベルデを見たロペテギは、彼をトップチーム25人の1人として登録することを決めた。
こうして、デポルティーボ・ラ・コルーニャに戻ることはなく、今に続くマドリー戦士として突き進むことになった。

忘却

デポルティーボ・ラ・コルーニャからのレンタルバック、トップチーム昇格と順調に進んでいたように見えるバルベルデだったが、新シーズンが始まると、全てがそう上手くいくわけではなかった。

既に3連覇を経験していたカゼミロ、モドリッチ、クロースはもちろんのこと、セバージョスやイスコなど同じスペイン人をも好んだロペテギは、あんなに着目していたバルベルデのことを忘れたかのように、開幕後11試合中10試合もの間、ベンチにすら入れることはなかった。

そんな中、CSKAモスクワ、アラベス(当時6位)、レバンテ(当時12位)相手に立て続けに敗戦。「連敗」と「宣告」は表裏一体であるこのクラブでは、当たり前のごとくロペテギの解任論が勃発していた。

漂う嫌悪ムードに視界が囚われている状況で、失ったリズムを取り戻そうとロペテギは、グループステージ第3節ヴィクトリア・プルゼニ戦でバルベルデのことを思い出す。

チームの不振、サポーターの温度感、ロペテギの危機的立場。すべてが制御困難な状況で、ベンチに座っていたバルベルデはロペテギに呼ばれた。チームとしての13試合目でようやく本人は公式戦マドリーデビューを果たしたのだ。

後半9分、バルベルデは中耳炎からの復帰戦だった左ウィングのイスコに代わって投入された。その1分後、ファーストタッチとなったバルベルデはマルセロのゴールをいきなりプレアシスト。わずかながらではあったが得点に関与し、その後も守備力には難のあるマルセロのカバーを忘れなかった。

三連敗直後のベルナベウの要求度は普段以上に高かったはずだが、それでもバルベルデは自身のトップチーム・ファーストゲームを勝ち点3で祝福した。

源水

ベルナベウでの緊張の綻びは束の間、第10節クラシコ(カンプ・ノウ)でマドリーは全世界にみっともない姿を見せた。
「3連敗」と「クラシコ惨敗」は印象が非常に悪い。ロペテギはクラシコ翌日に解任され、当時カスティージャを率いていたサンティアゴ・ソラーリがトップチーム監督となった。

しかし、クリスティアーノが数か月前にクラブを去り、過渡期真っただ中の当時、ロペテギの後を継いだソラーリも4か月と短命に終わり、ジダンが残していった栄光を取り戻す難しさを痛感したようだった。

それでも、ソラーリの功績は悪いものばかりではなかった。
ソラーリは2シーズン前にはカスティージャでの教え子であったバルベルデをはじめ、レギロン、ジョレンテなどのカンテラ出身の若手育成に注力した。
しかも、こうも語っている。

「非常に若く、非常に才能のある選手。子供たちは空を飛ばなければならない。空を飛べる場所はピッチだけだ。5年後も全員がここにいることを願っているよ。」

ソラーリの願いはとうの昔に儚く散ったが、それでもバルベルデが活躍するたびに今でもソラーリの功績は色づく。それは、彼にプレータイムを与えた最初の監督だったからに違いない。

悪魔に襲われたアヤックス戦をきっかけに、ソラーリはオフィスルームを片付けることになり、”取り”戻すはずだったジダンの栄光は、「ご本人の復帰」という形でフロレンティーノによって”呼び”戻された。


『はじめまして、ジダンさん』レアル・マドリー(2)

挨拶

辞表を出した日から290日。ジダンが再び戻ってきた。「三連敗」に「粉砕クラシコ」と、暗い話題ばかりだったマドリーに懐中電灯を灯したのはエースのベンゼマでも、カピタンのラモスでもなく、ジダンだった。

ジダンが復帰した2019年3月。マドリーはラリーガのテーブルで上から3番目だった。CL至上主義のクラブがCLに出られないのは元も子もないと変化を求めたフロレンティーノは、ジダンに来季(19-20)のCL出場権獲得を託す形をとったのだ。

結論から言うと、残された11試合で順位の変動は1度もなく、バルサ、アトレティコに次ぐ形で長い冬をひとまず終えた。その間、ジダン・マドリーは3試合に負け、勝率はソラーリ・マドリーの方が優れていたことは裏のデータとして取られている。

さて、その間、バルベルデはどうだったのか。
こんなデータがある。

ジダン復帰後の5試合で、バルベルデは208分間プレー。対して、ロペテギ・ソラーリ両政権時代(27試合分)の総プレータイムは234分であり、両者を比較すると、過去の2人以上にジダンからの印象は良かったことが分かるはずだ。
(ちなみにバルベルデは18-19シーズンに怪我等の理由による離脱は一度もしていない。)

とは言っても、2018年12月にバロンドーラーとなったばかりのモドリッチを抑えるほどのインパクトはなく、ジダンはバルベルデにゆるぎない絶大な信頼を寄せているとは言い難かった。

18-19シーズンを無冠で終え、製図からのやり直しが効くプレシーズン。
ジダンは同胞のポグバを熱望していた。ポグバ獲得を条件として、ジダンはフロレンティーノからの復帰要求を呑んだとも聞いたことがあるほどに。
そして、そのプロジェクトが失敗したときのための別案もフロントでは上がっていたほど、ジダンはMF層に新たなテイストを加えたかった。

結果的にその夏にMFの新しい顔が追加されることはなく、ひとまず盤石な立ち位置を確立したいバルベルデにとってみれば、好都合な夏となった。

競争

プレシーズンが明け、マドリーでの2シーズン目が始まった。中盤で何かを変えたかったジダンは、見慣れない顔を付け足すのではなく、選手間のプライオリティを並び替えることにした。
しかし、そのプライオリティは、プレシーズンからジダンの中で考え抜かれていた、というわけではなかった。

どういうことか。
19-20シーズン開幕戦、ジダンはバルベルデをベンチの外へ追いやった。ピッチにはいつもの3人を揃え、バイエルンから帰ってきたハメス、移籍報道の絶えないイスコをベンチに入れた。当初はこれがジダンの頭の中にあったプライオリティだ。

この試合でモドリッチがアキレス腱ルールという新ルールで一発退場を喰らうと、翌週の第2節では、一つ空いたインテリオールの枠にジダンは順当にハメスを選んだ。その都合上、バルベルデはベンチ入りを果たすことになるが、出番はなかった。

モドリッチは、一発退場後は怪我が重なり、新シーズンのスタートダッシュは明らかな失敗だった。こうした機会にプレタイムを伸ばしたかったハメスも、やっぱりジダンの中には分厚い壁があった。

モドリッチに続いて、バルベルデも筋肉トラブルを起こしていた頃、パリに出向いたマドリーは枠内シュートが1本も打てずに帰ってきていた。
バルベルデの負傷は軽いもので、PSG戦後にはチームに合流できたが、モドリッチはまだだった。

第6節グラナダ戦後のインタビューで「足が壊れるまで走るのが仕事だ」と話したバルベルデは、直後のアトレティコとのダービーマッチでもスタメンに選ばれ、ここでまたジダンのプランはガラッと変わることになる。

カゼミロ、クロースと共にワンダのピッチへ送り出されたバルベルデは、そのクロースと最多タイのボール奪取数を記録し、「足が壊れるまで走る」の言葉通りに有言実行。このゲームでジダンは大きなヒントを得たのだ。

ダービーの後、クラブ・ブルージュ戦では予想だにしてしていない乱打戦で勝ち点を分け合う形となったが、これは好調バルベルデを起用しなかった代償だと言ってもいいかもしれない。

こうして、上昇気流の乗り場にいたバルベルデは、グループステージ1分1敗で迎えたガラタサライとの大一番でもスタメンをつかみ取り、その後のPSGとのリターンレグもピッチに立っていたのはクロース、カゼミロ、バルベルデだった。

時間はかかったが、ジダンにとってはバルベルデこそが、夏に欲しかった新たな顔となった。

2020年2月16日第24節セルタ・デ・ビーゴ戦。マドリーイレブンは、「中国加油」と書かれたユニフォームを着て登場した。某”某イルス”が蔓延していたことによるものだ。結果的に、全世界でその影響を受けることになり、3月の第27節レアル・ベティス戦を境にマドリーのフットボールライフは止まった。

3か月の中断を経て、フットボールは大きく変わった。まるで別のシーズンを見ているかのようで、19-20シーズンの続きを見ているようには到底思えなかった。観客はおらず、ボールを蹴る音と審判の笛、コーチの声が響く。選手のベンチ登録数や交代枠が増幅されたのもこのタイミングだ。

リスタートゲームとなったエイバル戦、ジダンはカゼミロ、クロース、モドリッチのトリオを84分まで使った。今となっては懐かしい、リーグ戦再開後の怒涛の10連勝はこうして鐘が鳴った。

中断期間のコンディション調整が、再開後の体の動きに出ると指摘されることが多かったようにも感じるが、その点モドリッチはさすがだったのかもしれない。

リーグ戦再開後のモドリッチは若返っていた。
累積による出場停止と、ラリーガ優勝決定後の消化試合の2試合を除き、再開後のリーグ戦ではほとんどがスタメン出場。バルベルデに魅了されてばかりのシーズンにはさせなかった。

こうして、前シーズンは3位に終わったラリーガでチャンピオンに返り咲くことを成し遂げたジダンは、シティ戦で後味の悪い終わり方をしてしまうが、1年間でのチームの変貌ぶりにマドリディスタは拍手を送った。

転生

トップチームに昇格した2シーズン前(18-19)、バルベルデは”チャレンジ生”という肩書きをどこかに持ちながら扱われていたように見えた。
19-20シーズン、その肩書きは捨てられ、”使える新卒2年目”のように幾多のことを経験した。中東でのレッドカードもそれを象徴づけるシーンだ。
そして、20-21シーズン。ジダンはバルベルデに今にも通ずる魔法をかけた。

2020年夏のマドリーは大きく戦力を補整することはなかった。強いて言うなれば、ラ・レアルへレンタルされていたウーデゴールが復帰し、ハメスがイングランドへ飛んだことくらいだろうか。
久保やハキミ、レギロンなどのレンタル終了組は、挨拶程度にマドリーを通過する形で再びマドリーを離れた。

19-20シーズンのバルベルデの才能を見た2020年当時のサポーターやメディアは、彼がモドリッチからスタメンを奪うことと同程度の話題では驚かなくなった。
対照的に、20-21シーズンは怪我や某・某イルスの影響で14試合で欠場し、前シーズンほどの輝きはなかった。

それでも、得点という目に見える成績は19/20シーズンを上回るもので、チーム内での重要性は不変だった。

モドリッチは前年ほど調子を落とすことなくスタメンを張り続けた。そして、クロースがいないとマドリーのフットボールを落ち着かせる人がいなくなる。カゼミロに関してはアンタッチャブルなポジションだった。こうして、いつもの3人が構える中で、ジダンは決してバルベルデを腐らせたくはなかった。

2021年4月10日に開催された第30節クラシコ。ジダンはこのゲームが怪我からの復帰戦となるバルベルデを、前述の3人と共に起用した。

バルベルデのFW化だ。

あれは確かなるマジカル・ナイトだった。試合前の時点でバルサは2位で、マドリーは3位。1位のアトレティコは独走していた。このクラシコで勝てば順位を逆転できる至近距離に標的はいた。

そんなゲームで、右WGに”不動”で”推し”がいるわけではないジダンは、ロドリゴでもアセンシオでもイスコでもなく、バルベルデを初めて起用したのだ。

どんな試合展開だったかは各自ハイライトを見ていただきたいが、ハッキリ言ってバルベルデのFW化は怖いほどに的中だった。

今となってはバルベルデはFWのプレイヤーだが、バルベルデのFW起用が試されたばかりの当時は、”右WGの人選に困ったときの最終奥義”のようなものだった。その後の試合でジダンがバルベルデのFW起用を乱発していないことからもそれは分かる。

とは言うものの、バルベルデがもつ特徴を生かす最適なポジションとして見られたことは間違いなく、強豪クラブを相手にしたときは非常にスマートな戦術だったのだ。

このように、意外なる形でバルベルデはプレーエリアを確立し、それはモドリッチ、クロース、カゼミロを犠牲にすることもなかった。そして、それは1年半以上経った今ではマドリーのストロングポイントにもなっている。

”小鳥”と形容されていたバルベルデはここまでだ。
ここからはあだ名が変わり、”ファルコン(鷹)”になる。


このコラムでは、21/22シーズン以降の内容は省くが、数年前までルーキーだった彼は、今季も昨季同様、モドリッチ・クロースと並んで主軸として戦う存在だ。
そして、今年ベンゼマが受賞したあの賞の受賞者リストに名前が刻まれるのもそう遠い話ではないと騒がれているほどだ。

そんな彼が本当に受賞してしまう前に、私はコラムを書きたかった。
21/22シーズン以降のことは、その、いつかの日のためにとっておく。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?