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ゲージュツについて

競走から下りたい。
生きている限り、社会がある限り、どこに行けども競走があり、下らないゲームに参加せざるを得ない。
大勢の欲でぶくぶくと膨れる社会が嫌いだ(しかし我々にパンが必要なのは紛れもない事実だし、かく言う私もパンなしでは生きられない)。

その反駁としての芸術だと思う。
芸術は不必要で、時に塵を宝石がごとく扱うような道化じみた行為が横行する、馬鹿みたいな精神が必要な間抜けな営みだが、その不必要さに、道化に、馬鹿さ加減に、間抜けさには確かに意味がある。
その行為は意味をなさないからだ。
そこには金銭が発生してはならない。
金銭の授受が生まれれば社会的な意義が見出されてしまう。
だから私は正直美術展が嫌いだ。
絵は見たいから見るけれども、そこに否応なく付いてくる美術に意義を見出そうとする馬鹿どもや、薄汚い口で教養だなんだとのたまう浅ましい奴ら、多くの金銭の動き、模造品、大量消費されるグッズ、全て、全て、全て大嫌いだ。
芸術は消費したら終わりだ、消費社会に組み込まれる。
芸術は聖域であることに意味があるし、聖域であるはずなのだ、どうか、どうか、どうか!

近頃他人のエゴを糾弾することには意味が無いと気づいたが(他人のエゴを嫌悪すること自体が一種のエゴだろうし、エゴだエゴだと責めるよりは双方のエゴを承認すべきだと考えたから)、それとこういった行為とは別にして考えられるべきだろうし、勢いのまま書きなぐっているので支離滅裂かもしれないが、兎角私は芸術については徹頭徹尾意味の無いものであってほしいと思う。
こうした考えの根本にはやはりエゴへの憎悪があるのだろうし、私は未だサリンジャーの言う「太っちょのオバサマ」を身をもって理解できていないわけだが、芸術的な価値は欲まみれの汚らしい手で蹂躙されていいものではないんじゃないのか。
欲があるのは生き物なのだから当然のことだ。
だが芸術が欲に侵されずただ意味のないものとして存在するということは人類の救いになり得るんじゃないのか。
それは、かつて先人が言ったように我々が考える葦であるということを証明してくれるんじゃないのか。
聖域すら失えば我々は縄張り争いをする猿と変わらなくなってしまうのではないか?
目先のパンの為に文を書くな、絵を描くな、物を作るな。
そしてそんな文を、絵を、物をありがたがるな、ブランディングするな、適当な感想を述べ、空っぽのコミュニケーションを取るな。
芸術そのものを見ろ、コンテクストに惑わされるな、まっすぐ、ただ真摯に芸術のみを見つめてくれ。
それができないなら侵さないでくれ。

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