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ややこしい人

親族に一人は「ややこしい人」というものがいる。

このややこしい人というのは親族間で露骨に、でもごく当たり前に存在をない物とするという、矛盾してるんだか自然の摂理なんだかよくわからない力でもって親族からはじかれている。

私の実家で言うならば父方の伯母(とその家族)がそうであったし、母方の叔父もそうであった。

私の父は3人姉弟なのだが3人ともが非常に頑固で気が強く、父の話を聞くだけでも、幼少期にはなかなか壮絶な姉弟喧嘩繰り広げていたようだ。しかしそんな突っ張った姉弟でも、年を取りそれぞれ家庭を持てばお互いを労わり合えそうなものなのだが、頑固で気が強いところに見栄やプライドみたいなものが乗っかってしまったようで、長女である伯母がある年の法事の時に大爆発を起こしてしまい、それ以来音信不通となってしまった。伯母の拒絶っぷりは徹底していて、親族の行事に参加しなくなったとはいっても大人なので、普通なら年賀状のやりとりぐらいはしそうなものだが、わざわざ電話をよこして「年賀状は金輪際送って来るな」と言い捨てたというのだから筋金入りの偏屈だ。ここまでくれば、あっぱれ!の域である。

音信が途絶えて数年は、もう一人の伯母家族(こちらと我が家は仲が良い)と正月などで会うたびに、長女伯母の近況の噂話をしたり、あの時のあの言動がどうだっただのと度々話題にもなっていたのだが、だんだんとネタが尽きてしまい、そのうち誰も長女伯母のことは話さなくなった。そして月日が流れ、従姉が結婚することになり久しぶりに長女伯母のことをみんなが思い出したのだが、従姉が結婚式の招待状を送ってみても「あて所に尋ねあたりません」で戻ってきたという。そう、伯母達は引っ越しして本当に今どこで何をしているのかわからなくなってしまったのだ。

それからはもう誰も伯母のことは言わなくなったし、私も兄も当然のように結婚式にも招待しなかった。(伯母さんはどうしたらいいんだろう…)なんていう迷いも無かった。あたかも父は2人姉弟であったかのような状態だった。

夫と結婚してすぐに実家で法事があり、親族で集まった時に従姉が不意に「伯母ちゃん達どうしてるかな…」と伯母の話をしたので、夫は「え?!お義父さんにお姉さんが他にもいるの!?」と大変驚いていた。どうやら私は一言も話していなかったらしい。「いやぁもう絶縁状態だからねぇ…」とかなんとか言いながら、伯母がいないことにひっかかりも後ろ暗い気持ちもなく、普通にいないものとして受け入れているのが私自身少し不思議でもあった。

伯母が大爆発して我が家で大人の姉弟喧嘩が勃発したあの日の夜、兄が布団の中で「俺たちは絶対あんな風に喧嘩せんとこな。意地張らんとこな。大人になっても仲良くしよな」と言ったのを覚えている。私も「うん。悪いことしたと思ったらすぐ謝ろな」と返事した。こんな単純で簡単なことができないなんて、お父さん達大人なのにダメだなぁ。とも思っていた。


そしてあの夜から30年ほどたった今、なんだか私はあの伯母と同じようになりつつあるのではないかと感じている。

まだ大丈夫だと思う。まだ家族のみんなともちゃんと連絡を取り合えているし、こう言っちゃなんだが、まだ全然伯母の足元にも及んでいない。

及んではいないのだが、そう遠くない未来、私は偏屈野郎として親族からつまはじきにされるのではないかととても怖いのだ。

発端は、ワクチン接種だ。

私はワクチン否定論者ではない。子供には生後2か月から言われるがままにじゃんじゃかワクチン接種させているし、毎冬のインフルエンザの予防接種だって欠かしたことが無い。でもコロナのワクチンだけはどうしても気が進まないのだ。「効果あるって!」と言っている人の言い分もよくわかるのだが、「危ないって!」と言っている人の言い分にも納得してしまうのだ。

「私は怖いからちょっと様子見るわ…」と告げてから、私は家族・親族の腫れ物になってしまった。平気な人からすれば「何が怖いの?」とか「みんなやってるのになんで接種しないの?」「これで自分も家族も守られるのになんで接種しないなんて選択肢が選べるの?」といった感じだろうか。面と向かってそう言われたわけではないので、この考えもまた妄想に近いというか、極端になっているとは思うのだが。でも表面で「そうなんかー」と言っていても、心の根底にはこれに近い思いが転がっていると思う。最近ではワクチン接種した人でも感染するし、他人にうつすし、体調や年齢によっては悪化もするようなのだが、それでも"恐らく”重症化率は低いので、自分の身を守るには有効なのだろう。だからこそ両親は私にワクチン接種をしてほしいようだ。私も自分が親になったからこそ、両親のその暑苦しいまでの気持がよくわかる。もし私が独身ならばもっと気楽にカラッと「もう~私のことはほっといてよー!」と突っぱねることもできると思うのだが、私が両親の立場でも同じことを子供に言うと思うので、今現在私は自分の「親」と「子」の気持ちの板挟みになっていて、態度が余計にぬるっとしている。そしてそれがまた両親を不安にさせているんだろうなとも思う。

(私、頑なかなぁ)とか、(偏屈かなぁ?考え偏ってるんかなあ?)とよく考える。みんなと同じように行動していれば、コロナの不安は消えなくても、自分の人格の歪みについて不安になることはなかったんじゃないかと思うと、私の選択は間違っていたのかなと思う。こんなことに悩んでうじうじしてため息ついてる時間を他の楽しいことに使えたんじゃないかと思うとやるせない。

30年前、私は伯母が理解できなかった。幼い私の目に伯母は「わがままで頑固で偏屈でプライドが高くて性格の悪い人」に映っていた。そしてそのままその言葉が今の私に当てはまるような気がしてならない。でも今なら少しわかる。伯母も大見得を切っている裏では、不安で孤独で、自分の思いと行動のギャップに苦しんでいたのではないか。一人で考えれば考えるほど、悪い方にばかり考えが行ってしまって、みんなで自分の悪口を言っているに違いない、というような妄想めいたことまで考えてしまっていたのではないだろうか。そう考えれば音信を断ってしまったのもわかる。みんなの前に出て、みんなと歩調を合わせられるという自分を取り繕うのにも、その本心とかけ離れた見かけと本音を自分の中ですり合わせる作業にも疲れてしまったのではないだろうか。

今ならわかる気がする。今ならわかる。

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