本当に効果はあるのか?日本版DBSとその問題点弁護士髙野傑弁護士髙野傑2024年6月24日 18:05と法の不遡及Wikipedia.日本国憲法39条Wikipedia刑事裁判を考える:高野隆@ブログ二重の危険についてPDF魚拓




日本版DBSの成立

(この記事は、私が所属する法律事務所のコラムの内容を加筆・修正したものです。)
2024年6月19日、子供に接する仕事に就く人に、性犯罪歴がないかを確認する制度、いわゆる「日本版DBSその」を導入するための法律(学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律)が成立しました。 2026年度をめどに施工されることになります。
前提として、子どもに対する性犯罪は決して許されるものではなく、これを防ぐための仕組みが必要であることは間違いありません。しかし、日本版DBSに問題がないわけではありません。

そもそも「DBS」とは?

DBS(Disclosure and Barring Service)とは、犯罪証明管理及び発行システムのことで、性犯罪履歴のある人が子どもに関わる仕事に就くことのないようにし、子どもを性犯罪から守るための仕組みです。この制度のもとでは、子どもに関わる職種で働くことを希望する人は、DBSから発行される無犯罪証明が必要となります。イギリスで2012年から開始されており、現在ではドイツやスウェーデンなどでも同様の制度があるようです。

日本版DBSの仕組み

雇用する人に性犯罪履歴がないかについて、学校や認定こども園、保育所など一定の事業者については、確認が義務付けられます。雇用対象者の同意を得たうえで、事業者が申請し、事業者が回答を受け取ることとなっています。もちろん、犯罪歴は極めてプライバシー性が高い内容ですから、事業者は受け取った情報を管理する体制を整える必要があります。

確認対象となる性犯罪履歴の範囲と確認可能な期間及び効果

確認対象となる性犯罪履歴は「裁判所の認定を経て、有罪判決が確定した」もの、つまり「前科」に限定されています。不同意わいせつ罪などの刑法犯だけでなく、痴漢など都道府県が定める条例違反も確認対象に含まれます。 一方、検察官が不起訴とした事件については対象からは外れています。これは、裁判所の事実認定を経ておらず、事実認定の正確性を担保する制度的保障がないためとされています。 事業者が性犯罪履歴を確認できる期間は、禁固刑以上(2025年からは拘禁刑に統一)については刑期終了から20年間、罰金刑以下は刑期終了から10年間とされています。 性犯罪履歴が確認された場合、事業者は子どもと関わらない部署への配置転換などを求めることになります。さらにこのような対策が不可能な場合には解雇も許されるとすることになるようです。

日本版DBSの問題点現在すでに働いている人も対象になること
まず1つ目は、現在すでに働いている人も照会の対象となることです。これは法の不遡及の原則に反します。日本でも刑罰法規不遡及の原則が採用されており、憲法39条前段は「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と定めています。
たしかに、日本版DBSは刑事上の責任を問うものではありません。しかし、配置換えを求められたり、場合によっては解雇もされ得るというのは極めて大きな不利益です。人は行為時の法令を前提に、それでも罪を犯すか、罪を犯した時に課される不利益を許容するかを判断して行動に移します。事後的に定められた制度で不利益を課されることは想定していないのです。
これにより防ぐことができるのはごく一部に過ぎない
履歴確認対象となる人、すなわち「前科」がある人が再び性犯罪を起こすのはごく一部です。子どもに対する性犯罪の多くは「初犯」、すなわち、前科がなく日本版DBSの確認対象外の人によるものなのです。 「性犯罪で●回目の再逮捕」のような報道を目にすることがあります。これは最初の逮捕の時点ですでに犯していた罪が後に発覚して逮捕されたということです。つまり「前科」がある人とは限らないのです。前科がなければ、この人はDBSの対象ではありません。DBSによって配置転換を求めることができる人ではないのです。
防止措置の対象となる「おそれ」の認定基準が不明確
この性犯罪歴の確認結果「など」をふまえ、児童らに性暴力をおこなう「おそれ」があると認めるときは、教員等として本来の業務に従事させないことその他児童対象性暴力等を防止するために必要な措置を講じねばならないとする(6条、20条)。
と定められています。つまり、性犯罪歴がなくとも性暴力をおこなう「おそれ」があると判断されてしまえば「措置」の対象となることになります。運用の仕組み次第では、特定の個人を意図的に排除するために悪用されかねません。


刑事手続の中で「不起訴処分」を得ることの重要性

人には更生する権利があります。例えば、一度過ちを犯したけれども、深く反省し、15年間真面目に働いていた人を解雇するというのは、果たして社会全体のためになると言えるのでしょうか。
とはいえ、制度として成立した以上、改正されない限りはこれを踏まえて行動しなければなりません。
日本版DBSによる確認対象は「裁判所で有罪判決が確定した前科」に限定されます。つまり、示談交渉の結果や、否認や黙秘をしていた結果「不起訴処分」となった場合は、照会の対象にはなりません。一部の性犯罪、例えば電車内での痴漢の事件で逮捕されてしまったような場合、本当はやっていないのに、身体拘束が長期化するのを回避するために罪を認めようとする人がいます。この種の事件で接見にいくと、このようにお話しされる方は少なくありません。
しかし、これからは本当にその方法を選択してよいのか、慎重に考えなければなりません。認めてしまった場合、不起訴処分となる可能性があるのは、基本的には示談ができた場合に限られるでしょう。しかし罪を認めたとしても被害者が示談してくれるかどうかはまったくわかりません。示談してもらうことができず、例えば罰金刑となってしまえば、日本版DBSにより10年間照会の対象になってしまうのです。
現時点で教職に就く予定のない人でも他人事ではありません。将来教職に就きたいと思うかもしれませんし、今後の改正によってDBSの対象となる仕事が広がってしまうかもしれないからです。
経験十分な弁護士のアドバイスを受け適切な対応を取っていれば、嫌疑不十分によって不起訴処分となった可能性もあります。そうすれば照会対象となることもないのです。性犯罪については、これからは今まで以上に、弁護士から適切な助言を受け、行動を決定していくことが重要になっていきます。

本当に効果はあるのか?日本版DBSとその問題点

弁護士髙野傑

2024年6月24日 18:05



法の不遡及(ほうのふそきゅう)とは、法令の効力はそのの施行時以前には遡って適用されないという法体系における理念の一つである。

罪刑法定主義大陸法に分類される法体系では一般原則として強く支持されているが、コモン・ロー英米法に分類される法体系では一応存在する程度の理念である。

概説

法令は施行と同時にその効力を発揮するが、原則として将来に向かって適用され法令施行後の出来事に限り効力が及ぶ[1][2]のであり、過去の出来事には適用されない[2]。これを法令不遡及の原則という[2]

人がある行為を行おうとする場合には、その行為時の法令を前提としているのであるから、その行為後の法令によって予期したものとは異なる効果を与えられたのでは法律関係を混乱させ社会生活が不安定なものとなるためである[2]

以上の法令不遡及の原則は法解釈上の原則であって、立法政策として一切の法令の遡及が認められないわけではない[3]。法令の内容によっては施行日前の過去のある時点に遡って法令を適用する必要がある場合もあるからである[1][3]。国民に利害関係が直接には及ばない場合や関係者にとって利益になる場合などである[3]。このように法令を過去のある時点に遡って適用することを法令の遡及適用という[1][3]

法令の遡及適用は法令不遡及の原則の例外であり、立法上いつでも認められるわけではない[3]。法令の遡及適用は過去の既成事実に新たな法令を適用することとなり、法律関係を変更してしまうことになるから、あくまでも例外的な措置であり遡及適用を認めるには強度の公益性がある場合でなければならない[1][3]。特に刑罰法規については国民に対して重大な損害を及ぼすことになることから法令の遡及適用は禁じられている[1][4](後述の刑罰法規不遡及の原則)。

刑罰法規不遡及の原則

刑罰法規不遡及の原則とは、実行時に適法であった行為を、事後に定めた法令によって遡って違法として処罰すること、実行時よりも後に定めた法令によってより厳しい罰に処すことを禁止する原則をいう。事後法の禁止遡及処罰の禁止ともいう。刑法の自由保障機能(罪刑法定主義)の要請によって認められた原則である。

大陸法においては強く支持される原則であり、フランス人権宣言第8条にその原型があり、ドイツ連邦共和国憲法第103条2項にも規定がある。人権と基本的自由の保護のための条約(欧州人権条約)第7条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)15条にも同様の定めがある。

ただしこの原則は刑事被告人の利益のためのものであるため、刑事被告人に有利になる場合はこの限りでない。たとえば行為後に法定刑が軽減された場合、軽い方の刑に処せられる。例として、尊属殺人重罰規定の廃止、犯行時の死刑適用年齢が16歳だったのを18歳へ引き上げ、死刑制度廃止前に死刑になる犯罪を犯した場合などが挙げられる。

「法律なくして刑罰なし」の法諺に象徴される罪刑法定主義思想はローマ法に起源を持つものではなく、1215年マグナ・カルタ[注釈 1]に淵源をもち18世紀[5]の西欧革命期に欧米で確立した法概念である。

現代でもコモン・ローを背景とする英米法思想では比較的寛容であり、例えばアメリカではアメリカ合衆国憲法第1条第9節などで言及はされているが、コモン・ロー上の罪と法の不遡及が矛盾した場合はコモン・ロー上の罪が優先されることがある。国際法においては1953年発行の人権と基本的自由の保護のための条約(欧州人権条約)第7条2項に於いて、犯行当時に文明国の法の一般原則に従って犯罪であった場合は不遡及の例外としての処罰を認めている。また、1976年発効の自由権規約15条2項に於いても不遡及の例外が言及されており国際慣習法コモンロー)に配慮したものである[6]

法の不遡及出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



上野市ビジネスホテル従業員強盗殺人事件(うえのしビジネスホテルじゅうぎょういんごうとうさつじんじけん)とは、1997年に発生した強盗殺人事件。

概要

1997年4月13日未明に三重県上野市(現在の伊賀市)のビジネスホテルでフロント係の従業員(48歳)がフロント奥の事務室金庫から3日分の売上金約159万円を奪われた末に二十数か所を刃物のようなもので刺されて出血多量で死亡した[1][2]。扉などに手形の血痕が付着しており、カウンターのレジスターにも物色した跡があった[1]。被害者は仮眠用のトレーニングウエア姿で、裸足だったことから、仮眠中に刃物で脅され、金庫の開け方を教えた後に殺害されたものとみられた[1]三重県警は強盗殺人事件として上野署に特捜本部を設置した[1]

強盗殺人罪の公訴時効は当時15年であり、時効成立まであと2年を切った2010年4月27日殺人罪と強盗殺人罪の公訴時効を廃止し、公訴時効が成立していない過去の事件にも遡及する法案が国会で成立し、同日に施行されたことで、同事件の公訴時効は廃止された。

三重県警によってDNA鑑定をやり直し、遺留物と型が一致した元ホテル従業員の工員が犯人と特定されて、2013年2月1日に逮捕され、2月23日に起訴された[2][3][4]。2010年の殺人罪の公訴時効廃止を受け捜査本部が継続された事件で、被疑者が割り出され、逮捕された初のケースとなった[3]

2013年11月14日から津地裁裁判員裁判が開かれ、11月22日に「被害者の上半身を集中的に刺し、深さ5センチメートル以上の傷だけでも23ヶ所あった。執拗かつ残虐。」「当初は窃盗目的だったが、殺害後すぐに現金を奪うなど冷酷な犯行。酌量の余地はない。」として検察の求刑通り無期懲役の判決を言い渡した[2][5]。弁護側は控訴したが、2014年4月24日名古屋高裁は控訴を棄却。弁護側は上告した。

弁護側は「事件当時は時効が15年だったのに、改正で遡って時効を廃止にしたのは(事後に定めた法律によってさかのぼって違法とする)遡及処罰を禁止した憲法第39条に違反する。時効成立を認めるべきだ。」と主張したが、2015年12月3日最高裁は「時効撤廃は憲法で禁止された違法性の評価や責任の重さを遡って変更するものではなく、被疑者や被告人になる可能性のある人物の既に生じていた法律上の地位を著しく不安定にする改正ではない」と退けて時効成立を認めずに上告を棄却し、無期懲役の判決が確定した[6]

上野市ビジネスホテル従業員強盗殺人事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



罪刑法定主義(ざいけいほうていしゅぎ)とは、ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法令において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰予め明確に規定しておかなければならないとする原則のことをいう。対置される概念は罪刑専断主義である。

概要

ラテン語による標語"Nulla poena sine lege"(法律なければ刑罰なし)により知られ、罪刑法定主義と日本語訳されるこの概念は、ラテン語ではあるがローマ法に原典をもつものではなく、近代刑法学の父といわれるドイツ刑法学者フォイエルバッハにより1801年に提唱されたものである[1]。なお、この標語は"Nulla poena sine crimine; Nullum crimen sine poena legali."(犯罪なければ刑罰なし、法定の刑罰なければ犯罪なし)と続く。

この原則の淵源は、1215年マグナ・カルタに遡り、そこで謳われた法定手続の保証がイギリス帝国で再三確認されたのち、アメリカ合衆国に渡り、1776年ヴァージニア州権利章典8条に、1788年アメリカ合衆国憲法に、またヨーロッパに戻り、1789年フランス革命人権宣言8条がこれを宣言し、1791年のフランス憲法に盛り込まれ、全ヨーロッパ諸国の刑法に採用されることで罪刑法定主義は「近代刑法の大原則」として承認されるに至った[2]

根拠

罪刑法定主義の根拠は、以下のように自由主義民主主義の原理にこれを求めることができる。どのような行為が犯罪に当たるかを国民にあらかじめ知らせることによって、それ以外の活動が自由であることを保障することが、自由主義の原理から要請される。
何を罪とし、その罪に対しどのような刑を科すかについては、国民の代表者で組織される国会によって定め、国民の意思を反映させることが、民主主義の原理から要請される。


派生原則

罪刑法定主義の派生原理として以下のような事項が要求される[3]慣習刑法の禁止(慣習法を直接処罰の根拠にしてはならない)
刑事法における類推解釈の禁止
法の不遡及事後法の禁止)
絶対的不定期刑の禁止
判例の不遡及的変更の原則
実体的デュー・プロセス英語版)の理論[4]
憲法が保障する基本的人権に反する刑罰法規の無効
明確性の原則
罪刑の均衡


"Nulla poena sine lege"の派生としてたとえば以下の標語がある[5][6]

Nulla poena sine lege praevia

事前の法律なくして刑罰なし - 事後法および刑法の遡及適用の禁止

Nulla poena sine lege scripta

書かれた法律(成文法)なくして刑罰なし - 慣習刑法の禁止

Nulla poena sine lege certa

明確な法律なくして刑罰なし - 明確性の原則

Nulla poena sine lege stricta

厳格な法律なくして刑罰なし - 拡張解釈・類推解釈の禁止

批判

従来の法律が想定していた可能性を超えた態様の事件が発生した場合に、法律規定から処罰が出来なかったり刑罰に上限が出来てしまい、悪質だが処罰が難しかったり厳罰にすることができない、という点について、これを柔軟に処罰することができない罪刑法定主義は、批判的に捉えられることもある。

これに対し、罪刑法定主義という観念を有しない伝統的な英米法の法域では、後述のとおり行為時に成文法で禁止されておらず、判例上も犯罪として認知されていなかった行為が、裁判の結果としてコモン・ロー上の犯罪として処罰されることがあり得る。その意味で、コモン・ロー上の犯罪には、「弾力性」がある[7]

犯行発生当時に、従来の法律が想定していなかったような態様の事件としては以下のものがある。電気窃盗事件「電気は、窃盗罪において窃盗の目的とされる『物(財物)』であるか」
ニセ牛缶事件「表示と中身が似ているが異なる商品の販売」
天下一家の会事件「あるねずみ講構造が、何ら刑法上の違反に当たらず、処分されなかった事例」
国利民福の会事件「国債によるねずみ講構造」
新潟少女監禁事件「誘拐当時9歳の少女が、その後約9年間にわたり監禁された事件について、逮捕監禁致傷罪の最高刑が懲役10年であり、少女の被害に比して短いとの批判があり、誘拐期間中の窃盗事件との併合罪とし訴追、微罪をもって併合罪の適用を図っているとの批判の中、裁判においても二転して確定した。事件後に法改正が行われ逮捕監禁致傷罪の最高刑が懲役15年に延長された」
ザ・ムービー事件「情報抜き取り表示がある携帯アプリをダウンロードした人物の全電話帳データを抜きとって、個人情報を悪用する行為」
日本航空1402便客室乗務員スカート内盗撮事件「上空を都道府県間を越えて高速で移動する旅客飛行機内で、スカート内を盗撮する行為の犯行時点の地域が不明であり、適用条例が確定されない」
逗子ストーカー殺人事件「元恋人に婚約解消の慰謝料を要求する電子メールを、短期間に連続で大量に送信する行為が、ストーカー規制法に違反するか」
GPSストーカー事件GPSを用いて好意対象者の所在位置を調べる行為についてストーカー規制法の禁じる「見張り」に該当するか」


日本における沿革

律令をはじめとする日本も含めた近代以前の東アジア諸国の法体系においては、刑罰は法律の条文に基づいて行われることにはなっていたが、その一方で社会秩序の維持を名目として、法令に明記されていない(無正条)犯罪を類似した正条を根拠に裁く規定である「断罪無正条」や、法令に該当しない軽犯罪の裁判を行政官の情理による裁量に委ねる「不応為条」が必ず設けられており、類似の犯罪行為の規定からの類推適用が許されており、「法律なくして犯罪なし」とする罪刑法定主義の主旨とは対極に位置していた。これは東アジアの法体系における刑罰は厳格な絶対的法定刑(固定刑)を原則としており、こうした類推適用は国家や官吏の擅断によって刑罰が行われる危険性を持つ一方で、「法の欠缺補充機能」及び「減刑機能」によって絶対的法定刑を原則とする刑事法の弾力的運用を図るという側面を有していた。このため、こうした類推適用を排して罪刑法定主義を導入するためには法定刑の仕組を見直すなどの法体系の抜本的な変更を必要とした[8]

ただし、ヨーロッパで罪刑法定主義思想が主張される以前の徳川期の刑法でも、類推や拡張解釈については厳重な拘束があり、裁判官の自由に委ねられていたのではないことが指摘されている[9]

罪刑法定主義が日本で制度的に確立されるのは明治時代の旧刑法施行以後のことであり、大陸法の影響を受けた明治憲法(第23条)にその趣旨が規定されている。現行の日本国憲法では、第31条第39条が主な根拠条文とされ、73条6号による、法律の委任以外の政令による罰則設定禁止と41条の国会中心立法から、慣習刑法の禁止は当然と解される[10]。現行刑法には罪刑法定主義について直接触れた条項は存在しない[注 1]

英米法

英米法は、伝統的に罪刑法定主義の観念を有さず、裁判所は、成文法で禁止されていない行為であっても、コモン・ロー上の犯罪として、適当な刑罰を科すことができる。この法理は、現在でも、イギリスやアメリカの多くの法域において維持されている(他方で、現在では、法域によって、議会制定法が罪刑法定主義に相当する規定を定め、この法理を制限している場合もある。)[7]

コモン・ロー上で「犯罪」とされる行為の多くは、「先例」によって古くから「犯罪」とされてきた行為であるが、「先例のない行為」であっても、新たに「コモン・ロー上の犯罪行為」として認知され、刑罰を科されることがある。例として、イギリスのShaw対公訴長官事件(1961年)[11]やアメリカのペンシルバニア州対Mochan事件(1955年)[12]などがある[13]

英米法においても、「事後法の禁止」という考え方は一応存在する(アメリカ合衆国憲法第1編9節3項、10編1節など)。しかし、「コモン・ロー上の犯罪」として新たに認められたものは、「事後法の禁止」より優先して扱われ、抵触しないとされる。コモン・ローは、「十全な体系として昔から存在するものであり、判例は、それを宣明するものにすぎない」という立場に基づいて正当化されている[7]。但し、人権意識の進展した近年においては、デュー・プロセス・オブ・ローの拡張概念である実体的デュー・プロセス英語版)の理論により、可罰性の拡大は非常に謙抑的なものとなっており、実質的な罪刑法定主義的抑制は機能しているといえる[14]

国際法

国際法は成文化された条約だけでなく、成文化されていない慣習によって成り立つ慣習法を法源として認めている。現代の国際法の原則の多くは元々中世ヨーロッパにおける慣行に由来したものが多く、近代以降から国連の成立まで慣習国際法は長く不文の法として国際関係を規律してきた[15]。国連の成立以後は条約によって規律される分野が増えて慣習国際法の適用範囲は狭まったといえるが、しかし条約には基本的に当事国間に限り有効という制限があり、条約が規律しない国際関係については今なお慣習国際法が適用される[15]。1950年の欧州人権条約や、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約の様に、国際法における法の不遡及を規定した国際条約でも罪刑法定主義や法の不遡及の原則の例外を認めている[16]

参考

マグナ・カルタ第39条

Nullus liber homo capiatur, vel imprisonetur, aut disseisiatur, aut utlagetur, aut exuletur, aut aliquo modo destruatur, nec super eum ibimus, nec super eum mittemus, nisi per legale judicium parium suorum vel per legem terre.

いずれの自由人も、同輩による適法の審判又は国法によるのでなければ、逮捕、収監、押収、追放他一切の侵害を受けることはなく、我々は、それを及ぼすこともない。

大日本帝国憲法第23条

日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ

日本国憲法第31条

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

欧州人権条約 第七条(法律なくして処罰なし)

一項 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を警戒しなかった作為又は不作為を理由として有罪とされることはない。何人も、犯罪が行われた時に刑罰よりも重い刑罰を科されない。

二項 この条は、文明諸国の認める法の一般原則より実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない。

罪刑法定主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



香港警察は1日、香港国家安全維持法国安法)違反容疑で逮捕、保釈した民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)氏を再び事情聴取した。周氏は聴取後、記者団に対し、8月10日の逮捕後の取り調べで、昨年8月に日本経済新聞に掲載された意見広告について聴取を受けたことを明らかにした。

 日経新聞に掲載された意見広告は、香港の抗議デモへの国際支援を呼びかける内容。広告費はクラウドファンディングで集められ、周氏が所属していた政治団体「香港衆志(デモシスト、6月末に解散)」の名義で掲載された。

 周氏によると、警察はこの広告を、周氏にかけられた国安法違反容疑の証拠として示したという。警察は周氏を逮捕した8月10日、捜査員が日経新聞香港支局のオフィスを訪れ、裁判所の資料提出命令を執行したことを明らかにしている。

 周氏は記者団に、広告は今年6月末の国安法施行前に掲載されたものだと強調。国安法は施行前にさかのぼって適用しないとされていることから、意見広告をめぐる警察の捜査は不当な弾圧だと批判した。

 周氏によると、次回は12月に出頭する予定。香港警察は周氏の起訴も視野に捜査を継続するとみられる。(香港)

朝日新聞デジタル
記事


周庭氏を再聴取 警察、日経新聞の意見広告を問題視?

香港2020年9月1日 21時20分


例えば、国会で法定さえされていれば「女性差別法」を制定してよいはずはなく(内容の適正)、また、何が規制されるのかわからないような不明確な法文をもとに恣意的な逮捕等の運用をしてはならない(手続の適正)

さて、国家安全法および今回の周庭氏の逮捕を「法の支配」の貫徹の文脈で強弁する北京政府。しかし、周庭氏らの逮捕は、7月以降のSNSでの発信が実行行為とはされているものの、7月以降に彼女がほとんど政治的発信をしていないことからすれば、事実上の遡及処罰と言いうる逮捕であり(遡及処罰の禁止)、周庭という象徴的な女性や政府に批判的なメディアの創始者を“狙い撃ち”した可能性からすれば、法およびその運用の一般性も欠く(一般性の欠如)。そもそも、どのような行為をすれば国家安全法違反になるのかもわからないとすれば、法の明確性の要求にも応えていない(明確性の欠如)。

周庭氏や黎智英氏の逮捕からすれば国家安全法自体に規定されている香港市民のデモや報道といった人権保障や自由の尊重など名ばかりとしか言いようがないし、国家安全法の適用に関する中国政府からの出先機関である香港特別行政区国家安全維持委員会の行った決定は「司法審査を受けない」と規定し(14条)、法の支配の最後の砦である裁判所による権力の統制がそもそも欠如している(司法権によるコントロールの欠如)。

中国のうたう「法の支配」は明らかに異質

以上のとおり、国家安全法は、既述の「法の支配」の内実をなす法およびその運用に求められる要素を“すべて”欠くようにしか見えない。同法案によって中国政府が守ろうとする、中国のうたう「法の支配」は、人類が立憲民主主義とともに獲得した法の支配とは明らかに異質のローカルな「“口だけ”法の支配」と言わざるをえない。

安倍政権は、対中安全保障政策の文脈で「法の支配」を繰り返し主張してきた。ならば、今まさに「法の支配」の真の意味を中国に突きつけ、今すぐ不当な逮捕等、およそ近代国家の体をなしていない法の制定と運用による「法の支配」の破壊行為を止めるような働きかけが求められる。そうでなければ、「法の支配」も“言ったもん勝ち”状態の価値のインフレ化が起こるばかりか、異議を唱えないものも、法の支配の価値の蹂躙に対する不作為の共犯者になってしまう。
自由、人権、法の支配といった価値の尊重と擁護は、国際社会という現存の最も大きなコミュニティーに属するものと自称する者であれば、そのコミュニティーの一員として共有しなければならない最低限のルールだ。家庭内での悪質なDV行為の摘発が「家庭内への干渉」にならないのと同様、国際社会の一員が共有しているはずの価値観とルールの冒涜と挑戦を摘発し抗議することは、内政干渉ではないだろう。

国家の「自律」には、人が自分らしく生きられるための普遍的価値や枠組みを踏みにじる「自律」など含まれていない。このルールや価値を共有するかのごとく形式的に標榜しつつ、内実、人権や法の支配を蹂躙し続けるという挑戦的態度をとる中国政府は、今後国際社会というコミュニティーに属し続ける意思があるのかどうかまで問われるだろう。

日本政府や日本社会は国際社会というコミュニティーの住人であり、普遍的価値に真にコミットする者の責任として国際社会に向けて明確に発信することが求められている。これができるかどうかは、合わせ鏡のようにわが国の「法の支配」の“本気度”が問われている。

中国的な価値観や覇権主義にどう向き合うか

日本の「国益」という保守的文脈でも、人権や法の支配というリベラルな文脈においても、香港のこの問題は広い意味を持つ。誤解を恐れずに言えば、データ・グローバリゼーション、スコアリング/監視社会、ライトな独裁インフラの輸出、人権デューデリジェンスに耐えかねる民族差別(経済安全保障)等々、例示すればきりがないが、安全保障だけでなく世界に広がりつつある個人の自律を飲み込もうとする中国的な価値観や覇権主義にどう向き合うかまでもが問われている。

日本という国家がどこまでいってもわれわれ1人ひとりの集合体でしかないとすれば、われわれ1人ひとりがこの問題にどう向き合うかによって、この国の自由や法の支配の在り方が決定づけられることを忘れてはならない。

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倉持 麟太郎 弁護士

https://toyokeizai.net/articles/-/369631?page=4
周庭氏逮捕「法の支配」からあまりに乖離する訳 中国の欺瞞が国家安全法の運用に見え隠れする

倉持 麟太郎 : 弁護士

https://web.archive.org/web/20190509100321/http://cdr.c.u-tokyo.ac.jp/RCSP/rcsp_admin/wp-content/uploads/2018HSF%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%EF%BC%88%E5%AE%8C%E6%88%90%E7%89%88%EF%BC%89.pdf


https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00037033


https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/09-56/honda.pdf



https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/894/056894_hanrei.pdf




一事不再理(いちじふさいり、ラテン語: Non bis in idem)とは、ある刑事事件裁判について判決確定している場合には、その事件を再度審理することを許さないとする刑事手続上の原則である。

「既判力説」と「二重の危険説」

「同一刑事事件について、確定した判決がある場合には、その事件について再度の実体審理をすることは許さない」という結論については変わりがないが、大陸法の系列と、英米法の系列では、多少考え方が異なる。

大陸法では、確定判決は司法から見ての事件についての理解・判断を示し確定するものであるとされ、複数回の検証を経てその理解・判断を示し確定判決に至ったことの結果として、それ以上の実体審理は許されないと解する。この「再度の実体審理を許さない力」を既判力と呼ぶ。

英米法では、事実関係の確定に根源を求めていない。被告人が裁判を受けるというリスクについての刑事訴訟法上の限定条件と解する。すなわち、「被告人が際限なく処罰を受けるリスクを負うことになるのは不公正である」という手続論的な考え方に基づくもので、リスクを負わせられるのは一度だけである(処罰を求める側はその一度のチャンスで有罪の結果を得なければならない。したがって、訴追(検察)側は、判決に関わらず原則として上訴ができない)というものである。これを「二重の危険説」という。

一事不再理
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東京高裁第10刑事部(須田賢裁判長)は、5月10日、村岡兼造元官房長官に対する政治資金規正法違反事件(不記載)について、1審東京地裁の無罪判決(東京地裁平成18年3月30日判決[未公刊])を破棄して、禁固10ヶ月執行猶予3年の逆転有罪判決を言渡した。新聞報道によると、日本歯科医師連盟から平成研究会(橋本派)への1億円の献金を村岡氏の指示で収支報告書に記載しなかったという滝川俊行氏(元平成研究会事務局長)の証言について、東京地裁が「思い込みや想像が多く、信用できない」「[他の有力政治家に]塁が及ぶのを避けるため虚偽供述した可能性が大きい」としてその信用性を否定したのに対して、東京高裁は「根幹部分は一貫しており、信用性が高い」「誰かをかばうため虚偽供述する理由はない」としてその信用性を肯定した(日経新聞2007年5月11日朝刊13版39頁)。

これは、刑事裁判における「二重の危険」を禁止している憲法がありながら、無罪判決に対する検察官上訴を認めているわが国の刑事司法が日常的に作り出している多数の悲劇の一つである。

どんなに有力な政治家や資産家でも国家権力には及ばない。東京地検特捜部は日歯連や平成研究会から段ボール箱数十個分の証拠を押収し、関係者数十名を呼び出して事情聴取し、さらには滝川氏や日歯連幹部の身柄を拘束して連日長時間の取調べを行って、滝川氏らの自白を獲得して、この事件を起訴したのである。無実を主張する村岡氏にも彼を弁護する弁護人にもこのような権限は全く与えられていない。そして検察は自分たちが収集した膨大な資料の中から被告人の有罪を証明する証拠だけを裁判所に提出する。それ以外の証拠は検察庁の倉庫に眠ったままだ。無実を主張する被告人は限られた資源で自分の無実を証明する証拠を探索するが、結局めぼしい証拠は既になく、乏しい資料を土台に法廷戦術を駆使して検察の圧倒的な有罪証拠に対して絶望的な闘いを挑むのである。それは経済的にも精神的にも、また、肉体的にもストレスに満ちた戦いなのである。

このような苦労もほとんど報われることはない。刑事第1審否認事件の無罪率は1%ほどである。この現実と身柄拘束からの早期解放(否認すれば保釈は認められない)とを秤にかけて、闘わずして諦める被告人が非常に多い。要するに、無罪判決を獲得するというのは、被告人自身の強靭な精神力や弁護人の能力と、そして、幸運がなければ、なしえない事柄である。村岡氏は1審の無罪判決言い渡しの際に歓喜の涙を流したそうだが、無罪を獲得した被告人は誰もみなそうである。

しかし、これで終わったわけではない。まだ続きがある。検事控訴である。

そして、高裁の判事たちは、地裁の裁判官たちよりもさらに一層検察官びいきである。

わが国の控訴審は「事後審」と呼ばれ、1審の手続や事実認定に誤りがあるかどうかを判断するために、1審の記録だけを審査するのが原則である。裁判をもう一度やり直すわけではない。新聞の見出しによく「高裁も実刑」などと書いてあるのをときどき見かけるが、あれは間違いである。正しくは「高裁、一審の実刑判決を是認」ということになる。高裁では新しい証拠を取調べないのが原則であり、「やむを得ない事由によって第1審の弁論終結前に取調を請求することができなかった」場合でない限り、新しい証拠を取調べないことになっている(刑訴法382条の2、393条第1項)。

高裁の裁判官は被告人側の証拠調べ請求に対してはこの規定を非常に厳格に適用する。だから、被告人が控訴した事件の第一回公判期日に被告側の証拠申請を全部却下して直ちに終結という事件も決してめずらしくない。ところが、検察官が控訴した事件では高裁は非常に緩やかに検察官の証拠申請を認める。1審で検事が請求するのを忘れた証拠やただの蒸し返しに過ぎないような証人申請ですら、高裁判事は検察官申請のときには認めることが多い。弁護人の申請の証拠調べはたいてい「やむを得ない事由の疎明がない」と言って却下する。検事の申請のときにはなにもいわずに「採用します」と言って採用する、あるいは、「裁判所の職権で採用します」などと言って採用する。この職権による証拠採用というのは、要するに、「やむを得ない事由」があったかどうかを問わず、検察官が取調べてもらいたいと思う証拠を、裁判所も積極的に調べてみたいので調べるというわけであり、これほど不公平なことはない。しかし、最高裁判所の判例は高裁判事がこのような姿勢をとることを許している(最1小決昭59・9・20刑集38-9-2810)。

この事件でも、東京高裁第10刑事部は、滝川証人の尋問を認めている。滝川氏は1審での証言を繰り返したうえ、「橋本龍太郎元首相ら当時の幹部に累が及ぶのを阻止するため、虚偽供述した可能性もある」という1審判決に対して、「(虚偽は)全くありません」と反論したと言う(日本経済新聞2007年2月20日朝刊39頁)。この証言が1審証言の蒸し返しに過ぎないものであることは明らかである。高裁が検察側の証人だけ繰返し証言することを許し、しかも当の証人に1審判決への批判をさせるというのは、あまりにも一方的ではないだろうか。しかし、これは日本の高裁判事の平均的な訴訟進行からそれほど大きく離れていないのである。ありがちな訴訟進行の一つである。

結果として、検察官控訴による原判決破棄率は非常に高い。平成17年度の司法統計年報によると、検察官の控訴申立て266件のうち実に202件(75.9%)で原判決が破棄されている(平成17年度司法統計年報第45表、53表)。ちなみに、被告人控訴事件の破棄率は12%(9080件のうち1091件)である。

精神的・肉体的・経済的に多大の犠牲を払ってようやく獲得した無罪判決も、こうして検察官控訴によって反故にされることが多いのである。裁判で無罪を獲得するためには非常に困難な闘いを2回勝たなければならない。いや、上告審があるから、3回勝ってはじめて冤罪の恐怖から解放されるという場合もありえる。わが国の刑事裁判は有罪も無罪も多数決で決定される。したがって、1審無罪・2審有罪という場合、事件を担当した6人の裁判官のうち最大で4人の裁判官が無罪の意見だった可能性がある。4人の裁判官が「滝川証言は信用できない。有罪には合理的な疑いがある」と考えていたとしても、その意見は結果に反映しないということである。

日本国憲法39条はこう定めている――「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」。この条文は非常に分りづらい。その原因は、原案を作成したGHQの法律家の意図を日本政府の担当者が十分に理解していなかったことにある。GHQ草案では刑事事後法の禁止(実行のときに適法であった行為の処罰の禁止)と二重の危険の禁止(同一の犯罪について二度裁判を受けない)は全く別の条文であった。けれどもGHQとの折衝を担当した内閣法制局の入江俊郎や佐藤達夫らは「二重の危険」(double jeopardy)の意味を知らなかったので、日本語の草案では一旦これを削った。しかし、後でGHQが二重の危険禁止条項の削除には同意していないことを知って、残った条文の末尾にこれを付け足すことにしたのである(入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(入江俊郎論集刊行会1976)、222~225頁;佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史(第3巻)』(有斐閣1994)、127頁、295頁)。「又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」という部分の公定英訳文はこうなっている:“nor shall he, in any way, be placed in double jeopardy.”この表現は合衆国憲法第5修正から来ている:“nor shall any person be subject for the same offence to be twice put in jeopardy of life or limb.”(「何人も同一の犯罪のためにその命や手足を2度にわたって危険に曝されてはならない」)。

無罪判決に対して検察官が控訴することは憲法39条に違反するか。最高裁判所大法廷昭和25年9月25日判決は、違反しないと述べた:「一審の手続も控訴審の手続もまた、上告審のそれも同じ事件においては、継続せる一つの危険の各部分たるにすぎないのである。……それ故に、下級審における無罪又は有罪判決に対し、検察官が上訴をなし有罪又はより重き刑の判決を求めることは、被告人を二重の危険に曝すものでもなく、従ってまた憲法39条に違反して重ねて刑事上の責任を問うものでもない」と(最大判昭25・9・27刑集4-9-1805)。しかし、何ゆえに1審から上告審までが「継続せる一つの危険」に過ぎないのか最高裁は説明していない。

これに対し英米の判例は古くから事実審の公判審理を一つの危険と考えており、したがって、無罪の評決は事件に対する最終判断であり、それに対して上訴はできないとされてきた。1957年の合衆国最高裁判所の判例はその理由をこう説明している:「政府は、その有する全ての資源と権力とを用いて個人を断罪する試みを繰り返すことによって、彼をして困惑させ、出費をさせ、試練にさらし、持続する憂慮と不安のうちに生きることをやむなくさせ、そして、無罪であっても有罪とされる危険を高めるようなことをしてはならないということである」(Green v. United States, 355 U.S. 184 (1957))。ここには、刑事訴追というものが巨大な権限を持った国家と何等の権限も権威もない一個人との間の紛争であることについての深い認識がある。

そして、この認識はわが国の刑事裁判の現状に対してこそそのまま当てはまるのではないだろうか。わが国において、1審無罪判決に対する検察官控訴の実態は、政府が「全ての資源と権力とを用いて個人を断罪する試みを繰り返すこと」に他ならず、被告人をして「困惑させ、出費をさせ、試練にさらし、持続する憂慮と不安のうちに生きることをやむなくさせ、そして、無罪であっても有罪とされる危険を高める」という評価がもっとも相応しい。

裁判員法の制定の際に上訴審をどうするかについて多少の議論はあったようだが、立法的な手当ては結局何もなされなかった。しかし、裁判員と裁判官が評議した結果出された無罪判決に対して検察官が上訴するということ、そして、高等裁判所が今回と同じように一審の判断と反対に「検察側証人は信用できる」と言って逆転有罪判決を言渡すことは、今まで以上に事態の不条理さを際立たせるであろう。仮に1審が全員一致で無罪を言い渡し、高裁判決が多数決で有罪の判断をしたのだとすると、裁判に関与した12人のうち10人が無罪の意見であっても被告人は有罪になるということである。そのような有罪判決を人々は信頼するだろうか。



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二重の危険

2007年05月14日

二重の危険



修正第5条

詳細は「アメリカ合衆国憲法修正第5条英語版)」を参照

大陪審の保障、二重の処罰の禁止、デュー・プロセス・オブ・ロー財産権の保障)何人も、大陪審告発または起訴によらなければ、死刑を科せられる罪その他の破廉恥罪につき責を負わされることはない。ただし、陸海軍、または戦時、もしくは公共の危険に際して現に軍務に服している民兵において生じた事件については、この限りではない。
何人も、同一の犯罪について重ねて生命身体の危険にさらされることはない。
何人も、刑事事件において自己に不利な証人となることを強制されることはなく、また法の適正な手続きによらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。
何人も、正当な補償なしに、私有財産を公共の用のために徴収されることはない。

権利章典 (アメリカ)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』