人笑人(コメディアン)バンド愛媛大学で演奏しに行く珍道中ツアー1

12月21日本番

珍道中を語る前に、我々の「バンド」の紹介から始めないといけない。

2008年に発達障害の青年たちと始めた演劇プロジェクトから派生したバンド。人前で演じることは苦手だから演劇はしたくないけど、表現はしたいっていうメンバーがおりまして、何ならできるのかと聞いてみたら、「バンドがしたい」だった。彼女はピアノをこれまでしてきていたので、ピアノなら自信があると。音楽関係にはめっぽう弱い我々でしたから、バンドなんてできるわけないだろうとかなり弱腰になっていたのでした。しかし、思いの外、新しいことにチャレンジしてもいいというメンバーの反応もあり、かといって、サポートする2人は楽器を指導することなんて出来ない、さてさて、と思っていたところに、佐賀県はちょうど国民文化祭の当番県になっていることがわかり、そこに障害者文化祭も並立開催することになっていた。その文化祭では、パフォーマンスステージがあり、参加の打診があった。その時は「演劇」でということになっていたが、せっかくだからこれを機に「バンド」として参加してみようと話し合いで決し、0から「バンド」をスタートさせた。「演劇」の時から、BGMやテーマソングを作ってくれた音楽家が全面的にサポートしてくれて、彼女を除くメンバーへの楽器演奏指導・支援(ギターとベース)を担当してくれた。そして、「編曲」という形でサポートしてくれた。これは本当にありがたかった。演奏したい曲を、メンバーの楽器編成、力量という条件で、演奏しやすく「変えて」くれた。そんなこんなで、2ヶ月余りの練習の元、デビューステージは無事に終了した。これに気を良くしたメンバーは、他でも演奏したいと言い出した。もちろん、いち早くそのことを言ってきたのは、彼女だった。「バンド」マンになったのだから。その時に会得した2曲でその後4年乗り切った。まずは「00」、最後の曲になりました、「△△」でお別れしましょうというお決まりのMCフレーズで演奏会は大盛り上がりになった。
メンバーは少しずつ減っていって、ある意味固定メンバーになった。7名。このあたりで、我々には鉄板曲となった「let it be」が我々の持ち曲となる。1年に2回は演奏会、このあたりでは、もうLIVEと呼ぶようになった。というか、した。
let it beは、字義通り、あるがまま。我々にはふさわしい。そうだ、本来ならば先にこのバンドの最大の特徴を話さないといけなかったのに、忘れていた。
デビューステージから一貫しているポリシーというか「売り」がある、我々には。
【間違えたらもう一回やり直す】
音楽業界ではタブーなルールだ。しかし、我々がもともと取り組んでいた演劇、それも即興演劇(インプロ)では、失敗したらもう一回!というのがセオリーだった。
発達障害、まぁ障害と言っていいだろうが、障害があるから失敗したり間違えてしまったりすることは日常的にある、少なくとも健常と呼ばれる人よりはいっぱいある、はず。
障害があるから失敗は仕方がない、マイナスイメージではあるが認知されていると思う。

失敗はしない方がいいのか?インプロでは、失敗する、というか失敗を恐れないでチャレンジする、その結果失敗する、それが滑稽になる、観ている人たちは楽しんでくれる。決して自虐的ではなく、エンターテイメントとして面白い。そんな文化があるのだ。
それを、我々は「バンド」に持ち込んだ。賛否両論あるとは思う。だけれども、間違えても堂々としていて、もう一回を会場全体のコールアンドレスポンスしたら、これは立派なエンターテインメントだ。
楽器演奏、特に、演奏経験の浅い人間には、間違えたらどうしよう、みんなに迷惑がかかる、自分の音くらい誤魔化してもいいんじゃないか、そんな思いはあるはずだ。演奏がうまくない「バンド」の楽曲を聞いても何も嬉しくないし、それこそ、障害があるから頑張ってるね、という感動ポルノを生み出すだけで、エンターテインメント要素まるでなし。
そんな思いやマイナスな可能性を一気に吹き飛ばしてくれるのが、この、間違えた時は「もう一回」とご唱和。これで演奏パフォーマンスも、ステージ構成もエンターテインメントに生まれ変わるのだ。

その後、楽器はできないけど、「バンド」に加わりたいメンバーが入り、let it beのボーカル部門を強引に作って、そこを彼にお願いした。ボーカルが入ると、ライブハウスでも十分「映える」

2018年はまさに、ライブハウスデビューの年だった。加えて、バイオリンの凄腕で且つ特別支援のプロがメンバーとして加わった。このバンド、サポーターは2名。どちらも演劇プロジェクトで主催したのだが、一人はトランペットで、もう一人(これは私)はバイオリン、かっこいいから楽器を購入したという楽器演奏はど素人。
我々ど素人が「バンド」に踏み切った理由はもう一つあった。
演劇プロジェクトの時には、脚本家、演出家、演技指導、演技でのサポートなど、我々が支援する側になり、彼らは支援される側という関係性が、固定化してしまっていた。これが悪いわけではないのだが、関係性の変容から生み出される作品ほど興味深いものはない。「バンド」では、少なくとも、教える、教えられるという固定化された、あるいは一方向の関係性はない。我々サポートしていた側も、自分の器楽演奏に一生懸命になってしまい、申し訳ないけれど、余裕があったらサポートするという程度のもので、バイオリンのチューニングで30分かかる私を横目に、さささと、アコギのチューニングを終えて、楽譜を見ながらコードの練習をしている教え子がいるという現実だ。
合わせる時に、音のバランスというものが分からず、いろいろな位置で録音をしては、こんな感じかなと手探りしているという状態だった。だから、私はフラットな関係という表現を、この「バンド」では使っている。フラットな関係はよくティルトが起こる。我々が間違えたり、テンポが遅かったりしてメンバーから「指摘を受ける」ということがある。時に、眉をしかめたくなる時もあるが、そこはぐっと我慢する。

バイオリンの凄腕の彼も、例外ではなく、「できる」ことは当たり前、より難しいことに「挑戦」することを求められ、この愛媛大学の演奏会の前のライブでは、本人曰く、「コンサートよりも冷や汗をかいた」らしい。→愛媛大学演奏会での出来事でも、このことは詳細に記す予定。

と言ったバンドなのだが、2017年から嬉しいことに佐賀県を飛び出して県外で演奏させてもらう機会が増えてきた。

我々は、福祉事業所としてこのバンド活動をしているのではなく、メンバーは主にB型福祉事業所の利用者で、そこに特別支援学校教員をしている3名がサポートで入っているという、市民活動団体である。

私は、このような形態で、20年障害のある人たちと演劇を作ってきた。その一つが発達障害の青年たちとの演劇プロジェクトだったのが、学校の部活動的なものではなく、福祉事業所の事業の一環でもない。社会教育というのか、生涯学習の場というのか、そんな位置付けで取り組んできた。
2017年、国は障害者の生涯学習を推進し始めた。パラリンピック、それに障害者の芸術文化活動事業の普及という背景があるとは思われるが、これまで、障害者が学校を卒業、あるいは学校外のことは、厚労省領域であったのが文科省の領域になってきた。
文科省が、全国的に、この障害者の生涯学習を推進する流れの中で、全国数ブロックに分けて、それぞれに大規模イベントを企画したのだった。そこに立候補したのが、愛媛大学(話せば長くなるが私の母校でもある)で、その中心的存在が、私が色々と協力させていただいている研究のまとめ役であり、多岐にわたって相談させていただいている苅田准教授だったのだ。
そのイベントで、ぜひ我が「バンド」に演奏をしていただきたいという、とんでもないオファーが来たのが2019年春のことだった。

愛媛大学苅田准教授と我々の活動との繋がりは、6年前に遡るが、これとは別に、障害者自身が情報発信する場作りとして、コミュニティラジオでの番組を持っていたこともあって、それを愛媛大学で公開収録という形で実現できないかというありがたいオファーをいただいたところにある。

このラジオ番組も、事業所でしているものではないので、これまた生涯学習の枠に当てはまる。生涯学習の定義も、幅広い。何せ障害者スポーツ(パラリンピックを広義に)から、アールブリュット(障害者文化芸術活動という広義に)を含めていくのだから。

というところで、ラジオ番組にも今回の愛媛大学イベントからオファーがかかり、「バンド」(正式には人笑人バンドというので以後はこちらを使います)とラジオ番組(こちらも正式にはエイブルオンラジオというので以後はこちらを使います)に関わるメンバーたちが、佐賀から愛媛は松山に一緒に行くことになったのである。


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