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イングリッシュブルーベルのうみ 第壱話

朝はくる
昼はむかう
夜はとじた

何時の間にかの裸足で、髪を掻き毟り、振り乱した女がゆっくりと歩いている。微かに、血が混じった黒髪が何本か左手に絡み付き、ゆらゆら。

何処かを見ているかの様で、何処も見ていない、それでも、誰かを求めている眼差し。

半開きの口が、何かを呟いているのか僅かに開いては閉じてを繰り返す。

不意の訪れに姿を現した、太陽が朝を告げる。憐れを体現する女を眩しく照らす、滑稽な平日。幸いにも、今だけは女の独擅場。鳴き声も無い、静謐な橋の上。

視線を下に落とせば、あちらに向かう為とこちらに向かう為の線路が二本。向かい合いの赤ん坊達の様な僅かなズレを持った、駅舎と駅舎。

不意に見え隠れする、背中が二つ。

そう、置いていかれた。だから、追い駆けた。

愛している、と言ってくれた。

静かに穏やかに、優しく切なく温かく、何時もの夕暮れは永遠に貴方と私だけの秘密

愛している、と囁いてくれた。

指先十本、永久に辿り着けない心と心臓を足して、多分、三で割ったぐらいが君の本当の余命

愛して欲しい、と乞われた。

此処に居て、其処に居ない、何処にも結局は居ない、一縷の望みを抱えた紙風船に名札はもう要らない

「ー」
無意識に錆びた橋の欄干を掴んで、乗り上げる。
何時の間にか、人差し指と中指の爪が剥がれていた。瞬きを忘れ、乾ききった眼球から僅かに水が滴り落ちる。あれだけ、罵倒したのに叫んだのにその名を叫ぼうと血だらけの口が潰れた喉に、その名を叫べと

「ー」

その名は

「ー」

その名は

「ー」

何不自由なく、ごくありふれた取り留めのない日常でも生きていた。その名と共に、明日も明後日も、それなのに。それだからこそ。

口端が震え、歪み、限界の先まで唇を噛み締める。その名を呼べなくとも、血は溢れては溢れる。

たった四文字の言葉は紛らわしも込めて笑顔で言いたいと願っていた、あの子にはもう謝らなくていい。呆気ない、その瞬間は紛れもない、最期の事実。

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