『野田版・桜の森の満開の下』の感想(2017/8/19於歌舞伎座)

「約束があるんだ」

 当時の私は高校生、演劇に興味を持ち始めたころで、友人に貸してもらったのが、この作品の初演(1992年)の録画したVHSテープ。なにがなんだかわけがわからないけれど、ただ美しくて震えて涙が出る、そんな体験をしたのがこの作品だった。どうやら演劇にはそういう鑑賞感もあるらしいと知った。
正直に言って、当時の私にはそのわからなさが高尚に感じたし美しすぎて、あまり身近に感じられず、今もマイベストステージなぞ挙げていくとしたら(それぞれのステージに違った思い入れがあるのでそんなことできないけど)、決して上位5本とかそこらへんに入ってくるものではない。でも、演劇に嵌るきっかけになった作品のひとつではあるし、今も野田秀樹という作り手に魅了させられ続けている。

そんな高校時代を経験した私からしてみたら、幕が開いて舞台の上に桜の森が立ち上がっているだけで、緊張感で吐きそうになり、花びらが舞うだけで、はらはらと涙がこぼれた。あの得体の知れぬ美しさを感じたかった。歌舞伎興行であり、夜長姫が七之助さんなら絶対に叶うという期待があった。でも逆に、それが叶わなかったらどうしようと不安だったんだと思う。この作品を好きで居続けたかった。 

作品は通して、想像よりも現代版で、それはそれで安堵した。まず、速い台詞回し、音楽も大切なものは引き継がれていた。まぎれもなく、野田氏の桜の森だった。「再々演は歌舞伎役者で歌舞伎座でやりましたby NODA・MAP」的な。野田作品は言葉遊びや抽象的な表現にボーッと麻痺してくることが間々あるんだけど(それが心地よくもあるんだけど)、今作は時に七五調で見得を切って締められることでハッと我に返ることができたりして、最後まで集中できた。
そう、1幕目が終わったときに「これって歌舞伎クラスタからみたらどんなだろう」と、勝手な心配が頭をよぎるくらいには現代版だったよね・・・。でも、2幕目の鬼の迫力と混沌は、異形のものを演じなれた古典芸能の役者にしか、それも女形にしか出せないだろうと思しきところもあり、本来作品が持つクライマックスの壮絶な美しさは、その所作を以って迫力を増していたとなると、やはりあれは歌舞伎なのだろう。いや、歌舞伎素人の私がそんなことを気にしなくてもいいのかもしれない。兎に角、美しいと思えなかったらどうしようという不安は全く杞憂だった。

勘九郎さんは野田氏の世界にとても誠実に向き合っていて、でもそれはただ誠実でありさえすればできることでなく、流石の技量と度量で向き合っていて、本当にありがとうございますと頭が下がる思いだった。
そういう意味では夜長姫のほうが自由だったのかもしれない。初演毬谷さんとも再演深津さんとも違う、より高潔でより性根から狂った筋金入りサイコな夜長姫だった。終盤の息をのむ美しさたるや、期待の斜め上を駆け上っていた。
巳之助さんの好演が自分の中では、これヒット。お目にかかるのは二度目だけど、場をテンポで作っていく感じというか、声や身のこなしの切れ、それでいておおらかな明るさがあるところに引きつけられる、”ご贔屓”というのはこうやってできていくのでしょうね。
それから、あの、芝のぶさんとやら、いったい何者なんでしょう。女形として恵まれた天性の声と容姿に加えて、あの達者さ、生々しいあばずれ感、もっとみたいと思った役者さんに出会ったのは久々であることよ。
染五郎さんのオオアマにしろ猿弥さんのマナコにしろ、可愛さと悪さの触れ幅がもう絶妙。美しさだけでなく、わけのわからない野田氏の戯曲を、一瞬の表現の極みで魅せ続け、理解できようができまいが、気持ちが乗ろうが乗らまいが、観客はなんだか説得させられちゃう、という点において、歌舞伎役者ってすげー(ああ、なんという拙い表現・・・)と圧倒され、やはり歌舞伎になるのにふさわしい戯曲だったのだと思い知った次第。

初演はVHSテープで。そして自分の足(稼いだ銭)で劇場に足を運べるようになった頃(2001年)、当時より偏愛していた深津絵里さんを夜長姫として再演が発表された。飛び上がって喜んで、駆けつけた。そして今回またの機会を得た。20余年で、たくさんの芝居を見て、大人として歴史や社会のことも多少知識がつき、近年は歌舞伎にも触れるようになった。『桜の森・・・』は高尚すぎる美しすぎる作品から、自分なりに少し解釈が進んだ様な気がする。
新たな役者が演じることで、その新しい魅力を感じられ、インターネットの力を借りて色々な人の考察に触れる機会もあいまって、自分なりに手が届くところで味わい、さらに自分の深いところに落ちていく感覚を持てた。でも、まだまだわけがわからない。それでもいーや!と、そのもどかしさに開き直ることもできるようになった。 

芝居を見続けてきて良かったー、四十まで生きてて良かったー。 
ひとつの作品をこんなふうに時代を経て味わいつくしていく楽しみがあるなんて、高校生の私には想像できなかった。

野田氏が筋書きに書いていた。いつかこの作品を歌舞伎でやろうと話していた勘三郎さんの魂が、作品を見届けていると、その「魂」の中には「鬼」の字がある。そして、この桜の話はものを創る者の心に棲むの鬼の話だ、と。歌舞伎座に桜が咲いたことは、この作品が後世に遺っていくためにも、中村屋が中村屋たるためにも、必要で重要な通過点だったことは歌舞伎素人のワタシにも解る。それを見届けられて、良かったなぁ。

さてこの作品、30年後にはどこに桜が咲いてその下には誰が立つのか。
そして私は何を思うか。
 演劇に魅了され続けていることこそが「どこへでもいけるおまじない」

 心の中に桜吹雪は舞い続ける。


http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/534

#歌舞伎 #野田秀樹