【節約生活#710】地道であることの幸福
趣味で節約生活をはじめてみた。
肉体的、精神的、社会的な健康を目指しながら節約をするというルールで挑戦中。
(2024,6.15更新 それまでは「健康で文化的な生活をしながら節約をする」というルール)
幸福になれない人の幸福
幸福追求権というものがあるように、ほとんどの人は幸福を求めるものなのだろう。ただ、幸福は自分の主観でしかわからないので、客観的に測ることはできない。
何かしらの度合いで調べることはされるけれども、本音かどうかすらわからない。
よくある幸せは、他の人と比較しがちである。有名なのはブータンの例であるけれども、トップランク(世界8位)の幸福度から急落してしまった(2019年に95位)
幸せだと思っていたけれども、周りから情報が入ってくると幸福だと感じられなくなった例だろう。
そこまででなくても、周囲と比較して幸せを感じる人はいる。ただ、その場合は「上には上がいる」状態になるので、永遠に真の幸せを手に入れることはできない。
幸福を追求することは権利ではあるけれども、幸福でいられる権利はない。
2倍払うと2倍幸福なのか
たくさんお金を使うことに幸福感を覚える人もいるようである。
ただ、同じものでもアメリカに行けば高くなる。海外では外食も高くつくという話はよく聞く。同じものに高いお金を払うと幸福度はあがるのかは疑問である。
お金がないと生存が危ぶまれることがあるけれども、お金だけでは幸福にはなれないのだと考えている。
何かを買うときもお金基準にはしない。自分の欲しいものやしたいことが理由や背景を含めて明確であることが、納得感のある支出になる。
お金は使うことに意味があるという人もいるが、考えなしに使うのはせっかくの幸福追求のチャンスを失うことにもなる。
地道であることの幸福
子どもの頃は派手なものに目が惹かれた。憧れもあったかもしれない。
お金持ちはよいな。おもちゃもあるし、ゲームもあるし。面白そうで楽しそう。友達もたくさんいる。
今思えば、承認欲求とつながっていたと思う。おもちゃも手に入ったら面白くはなくなる。周りに自慢をするか遊んでいるときにマウントをとるくらいしか能がない。
個人の魅力でどうにかするという考えはなかった。単にできない自分を見つめて自己肯定感を下げていただけであった。
しかし、単に承認されたら幸せなのかと言われるとそれも違う。SNSの時代になって、承認が「いいね」や「スキ」などで可視化されるようになった。有名人もたくさんいるけれども、彼らは本当に幸せなのだろうか。
年をとってくると、派手ではないものに親しみを覚えるようになった。承認も、こちらが知らない人に認められてもなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。別段注目されたいわけではない。そこに自分の幸せはない。
地道であることの幸福がある。
ギャンブルもしない。ギリギリで生きることもしない。
節約は地道な道程でもある。
今朝も日の出前から暑かった。起床後すぐに自分で作っておいたスポーツ飲料をコップ1杯飲む。それが美味しい。シャワーも水にしてみる。それが心地よい。
いつものルーティンの合間に、100円均一で買ってきた遮光スクリーンを窓につけてもみた。少しのお金で生活感を変えることができるかもしれない。
小さなことに幸せを感じる。
地道であることの幸福は、節約をしてから感じられることが多くなった気がする。実際に地道であることは手放したくないものである。