見出し画像

平穏な日常に、想定外のワンダーなブツを発見したボクは、「良心」と「見て見ぬふり」の狭間に立ち、心が死にかけた。

7月に突入しましたね。

皆さま如何いかかお過ごしでしょうか。我が家はいつもと変わらず、シュールで平凡な日々を送っております。

さて、いまから、誰に向けるわけでもなく、何一つとしてタメにならないおぞましい“クソ”日記を綴るので、

みなさま注意深くブラウザをそっと閉じて下さい。

ボクは早朝、川沿いを散歩をするのが好きだ。

我が家の近くには川がある。

ボクのnoteの“見出し画像”までしっかり見てくれている“変態noter”さんは、もしかしたらある程度のイメージがつくかもしれないが、

それは、おおよそ20mの川幅で、
その川沿いの両脇には、舗装されたコンクリート道が続いており、人々のランニング、散歩コースとなっている。

この川は、四季折々の姿で
近隣住民に季節を感じさせてくれる。

春は鴨の親子が行列をなし、
夏は子どもたちがワイキャイと水遊び、
秋はバーベキューの匂いに包まれ、冬は白い吐息をふかせてランナーが走り込む。

都会の中にあって唯一無二の美しい自然を
感じられるこの場所。
実は、ボクが今のマンションを購入した最後の決め手は、この川の存在だった。

購入前に川沿いをランニングしたとき、
老若男女が柴犬、チワワ、ブルドック、レトリバー、さまざまな犬たちを連れて散歩し、すれ違いざまに気さくに挨拶を交わす光景がここにあった。そのとき、なぜか心がすっと落ち着いた。こんな時間が永遠に続けばいいのに、とさえ思った。

ここだ。

イメージできた。
日々、ボクは子どもたちを連れてここにやってくる。そして意味もなく理由もなくぶらぶらと散歩する。
そんな自然体でいられる未来を明確かつ明瞭にイメージすることができた。

10年前に想像した未来は、現実のものとなった。

この川は、我が家にとって生活の一部となっている。ランニングや散歩、水遊び、そして夕べの語らい。いつだってボクらはここにやってくる。

先週の日曜日も、
早朝5時からボクは長女と次女を連れて、ワイワイ、キャハハハ騒ぎながら川沿いを散歩した。

しかし事件は突然訪れた。

平穏な日常が切り裂かれたのは、
歩き始めて間もない頃だった。

川沿いの隅っこ。
少しだけ草が生い茂っている箇所に、
大きなウンチが落ちていた。

見つけたのは、次女で、
5時10分。
犬のウンコだー、ギャー、オエェー。
子どもたちの騒ぎ声が、早朝の澄んだ空気に一際大きく響いた。

ボクは、とりあえずブツをしっかりと、
眺めてみた。

あ。

大人だからか、人生経験が長いからなのか、
その理由はわからないけれども、
ボクは確信をもった。

これは犬じゃない。
サイズと形状から“人糞”だ。

発見時刻と、少し残るベチャつき加減をみて、これは土曜日の夜に調子にのってアルコールをしこたま摂取した人間が、

猛烈な便意を耐えきれず、
いたたまれずにこの神聖な川に駆け込み、パンツを下ろしブリブリブリと盛大にやらかしたものだと推測した。

犬のクソであれば、
まともな飼い主は片付けてくれる。
でも人糞は、誰が片付けるのか。

一瞬、真剣に考えてみたが、
きっと風化されるまで待つことになる。
それは宿命。容易に想像がついた。

たいていの日本人のようにボクも、見て見ぬふりをするつもりだったけれど、
この後に太陽が昇ってから
わが子と同じくらいの年齢の子どもたちが集まって、そして水遊びを始めると思うと、ボクの頭の片隅から消すことができなくなった。癒やしのこの場に似つかわしくない人糞が、きっと、多くの子どもたちに対し、
悪い意味で、存在感を発揮するのであろう。

第一発見者。

これが責任感というものであろうか。
いや、罪の意識というやつか。
なぜ、ボクが罪の意識、申し訳なさ、おもてなしの気持ちで、他人様の人糞を気にしなければならないのだろうか。

とは、思う。

神を信じてはいないが、
念のためにボクは祈りをささげた。
この人糞の“施主”も、少しでいい、罪の意識を持っていてほしいと。

もしかしたらその祈りによって、意識が改心されたかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、神の力には即効性はない。その効果が発揮できるのはまだまだ先の話。
犯人は現場に戻るというが、糞の“施主”が、いまからビニール袋をもってやってきて、ブリブリとやらかした現場に後片付あとかたづけをしに戻ってくるとは到底思えない。

そうなると第一発見者。
ほっとくわけにはいかない。
地元愛。美意識、自然観。
心にあるそれらの感情が、ボクの見て見ぬふりを退けた。

かといって、
愛犬のウンコ同様に、この人糞を持ち帰るなんて、仏の心をもってしても、さすがにできやしない。

少し考え、
子どもたちと会議を行った結果、
柔らかい土をシューズでグイグイ掘りすすめて大きめの穴をつくり、そこに埋めることに決めた。
土のなかにはみみずを始め、たくさんの微生物がいて、彼らがその糞を分解してくれる。
結果的に人糞は堆肥となり、やがてつぼみがムクムクと出現し群れとなす。つぼみはやがて見たこともない花となり、ピンク色の匂いを撒き散らしながら草むらを埋め尽くす。

理科で習ってきたのであろう。
長女が名案を提示した。

そうだね。
そうしよう。

我が家の基本方針が決まると、
ボクは意を決して、かがんでみた。

気付いた。

屋外でみると、
大きい。でかい。
犬とは比べものにならない。

同時に、これは絶対に人糞だと確信した。

これまで大人の他人のブツの大きさには免疫がなく、また路上で見たこともなく、大きさを知るよしもなかったために圧倒されてしまった。

というか、多くの人は介護や医療関係者を除き、大人の他人のブツの大きさには免疫がないはずだ。しかも路上で。

もし介護、仕事以外で、日常的に大人の他人のブツの大きさを見る経験が豊富な方は、是非とも名乗り出て頂きたい。

それはどのようなシチュエーションでそうなってしまったのか。やむを得ない事由によるものか。どういうプレイなのか大変興味がありますから。

ボクと2人の子ども。
ギャーギャー、そしてワーワー言いながら、大きな石や木の棒を駆使して人糞を穴の中にぶちこむと、最後は処理に使用したそれらもすべて含めて収納し、土でしっかりと蓋をして見事にほうむった。

ボクは、これら“人糞”の処理を通して、多くの真理を学んだ。

先ず一つは、「だいだいの事は気の持ちようでどうにかなる」ということだ。

どこの馬の骨か分からない人糞の穴埋め処理というのは普通に考えればできるものではないが、第一発見者という責任感をもって穴掘りをすすめるうちに、あ、意外とオレ、社会貢献してる、いいことしてる、
となったわけだ。

もう一つは、「気の持ちようでは突破出来ない“人糞の持ち帰り”がある」ということだ。

社会貢献の意識や、正義感はすこぶるある。
しかし、さすがにビニール袋を巾着袋のようにして、スコップでブツを入れて持ち帰ってトイレに流すことまではできない。

この真理は、
“人糞の持ち帰り”に限定された話ではなく、さらに一般化できる。

この世には、気の持ちようではどうにもならない領域が存在するのだ。

そしてさらに重要なこと、
それは

「気の持ちようで変わるものか、それとも芯から受け入れられないものなのか、究極な状況に立ってみて初めてわかる。」
ということだ。

「人糞の穴埋め処理」も「人糞持ち帰り」も、ボクだって究極の状況に立ってみるまでは、同程度の不快感をもっており、どちらもにわかに受け入れがたいものだった。

ただ、究極な状況に立ってみて初めてわかった。その両者の不快感は本質が異なっており、一方は先入観や、経験不足によるものであって、もう一方は構造的、生理的な問題によるものであった。

これらの経験を踏まえ、
今後の人生で、何かとても不快な事や不快な物に出くわした時は、先ずは先入観を捨てることから始めたい。そう思う。

そして自分の経験の浅さを徹底的に疑い、気分を変えて“失敗より何もしないことを恐れろ”の本田宗一郎の言葉を胸に刻み、物ごとの本質を見極めていきたいと思う。

極端な見方かもしれないが、
それこそが人の成長できる本質だとボクは考えているから。

ビシーーーーっっっ

っと。決まった。

………って、なるかいな。

ね。

だから、言うたよ、オレ。
“クソ”日記だからブラウザをそっと閉じて下さい、って冒頭に。

悪くない。
おれは絶対に。
ここまで読んでしまった君らが悪いのさ。

※そういえば、少し理由ができて、ようやく今週スマホを新調します。それはまた来週か
再来週にでも。


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