おんな城主直虎さんのような平和主義があれば朝鮮戦争終戦可能だと私は思う。

同じ民族同士でいつまで戦争、朝鮮戦争終戦は可能と思いますし終戦実現しませんか。軍隊に行かせる兵役は強制してはならない。相互軍縮の一歩として南北両方で徴兵制を廃止することからはじめてはどうでしょうか。


好戦的な生物学的男性ではなく、戦争を回避する選択を選ぶ生物学的女性の兵を戦争から逃避させて助ける井伊直虎さんは良いですね。
本来の積極的平和主義とは戦争回避して「民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ」という事ではないか。
戦争や戦場から誰だって逃げたいだろうし殺しするのも殺されるのも嫌だと戦を避ける逃走兵が罰せられるのはおかしいと思う件。
ドラマどうする家康のよいところは世間に疎まれている忍びが盗賊にならなくても済むように警備等の仕事が与えられて、忍びも生活苦にならずに済む政策がとられたことも評価したい点ですね。



ただ、本来の意味での「積極的平和」と、総理のおっしゃる「積極的平和主義」では、まったく意味が異なるものです。前者は、世界的に著名な平和学の研究家である、ヨハン・ガルトゥング博士が提唱した理念です。ガルトゥング博士は、戦争は起きていないが、貧困や抑圧、環境破壊などの「構造的暴力」が存在する状態を、「消極的平和」(Negative Peace)であるとし、これに対し戦争がなく、かつ「構造的暴力」も排された真に人々が平和である状態を「積極的平和」(Positive Peace)であると説きました。ですから、この意味での「積極的平和主義」というならば、この世界から戦争をなくし、かつ貧困や抑圧、環境破壊などの構造的暴力もなくしていく、というものであるべきなのです。もっとも、安倍政権は集団的自衛権の行使解禁や、武器輸出を推し進めていくだけでなく、格差貧困をより深刻化させる残業代ゼロ法案や派遣法の改悪、国内外の被爆労働に依存する原発を再稼働させていこうというのですから、そのような点においても、「積極的平和」(Positive Peace)とは到底言えない政策を行われているわけなのですが。

ともかく、英字メディアなどでは、総理がおっしゃる「積極的平和主義」は“Proactive Contributor to Peace”(直訳すると「平和への積極的な貢献」)等と翻訳され、平和学での「積極的平和」(Positive Peace)と明確に区別されております。ご存じかどうかは知りませんが、当の外務省も、総理の会見などの英訳で“Proactive Contributor to Peace”という表現を使っています。要するに日本のメディアだけが、総理の「積極的平和主義」という表現を何の注釈も無く垂れ流しているのです。ご自身の「積極的平和主義」(Proactive Contributor to Peace)と、平和学での「積極的平和」(Positive Peace)との違いなんか分かっている、と総理はおっしゃるかもしれません。そうだとしたら、これまでも申しましたように、まったく似て非なるものなので、表現は変えられるべきかと思います。

さて、安倍総理のおっしゃる「積極的平和主義」(Proactive Contributor to Peace)とは、「平和への積極的な貢献」であり、具体的には「同盟国である米国を始めとする関係国と連携しながら、地域及び国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与していく」ことですよね。そこで、是非、お考えいただきたいのは、米国が「地域や国際社会の平和や安定に寄与」したかどうか、ということです。イラク戦争においては、クラスター爆弾や白リン弾などの非人道兵器で民間人を殺しまくり、病院や学校もろとも街を破壊しつくし、現地の市民を十分な証拠もなく不当に拘束し、電気ショックなどの拷問や性的虐待もやり放題…米国こそが世界最悪の戦争犯罪の常習犯だとも言えます。

米軍の爆撃で負傷したイラクの子ども

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ISIL(いわゆる「イスラム国」)が結成されたのも、元を辿れば、イラク戦争によって旧政権の軍人がその地位を追われたことや、イラク占領時の米軍の刑務所での捕虜虐待によって、ISILのバグダディ指導者らがその過激思想を培ってきたことによるなど、米国の主導した対テロ戦争はむしろテロの脅威をより深刻化させている、とも言えます。

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こうした米国の無茶苦茶ぶりの一体、どこが「平和」なのでしょうか。イラク戦争やアフガン戦争などの対テロ戦争の問題点について、何の検証も批判もせず、ただ米軍の活動を支援し、自衛隊も米軍とともに戦わせる、というのでは、日本が戦争犯罪の片棒を担ぐことになるだけではないのでしょうか?少なくても、イギリスやオランダでは、独立した検証委員会によって、イラク戦争支持・支援にいたる経緯について詳細な検証が行われました。イギリスでは当時の政府の公文書も公開され、ブレア首相(当時)が実際にはイラクが脅威でないと知りながら、米国支持・支援のために国民を欺こうとしてきたかが、白日の下にさらされたのです。オランダでも、イラク戦争は「国連憲章違反の違法な戦争」と断じられています

安倍首相が本当に平和を望むのであれば、安保法制(戦争法案)を今夏までに強行採決しようとするのではなく、まずは、この間の米国の対テロ戦争などが、「地域及び国際社会の平和と安定」に寄与してきたものなのか、徹底的な検証を行うべきなのでしょう。

また、この10数年、中東を取材してきた経験から言わせてもらいますと、現地の人々が欧米、およびそれと行動を共にする国々に関して激しい憤りを持つのは、一言で言えばダブルスタンダード、「正義」の不平等さに対してです。つまり、米国やそれに同調する国々が、民間人の虐殺など国際法違反の戦争犯罪を行っても、お咎め無しであるのに対し、中東の人々が武器をもって抵抗したら「テロリスト」扱いとなる、という問題です。今年4月、パレスチナがICC(国際刑事裁判所)に正式加盟し、昨夏のイスラエル軍によるガザへの軍事侵攻などについて、ICCが調査するよう、求めていますが、ICCに最も多くの拠出金を出している日本こそ、こうした動きを後押しするべきではないのでしょうか。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/048d6be46a2a36cd79f99375a93f656b56e33751
安倍首相は「積極的平和」の意味を理解できていないので、戦場ジャーナリストが懇切丁寧に指導しますよ

志葉玲



フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)

2015/5/28(木) 7:01


NHK大河ドラマを毎回楽しみに観ている。現在放送中の「どうする家康」では、イケメン俳優の板垣李光人(りひと)氏が徳川四天王の一人:井伊直政を演じている。今回の話題に関係はないが、リヒトとはドイツ語で「光」という意味があるそうだ。井伊直政が出てくる大河ドラマで私が好きなのは「おんな城主 直虎」だ。
 主人公の井伊直虎は、今川家支配下の遠江国・井伊谷(いいのや)の国衆で、のちに江戸幕府の屋台骨を支える井伊家の1568年当時の当主として古文書にその名をとどめる。直虎は実は女性と伝えられる次郎法師だったという仮説のもとに描かれた大河ドラマで、のちに徳川四天王の井伊直政の育ての親として描かれている。
 
 さて、この「おんな城主 直虎」の物語が日本国憲法第9条の精神が込められていると論じた憲法学者がいらっしゃる。蟻川恒正日本大学大学院教授だ。

 「おんな城主 直虎」は、井伊直虎なる人物の一代記である。この人物が実は女性と伝えられる次郎法師だったという仮説のもとに、その数奇な生涯を、桶狭間の戦い(1560年)の前から本能寺の変(1582年)の後まで描いたこのドラマがなぞっているのは、実は、憲法9条の構造である。
 徳川家康から和睦の申し入れを受けた今川氏真が語った言葉が素敵だ。   
 「大名は蹴鞠けまりで雌雄を決すればよいと思うのじゃ。よいと思   
 わぬか。揉め事があれば、戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するのじゃ。さす
 れば、人も死なぬ。馬も死なぬ。兵糧もいらぬ。」

 戦のかわりに蹴鞠で勝負を決するというのは、戦争のかわりに他の手段で決するということになる。氏真の発想によると「戦争は他の手段を以てする政治の継続」であり、日本国憲法9条1項の「 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」の本質を表すかのようである。

 柴咲コウが演じる井伊直虎と、高橋一生が演じる幼なじみの小野政次との会話も素晴らしい。
 「我は種子島を備えて井伊を守ろうと思うておった。だが、この先どうな 
 るかも分からぬ。そなたが我なら……何を備える?」と直虎に問われた家
 老で今川家目付役でもある小野政次は、「私なら、戦わぬみちを探りま
 す。戦いに及ばずとも済むよう死力を尽くす。周りの思惑や動きにいやら
 しく目を配り、卑怯者、臆病者よとの誹そしりを受けようとも断固 
 として戦いません。」
 戦わずに争いを解決するという政次の言葉は、卑怯者と呼ばれる覚悟、政略・外交の技量の必要を強調することによって、戦争をしない政治過程の具体的実践である。国際平和を誠実に希求するとは、こうした実践の積み重ねとしてのみある。

 このドラマが描く直虎の歩みは、一国平和主義ではない。武田と徳川が今川攻めを画策するなかで、直虎は戦そのものを未然に回避しようと徳川に積極的に働きかける。この企ては失敗するものの、徳川方につくこととなった直虎は、徳川の使者に対し、城は明け渡すが兵は出さないと伝える。それでは新たな土地の安堵はできぬと言う使者に対して、直虎は「井伊のめざすところは民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ」と返答する。蟻川氏は、敵味方をこえて「民百姓一人たりとも殺さぬこと」以外にはなく、これを「真正の積極的平和主義」と表現されている。

 領主としての井伊家は潰れるも、直虎は井伊谷に侵攻する武田軍と戦おうとする新たな領主に翻意を迫るために策を講じる。当時農民は戦時には兵力として駆り出されていたが、直虎は、領内の全農民に「逃散」を促すことで、主戦論の新領主を断念させた。兵力が存在しなければ戦はしたくてもできない。蟻川氏は、直虎のこの逸話を「前項の目的(戦争放棄)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする9条2項の具現化であると述べている。
    
 いつの世も、戦争では最も弱い個人が犠牲となる。どんなに策をめぐらそうとも、戦争がある限りこの犠牲はなくならない。ウクライナでも、イスラエルでも、パレスチナでも多くの弱者(子ども・女性・高齢者などの非戦闘員)が犠牲になっている。だから戦そのものを放棄し、兵力を持たないとした日本国憲法9条1項・2項には価値があるのだ。なぜならば、「民百姓一人たりとも殺さぬこと」を根本に据えるのが9条だからだ。

 人間はなぜ歴史から得た教訓を活かそうとしないのだろうか。

https://note.com/shotaminami0128/n/n4a05478518b5
おんな城主直虎の平和思想


合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己

2023年10月29日 07:33