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ファミコンがフリーズして、息でふぅふぅしていた頃、未来でわが子と“マリオ”を語らい合える日がくるなんて思ってもみなかったよ。

ゴールデンウイーク終盤戦を迎え、
皆様いかがお過ごしでしょうか。

我が家では、
4歳末っ子が無我夢中に連日連夜、
鼻息はないき荒くSwitchをするシュールな光景が広がっております。

マリオパーティ、
マリオ3Dワールド、
マリオカート、

ユニバで買ったマリオの帽子をかぶり、
鼻歌でマリオのBGMをかなで、
指先でマリオを操る。

彼はまさに至れり尽くせりのマリオづくしの
マリオ三昧の、
マリオワールドなのだ。

クッパに対面するやいなや、
ボクを呼び出して、攻略するように指示を出す。

4歳にして、あまりにも無駄のない動きとストレートな要求にボクは成すすべもない。

言われるがままにクッパを
“ぴょんぴょんぴょん”と、
3回踏みつけて、よっしゃとドヤ顔をかますが、その功績もなんのその。
流し目で華麗かれいにスルーし、

“ハイ、もう結構ね“”
“用は済んだよ”

と言わんばかりに、こんどは
コントローラーをグィっと取り上げ再開する。

もう、マリオ、マリオ、マリオなのだ。

一週間前に
“ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー”を観て以来、
末っ子の脳内は、
どうやらマリオの世界に支配されてしまったようだ。

ボクは1979年生。ファミコン世代

小学校1年生の頃、
ボクがまだ純真無垢じゅんしんむくだった頃。
いや、いまと変わらず
“うんこ”、“しっこ”と連呼していた頃。

サンタさんが我が家に、
ファミコンをもってやってきた。

一緒に付属していたソフトは
(※当時はカセットと呼んだが)

“スーパーマリオブラザーズ”
だった。

きた!!やっったー!超ラッキーだ!
プレゼントをみるなり飛び跳ねてハイタッチをくりかえしたボクと姉貴。

当時、世の遊びは、ファミコン。
ファミコンといえば、マリオ。

このペアで空前の大ヒットを記録しており、同級生の多くは一家に一台、
このペアで所持していた。
つまるところマリオはファミコンの中核をなすエネルギー源であり、マスト装備だった。ここを飛ばして、
「ファミコンを持ってます」
は成り立たなかった。

ボクにはハヤカワ君という友達がいたが、
この男はみんなから「ファミコン王」と呼ばれていた。マリオを全クリするのが異常に早かったからだ。

クリアが早いだけで尊敬される。

単純なことだが、
それだけのことで王になれた。
ボクは王どころか平民もいいところで、スクールカーストの最下層であり、王の前には、
ただただひれふすしかなかった。

ぞくぞくと思い出す。ファミコン時代の思い出。

ボクらの世代は、
これを語りだすときりがない。
柿ピーと、生ビール片手に一晩やれる。

思えば当時のファミコンは、
頻繁にフリーズしていた。
ボクらはゲームをしている最中、突然現れる静止画におびえていたのだ。

ゲーム中に、

マリオがジャンプした瞬間に
手を上げ、足を開脚したまま
空中でピタリと止まる。

クリボーもキラーも動かなくなり、
パックンも土管から出てこない。

固まる、ピタッと。

あぁ、、、 

ため息とともに、絶望する。
ZETSUBOU。
ぜっつぼう。

こうなると一事が万事。
再起動するしかない。
カセットを取り出して、接続部に息をフーフーと吹きかけてほこりをとっぱらうていをした後に、再びセットする。 
(※今思うと、効果があったとは思えない)

もちろんゲームは途中終了、
セーブ機能もないので、どのステージまで進んでいようが台無しである。

いまのゲーム機と比較すると機能性が低いシンプルな代物しろものである。

シンプルというよりも「チャチい」。
そう言ったほうがいいかもしれない。

しかしそんなファミコンの代名詞だった
『スーパーマリオ』を
35年近く経って、
いまだに遊んでいるとは思わなかった。
それも我が子と一緒に。

ボクが子どもの頃は、
「テレビゲームは子どもがやるもの」
なんて思っていたけれど、
結局のところ、あの頃の子どもたちが大人になっても、みんなゲームをやり続けている。

自分ではあまりやらなくなっても、
子どもたちがテレビゲームに夢中になる気持ちが理解できる大人になっている。

大人になって、
くだらない飲み会の付き合いで5000円払うとき、今でもボクは
“これでゲーム1本買えたなあ”
と、ついセコいことを考えてしまう。

やっぱりファミコン世代のボクらは、
大人になってもどこかにゲームがある。
マリオやルイージとともにファンタジーの世界で育った世代なのだ。

超満員御礼の“ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー”を観てきた。

今年のゴールデンウィーク興行は、
マリオの異次元のメガヒットが確実視されている。

そういえば一年前、
我が部署の部長が若手の注意を惹こうと会議の冒頭で無理して、

「新型コロナの影響で、未だに世の中は厳しい状況が続くが、全集中で!」

と言って、

「ここは全集中で!」
「全集中で乗り切りましょう」
などと、要所要所で「全集中」を使い、

笑っていいのか、
ツッコむべきか、
スルーすべきか、
誰も分からない。そんな地獄絵図の様相をていしていた苦い記憶がある。

しかし今年は違う。

マリオは老若男女を問わず、世界中の億人を同時に笑顔にする存在だ。
ボクらおっさんだって子どもに負けじ劣らず、マリオとの思い出をリアルに語ることができる。

そう。
今年、日本国民は「鬼滅の刃」からバトンタッチし、マリオの世界に「全集中」することを決めたのだ。


マリオがアニメで観れる
映画館で観れる。

ここまでたどり着くのに
40年近くの歳月がかかった。

観終わった直後に思ったが、
この映画に他人のレビューなんていらない。だからボクもここでレビューをしない。

難しいことを考えず、気にせず、
家族みんなで安心して楽しんで、語らい合える、そんな楽しんだもん勝ちのエンタメ感満載のムービーであった。

一つだけそれらしいことをするならば(ネタバレなし)、

ボクの予想を裏切った。
上回ったのではなく、裏切った。

観客の世代の一体感を生み出すのに、
なんと絶妙に“音楽”を使ったのだ。
これには意表をつかれた。

「マリオ」シリーズには、ゲーム史上最も有名な音楽がいくつもあるが、それらの音楽を多くをアクションシーンの随所に散りばめることによって、

ゲームの楽曲に宿る“壮大さ”と“斬新さ”を
完璧なまでに表現し、
ゲームをしてきた観客をノスタルジーに浸らせることで世代を超えた共感を、力技ちからわざつくり上げたのだ。

考えてみれば、

世代を超えて愛される“マリオ”という
ゲーム、物語、エンタメ性
を映画にするには、これしかない、
というものであった。

94分間マリオの世界に没頭した。
ゲームをプレイしたときの快感が蘇った。

フリーズしたファミコンを思い出した。
“王”のハヤカワ君を35年ぶりに思い出した。

「やっぱりマリオ最高!」
そう言いながら、すぐに帰宅してゲームをしたくなった我が親子。

ボクらは任天堂のビジネス戦略に
見事なまでのカモになるわけだが、

もう、それでいいのだ。

メッセージ性の薄い映画を観て
何を盛り上がっているのか、
何の意味があるのか、
何が楽しいのか、
映画批評家や批評家気取りの難しい評点がどうやらあるようだが、

そんなのはどうだっていい。

そんなことは知らない。

ピュアではない大人たちに興味はない。

今宵。ボクも子どもも、
マリオに用があるのだから。

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