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雪原の桜(5)

由里子 1

 こんなはずではなかったのに――
 江口由里子はクリスマスの甲州街道を新宿から初台へ向かって歩きながら、先ほど起こった出来事を反芻していた。

「妻とは別れて、お前と結婚するつもりだよ」
 そんな言葉が嘘だということはもちろん分かっているつもりだったし、本気で言っているなんて信じていたわけではない。
 ここ一カ月ほど体調がすぐれずイラついていたせいだろうか、どうしてあんな言葉が口をついて出てしまったのか、今になっても分からない。
「ねえ、奥さんといつ別れるの? あたしから奥さんに言ってあげようか?」
 いつからこんな嫌な女になってしまったのだろう。クリスマスに家族ではなく、私と過ごす選択をしてくれたことに浮かれてしまったのだろうか。少し意地悪をするつもりで言っただけのような気もするが、実はずっと心の奥に押し込めていた不満が一気に噴き出してしまったのかもしれない。
 相手は会社の上司。特に好きなタイプではなかった。ただ、会社全体を覆っている体育会系のノリに馴染めなかった私を気にかけてくれる、唯一の話しやすい相手であった。たまに会社帰りに飲みに誘われては、仕事や同僚の愚痴を聞いてもらったり、相手の家庭の不満を聞いてあげたりなどして、次第に打ち解けていった。その後、関係を結ぶまでに時間はかからなかった。彼は口癖のように「お前みたいな子と結婚したかったんだよな」と言って、わたしの機嫌を取った。「そんなこと言わないで家庭を大事にしなよ」と物分かりのいい女を演じながらも、こんな関係は早くやめないといけないと常に思っていた。
 そう。私自身、別れを望んでいるはずだった。

 しかし――。私の冗談とも本気とも取れる発言に対する彼の反応は意外なものだった。
「お前はさ、美人だししっかりしてるし、やっぱり俺みたいなだらしない男とは結婚しない方がいいと思うんだよね。もっとお前に合ういい男がいるはずだよ」
 何を言ってるの? そんな素晴らしい女性とあなたは結婚出来るんでしょ? あなたのそんなだらしなさも私は嫌いじゃないよ。
 飽きたなら飽きたとか、面倒になったのなら面倒くさいとか、そう言ってもらった方がよほど割り切れる。自分をきれいに見せたまま別れようとする卑怯な男だ。
「いや……まだ子供が幼稚園に入ったばかりだし……ほら、こんな時に離婚とかってなると、受験までして入った幼稚園だからさ、親の都合で退園とかになったら子供の将来が可哀想だし……。いやいや、俺はね、いつ離婚してもいいと思ってるんだよ、妻にも未練ないしさ。でもね、子供が可哀想じゃん」
 まるで誰かが用意した台詞をしゃべるように、すらすらと彼の口から吐き出される言葉は、由里子を何か悪い夢でも見ているような気にさせた。さっきまであんなに楽しかったのに。さっきまであんなに触れ合っていたのに。なんで今こんなことになっているんだろう。
 吐き気とめまいで意識が混濁していく。自分では何も決断することの出来ない、本当にくだらない男だった。自分の人生にも、私の人生にも、奥さんの人生にも、子供の人生にさえも責任を負いたくないのだ。
 こんな器の小さな男に惚れていたのかと愕然とする一方で、彼と過ごした楽しかった思い出が次々と頭の中を駆け巡る。怒りや悲しみ、諦めなど色んな感情が浮かんでは消えていく。
 その後はお決まりのパターン。さんざん怒鳴り散らしたり、奥さんに言いつけてやると脅してみたりした。足掻けば足搔くほど自分の品位を落としめることになると分かってはいたのだが、体の奥底から津波のように押し寄せてくる感情は、どうにも止めることができなかった。困り顔の彼に泣いて縋ったりもしたが、もはや、気持ちがこちらに戻ってくることはなかった。

 今年はホワイトクリスマスとはならなかったが、十二月に外を歩いているとさすがに寒い。
 刺すような、しびれるような冷たい風を頬で感じながら、また涙が溢れ出してくる。失恋の涙ではない、何の涙なんだろう? 捨てられたことで傷ついたプライドのため――結局は自分で自分のことを可哀想だと思ってるのだろうか。
 また吐き気を催してくる。
 嫌な予感が脳裏をよぎった。そういえば今月はまだ、だ。まさかと思いつつドラッグストアに立ち寄った。

 マンション十階の自分の部屋に入って、感情の昂ぶりが抑えられないまま、妊娠検査薬を試してみる。
 視界の端に違和感を感じて窓の外に目をやると、雪が降り始めていた。真っ白い雪は、汚いものを全て洗い流してくれるような、そんな幻想を抱かせる。由里子は、胸の内にドロドロと渦巻く感情をも洗い流してほしいと舞い散る雪に願った。
 雪が何かを洗い流すことはない。ただ覆い隠しているだけだ。雪が積もり、白が一面に広がったそのひとときだけは美しく見えるが、数日経って溶け始めると、覆われていたものは姿を現す。しかも、汚なかったものはより一層汚くなって――。
 だが、今の由里子にはそれでもよかった。こんな気持ちで会社に行って、上司と部下として普通に仕事をこなし、何事もなかったかのように日常に戻れるなんてとても思えない。距離感を見誤った自分の失敗だ。

 検査の結果は――陽性。
 雪の降るベランダへ出て空を見上げる。一瞬、ここから飛べば楽になるんじゃないかという考えが浮かんだ。そうすることで全てが終わり、この苦しみから解放される。死にたいわけではない、もう何も考えたくないだけ、感情に支配されたくないだけだ。見下ろした先の甲州街道ではスムーズにクルマが流れているようだ。朦朧とした意識の中、導かれるように手すりに両手をかける。膝を曲げてしゃがみ込み、思いっきり反動をつけて身体ごと持ち上げようとしたそのとき――
 パンッ!
 何が起こったのか分からなかった。心も身体も一発で覚醒させてしまうほどの大きな音が聞こえた。バランスを崩した由里子は柵を越えることなく、ベランダの内側へそのまま尻餅をついた。耳にキーンとした響きが残り、間近で聞いた轟音への驚きと、本気で死ぬつもりだった自分への恐怖で由里子の胸は激しく波打っていた。顔を上げると、隣のベランダから男が見つめている。
 え? 誰? 男の顔とピストルを交互に眺めるが、男は手に持ったピストルを隠そうともせず、じっとこちらの目を覗き込んでくる。
 何? このシチュエーションは一体何なの?
 雪だけがしんしんと降る静寂の中、恐る恐る沈黙を破ったのは由里子だった。
「それ、多分本物のピストルですよね」
 え? というようにピストルに目をやった男が慌てた素振りで隠そうとする。
「いや……なんで?」
「私、音を聞いたら分かるんですよね。北九州って知ってます? 私の地元は北九州の八幡西区ってところなんですけど……」
 男は強張っていた表情を緩め、笑顔を見せた。
「知ってる知ってる。俺、大学が北九州だったからよーく知ってるよ」
 その人好きのする笑顔に、由里子は安心感を覚えて、さらに話し続けた。
「へー、そうなんですか。北九大? だったら知ってるかもしれないけど、二十年くらい前に八幡とか小倉とかで発砲事件が多発した時期があったでしょ?」
「あったあった、俺が大学に入りたての頃だったから、よく覚えてるよ」
「そのとき、私中学生だったんですけど、割と近所にヤクザの偉い人が住んでたみたいで、何度か襲撃があって、本物の銃声を聞いたことがあるんですよ。あれって、テレビや映画で見るようなバキューン! って感じじゃなくて、爆竹が鳴るときみたいにパンッ! って短い破裂音なんですよね」
 そう言うと、驚いた顔で由里子を見た男は諦めるように白状した。
「すごいね、そんなん分かる女の子なんてそうそういないよ。そう、これは本物の拳銃。でも安心して。俺はヤクザとか殺し屋とか、そういうんじゃないから。かといって警察官ってわけでもないんだけど……」
「別になんだっていいですけど、危険な感じはしてませんから」
 それは由里子の本心だった。危ない人間というのは、それなりのオーラを纏っているものだ。その辺り、危険人物を嗅ぎ分ける嗅覚は北九州に住んでいればある程度身についてくる。だがこの男からはまったくそういうものを感じない。
「それならよかった。ていうかさ、君、なんか泣いてない? そしてもしかしたら……さっきここから飛び降りようとしてなかった?」
 今度は由里子がうろたえる番だった。涙を見られたことよりも、死のうとした自分を見透かされたことが、急に恥ずかしく思えてきたのだ。
「え!? えっと……。ちょっと泣いてるし、ちょっと飛び降りようとしてました」
「っていうことは、俺が銃をぶっ放したことで、あなたの命は救われたと。進化の道具は早速仕事を果たしたわけか……」
 男は訳の分からないことを言う。
「さあ……。結果的には今は死にませんでしたけど、救ったかどうかは分からないですよね」
「はは、そうだね。救っちゃいないか」
 冷たい風が吹いてはいるが、二人の間の空気は急に緊張感を失った。
「世間はクリスマスイブで盛り上がってるっていうのに、俺たちは何やってんだかって感じだよね。ここじゃ寒いし、寂しいもの同士、こっちに来て飲まない? どんなことがあったのか話聞かせてよ」
 男は笑みを浮かべながら、そう誘ってきた。話していると不思議と気持ちが落ち着いてくる。死にたいという感覚は本当に衝動的なもので、ちょっとしたきっかけさえあれば、思いとどまれるものなのかもしれない。実際に自殺した人の何割かは、ただ、誰かが話しかけてくれただけで死ななくて済んだのかもしれない。この男が信頼できる相手かどうか分からなかったが、由里子はもう少し話したいと思った。話すことで死への衝動を遠ざけることができるんじゃないかと。「じゃあお邪魔していいですか?」と由里子は応えた。

(つづく)

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