死者へようこそ

https://note.com/a_imi_n/n/n1931fca103eb

死者とは、過去の可能性の一つだと思う。

「生きていたら」を考える解りやすいifの一つで、残念ながら、俺の場合伊藤計劃がもし生きていたら、とも考えることもあるが、大体死者のアーティストを糧にして自分は創作している。
デヴィッド・ボウイ、ヘミングウェイ、フレディ…、感受性の強い死者はみんな生きておらず、死者の国から音楽を発信し続けている。
「みいちゃん」の記事でも書いたが、人は皆、とりわけ死者に引き寄せられる感覚器官があるのではないか…と自分は思っており、生者の世界から死者の存在を感じ取る器官が恐らくあるのだと思ってる。
だから彼女らは、死者を表現するのだ。ifの代わりになるように。

久しぶりに良い記事を読んだと思う。(何で縁を切られたのに見ているのかはお察し下さい。)
これについて、一人自分の視点から尊敬するに足る存在を知っている。
点滅社だ。

こいつは誰だ、というと、ニートで希死念慮が半端ない人間が燃え尽きてから死のう、という名目で立ち上げた出版社のことで、とりわけとにかく病みながらも強い存在感を発揮していると思っている。
猛烈にやりたいことをやっており、それで身を燃えながら闘っている。
(少なくとも病んでいながら本を出して、その本が大槻ケンヂに寄稿されている人間を僕は知らない。)
つまりぶっ壊れながら空中分解しつつ闘っている人間なのだ。こういう人間は偉人だと思う。
願わくば10年後も20年後も誰かが意思を継いでほしいし、後から立ち上がる者が確実に出てきてほしい。

人は死に惹かれる生き物だと思っており、まぁそりゃそれでいいんじゃないの、と色々ありながら俺は思っている。
これについては、岩永徹也のブログの考え方に近しい。

1番変わったことといえば、2度目の人生からは悩む時間がなくなったことだ。(ドラマの役で一度死んで電子生命として復活した)どうせ人はいつか死ぬから。
偉そうな大人も、大好きなあの人も、殺人鬼も、聖者も全部まとめて死んでくれるから。

岩永徹也

遅かれ早かれ人は死ぬので、そりゃそれでいいと思ってるが、それでも結局人は生きてる時間を惜しむ生き物だから悲しむんじゃないすかね、と思ってる。その記事に戻るが、死を解析することは恐らく救いでもあるとは思う。
これは自分の死生観の話だが、考えなくて済む、ということは恐らく割と楽とか恐怖とかは無いものだと思ってて、俺等元々何もない所から来たじゃん、と云えばまぁそりゃその通り、だから死から生に来たのであれば、まぁ逆も然りなんじゃないすかね……とは思うには思う。
恐らくまぁ、疲れたら死にたくなるというのは、ある種の帰巣本能というか帰還本能なんじゃないすかね……絶大なホームシックではないか、という所。
でも多分、限られた時間には多分何かあり、(別になくてもいいんだけど)恐らく恐ろしく単純な何かが向こう側には存在すんじゃね?というのは直感だ。
死者の存在は冷たいが、受け取り手は何も感じてないからこそ安心だとも思ってる。
先人に倣って、安心して残りを使い切っておこう、というのが僕のスタンスだ。


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