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ガキのころのゴボウ抜きが、ボクの人生でもっとも“光り輝いた”ピークだった気がする。

あなたの人生のピークは、
何歳のときですか?

から始まる文章は、なんだかスピリチュアルのにおいのするものでムズかゆいが、ボクにはそんなことを語る力量もないし、
そんなつもりもない。

でも純粋に、
そう問われて、即答できる人は、
いったいどれくらいいるだろうか?

ボク自身を振り返ってみると
この究極の命題を巡って、物心ついた時から毎日のように周りと小競こぜり合いを続けてきた気がする。

自分自身のピークを語るとき、
結局のところ、相対評価になるのだ。

それは至極当然しごくとうぜんである。
比較する物差しがあった方が、物事を理解しやすいし、納得しやすい。

“バレンタインにチョコを5個もらった”だと、
自分にビッグウェーブがきているのかどうかは分からないけれど、

“クラスで3個以上もらえたのは4人”、
という事実が判明すると、
「うおおそりゃすげえな!!ついにモテ期の到来だな」
と実感できる。

そういうことである、
と定義してもいいか分からないけども、
まあそういうことであろう。


人生のピークといっても、
このピークを感じる指標が年齢によって変わる。これが、この設問の難しさの元凶である。

“足の速さ”の時もあれば、“喧嘩の強さ”や、“頭の良さ”の時もあり、“素行の悪さ”、になったかと思えば“運動神経”や、“恋愛経験”へと続く。

そしてやがて“大学名“になり、“内定先“になり、“人脈“になり、“仕事力“になり、“年収“になり、“出世”になり、

んっと、お次は“子供のお受験“?
にでもなるのだろうか。

人生のピークを感じる指標は次々と目まぐるしく変わる。

この人生の節目ふしめ節目ふしめ
ことごとく敗退を喫してきたボクは、もちろん今現在、
“ど平凡”な人生を送っており、

“どん底だった“と言える時期はいくらでも答えられるが

“ピーク“の時期は、
おそらくどこかにあったはずなんだけど、
それがいつかは答えられない。

しいて挙げれば、小学校の運動会リレーのアンカーで最下位からゴボウ抜きして大脚光を浴びた、

あの瞬間くらいであろうか。

あのときのボクは、
たしかにひかり輝いていた。

会社一筋、永年勤続20年

会社から表彰された。

がらでもなく人生のピークだなんて壮大なテーマを冒頭から引っ提げたのは、
このイベントがあったから。

学生時代の皆勤賞かききんしょうと同じで
継続すれば誰でも表彰されることをドヤ顔で自慢するだなんて、まさにボクの平凡ぶりを象徴したきわみではあるが、
個人的には、とても感慨深かった。

平凡であるがゆえに、毎日「投げ出したくなる自分」との闘いがそこにはあり、それを必死にフガフガもがいて進んでいると、気がつけば20年が経過していた、という感じが正しい。

でも、自分が入社したときに生まれた赤ちゃんが今年成人式を迎えたと思えば、やっぱり20年というのは、刻まれた時間の深みと重みを感じる。

このかんの、一社員のボクはこれといって光り輝く目覚ましい活躍ぶりはなく、会社全体からみるとウンコのような成果しか残せなかったが、

日本経済ではリーマンショック、チャイナショック、東日本大震災、そしてコロナショックと景気後退局面があったものの

我が社は、不況らしい不況に巻き込まれることもなく、安定した給与、毎年の昇給とボーナスをちゃんと頂けた。
今後も少なくともボクが働いている間は、給料が突然支払われなくなることもないし、突然倒産することもないであろう。

だから改めてではあるが、
このnoteで茶化したり、不平不満をグチグチ述べてはいるが、もちろんボクは20年勤めてきたこの会社にとても感謝している。安定した生活の根幹こんかんを支えてくれた。

ありがとう。

でもな、ごめん。
これ以上の伸びしろはない。

アラフォーを過ぎると
ぼんやりだった老いたるものが、次第にはっきりと見えてきて、人生の残りは数えるほどしかないと知るのだ。
数分か、数時間か、数年後か、数十年後か。それは知らないが、
「歳をとっても可能性はいくらでもある」
とはいえない程度に残りは少ない。

だから40年も、平凡に生きてきたオッサンであるボクは、線香花火が消える間際にひときわ明るく光る事象みたいなものはあるかもしれないが、

村神様のように、ずっとダメでも一本打って、全てを帳消しにできる能力やカリスマ性、他人からの揺るぎない信頼のようなものをいまから築くことなんてのは到底ムリ。

そんなにピークは高くないけれど、毎日職場に来て、60から70くらいの結果をコンスタントに出し続ける。

それがボクの残されたサラリーマン人生で、
できうる最大の会社への貢献であろう。

それでいいのだ。

そこで自分がやり遂げたことに“自信と誇り”を持ってやっていこう。

永年勤続表彰をして頂き、
改めてそう決意した。

母校の光高校が“近畿地区代表校”に勝利した

WBCで日本が世界一を掴み、国民が歓喜に沸いた裏側で、ボクは日本の野球の聖地・甲子園で涙していた。

22日、休みをもらった。
案の定、“WBC休みだろ!”
と周囲からツッコミをされるが、

違うちがう。

一生の記念になると思い、
次女を連れて母校の光高校の応援に行ってきた。やっぱり聖地に行ってよかった。晴れやかな後輩の躍動する姿と、スタジアムに響き渡った校歌に涙ボロボロ、感極まった。

いまの時代、甲子園を目指すのなら、自分が進む学校をどこにするかがかなり重要な要素であり、優秀な選手は都道府県を飛び越えて進学先を選ぶ。

だから最近は、山口県の強豪校もその色が強くて、どんどん他府県から野球エリートを受け入れ、それによって全国でも比較的、対等に戦えるようになった。

しかしボクの10〜20代の頃の山口県代表校は、地元では「強豪校」でも、甲子園に出ると、野球人口の多い関東や関西の代表にレベルの違いを見せつけられて、大敗してしまうことが多かった。

同じ日本人でも、
所属する空間で、
その空気はずいぶんと異なる。

ローカルな場所に暮らしていると、
そういった実力の差がどれだけ全国と乖離しているのかがわかりづらい。

選手も県民も、ピークという表現が正しいかは分からないけども、このチーム最強、エースはドラフトにかかるんじゃね?と思っていても、甲子園に出ると県代表校よりも強い高校が山ほどあることがイヤでもわかってしまうので、高々だった鼻をボキボキにへし折られて、それが“井の中のかわず”だったことを知る。

全国の強豪校には勝てない。
それがボクに染みついた感覚であった。


人口5万人の山口県光市。

市の唯一の公立高校である我が母校・光高校は、スポーツ特待生の受け入れもなく、部員全員が山口県内の中学校出身で、その大半が市内とその近隣である。

相手は滋賀県1位で、近畿地区大会で8強。
あの最強軍団、大阪桐蔭にも善戦した彦根総合高校だった。

まあ負ける、、かな。
ボクの感覚では、
勝てる要素を見つけるのが難しかった。

しかし。
それを見事にまで裏切ってくれた。

勝った、勝てたのだ。
ここで散々、ど田舎と揶揄やゆしてきたボクの生まれ育った光市。
その田舎の寄せ集め集団の我が母校が勝ったのだ。

窮鼠きゅうそ猫をむ。
ガリっと。

嬉しかった。

でも、それよりもね。
観戦しながらボクは、プレイしている選手たちのことではなくて、アルプスで“群衆“のひとりとして懸命に声を張り上げて応援している野球部員たちのことを考えずにはいられなかった。

スタジアムでプレイする選手が揃わなければ、もちろん野球はできない。

でも、あの大舞台のなか、必死にスタンドで声を張り上げている補欠組がいなくても、ここまでこれないんだよね。
彼らはきっと中学時代はそこそこの野球エリートだったはずだが、比較するべき物差しの中では競争に負けた選手たちである。

平凡なボクにはわかるさ。

甲子園にプレイヤーとして出られたり、
プロのスカウトに注目されているわけでもないのに、きつい練習をして、やり遂げるって、ある意味、
「才能がある選手が、甲子園に出て活躍すること」以上に大変で、すごいことだから。
何度もやる意味を考えながら、投げ出したくなる自分にムチを打ってきたはずなのだ。

出場できなかったベンチ入りの選手も、ベンチに入れなかった選手たちも、みんな「自分がやり遂げたこと」に自信と誇りを持ってくれればいいなあ、とボクは願っている。


ボクだってそうだ。

ボクがリーマンとして線引きをしている50歳までは「あと7年」。きっとこれからも毎日「投げ出したくなる自分」との闘いが続くのだと覚悟している。

とはいえ、リングからいつか降りる日が必ずくるのだから、リングの上にいられるうちは、必死に抵抗してみるのも一興かな、と。

そんなことを考えた
濃密な一週間だった。

さ、明日は関東一位のチーム、
山梨学院と対戦か。

きっつ笑

でもまた行くから。
聖地・甲子園で、光り輝いてくれることを願ってるよ。勝っても負けてもね。

でも、雨天延期が濃厚かな……


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