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5.舞台芸術に関わる動機


 1.コロナ禍の上演
 演劇に限らず、多くの人が舞台芸術に関わろうとする動機とは一体どのようなものなのだろうか。
 医療や福祉、食の安全という、日常生活で欠けることがあってはならない職種とは違い、「文化」は社会の中の役割がわかりずらいのと、「人が生きるために必要なもの」ではないと考えられている。ゆえにそれ自体の公的補助が「?」な点が多いし、よく吟味する必要があると思っている。
 一般的にアーティストは作品を作り続けたいと願う。それはコンプレックスの裏返しなのかも知れないし、あるいは表現の悦びを感じているからなのかも知れない。または純粋に人を楽しませたいという動機があるのかも知れない。そのような動機は生きていくことの欲望といいかえてもいい。極論すれば命あるもの、自らの欲望に振り回されざるを得ない。そうした矛盾を抱えながら我々は生きているし、不条理な生を抱えているからこそ、死に厳粛になれる。
 コロナ禍により死を意識してしまうことが多く、と同時に直接人と会って話しかける機会が失われると何かにせきたてられるように、未知なるものへの出会いの可能性を強く求めてしまう。むかしのヨーロッパで本当かどうかわからないが、新生児に食べ物、快適な寝台、服を与え、言葉と抱っこをしないで経過観察したところ、子供は一年も経たず死亡するという実験が行なわれたそうだが、人には出会いとコミュニケーションが生きていくため必要なものだと強く思う。
 さらには人間にはある種の矛盾を抱えて生を営んでいる点も重要だ。私たちは自分ではなかなか気づかないかもしれないがモラルと、インモラルの間を常に行き来している。性衝動や、暴力衝動というのは、健康な人間ならば程度の差こそあれ、誰のうちにも宿っている。大部分の人々はそのような矛盾を、ストレスと錯覚してそのことで自責の念に駆られ、別のものに縋ることで解消しようとする。しかし結局のところ性欲や暴力衝動はきわめて人間の自然な欲求であり、解消しようとすることは罪ではない。私たちが作品制作にかける思い、動機のようなものには、つねに人としての「さが」みたいなものもあるのかも知れない。それは生を燃やし尽くさんとする厳粛で向こうみずである心持ちにあるといってもいい。

2.差別と偏見
 例えばそんなアーティストにアフリカ・マリ出身のサリフ・ケイタがいる。
 サリフ・ケイタはマリ王朝の継承者として生まれたが、アルピノ(生まれつき色素が少ない)で、その影響もあったのか普通は王朝の継承者にとってはふつう卑しいとされる「音楽家」としてのキャリアを積み上げていく。おそらく普通の人が想像もつかない葛藤と、圧力のようなものがあっただろうが、そうしたサリフ・ケイタの音楽は、アフリカの伝統的なリズムに根ざした極めて現代的なポップスであり、主にフランス国内でキャリアを積み上げてきた。
 サリフ・ケイタ の作品に「socie〜ソジィ」という1994年に発売中止となってしまったアルバムがある。後にアフリカなどで正規盤として発売され、日本でも発売されたのだが、肝心のフランス発売の時期を逸してしまったことは、現代的なポップスの心身代謝の速さを考えると、作り手に大きな損失を与えたと言える。
 発売中止となった経緯としてはフランスのレコード会社がサンプルを配布したところ、これまでにないほど不評で、「フランスの歌を、移民が歌うなんて」という人種排斥の風潮に忖度したという。こんな歌詞だ。

音楽は時にメジャーコードで奏でられる
子どもたちに笑い声をもたらしても独裁者を微笑ませることはない
どこの国の出身であっても 肌の色が何であっても
心の内からほとばしる叫びが 音楽となる

それは自由の程度による
それはおまえの態度による
それは孤独の百年間

私のピアノの上には血がにじみ
私のテンポには軍靴の音が重なる
火山の上方で彼の声が聞こえる 彼の声が聞こえる
彼の心臓の鼓動が聞こえる (noir et blanc)

 偏見をやめて団結を訴えた歌詞であり、自由な生活の渇望と言ったメッセージ色が強い。アルバムのタイトル「ソジィ」とは、そっくり、二つという意味で、アフリカでの偏見ゆえに生まれ故郷を離れたフランスで音楽活動をせざるを得なかったサリフ・ケイタの苦悩と、フランス内の社会問題に正面から訴えかけて「偏見をなくそう」と歌った「時代遅れの」名曲、そこに込められた思いが交差したタイトルは非常に興味深い。
 舞台芸術というのは、同時代の問題に対する異なる考え方を表す。舞台芸術は、演者と観客との間にある特別な関係性で表現される。演者と観客のコミュニケーションは、その時代の言語、考え方、価値観の中から物語という疑似体験を経ておこなわれる。
 「生きる」という行為は、一つの時代の数十年という時間軸から逃れられない。私たちの身体はひとつなので、ひとつの場所でしか存在しえない。ただし演劇のもつ「物語」を疑似体験することで、身体、時代、場所を越え、あるいは俯瞰して感じることができる。私たちが生きていくための本質や、永遠に変わらないであろう真実を探るためにも疑似体験は有効な手段である。
 多くの人に疑似体験を与えることの長所をもつ、文化ないしは舞台芸術をうながすことの意味は、とくにコロナ禍における広告と変化する日常における不安・恐怖の日常のなかではきわめて有効である。このことを舞台芸術に関わる動機と私は考える。

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