文芸とビジネスと金銭の無意味について

 文芸とは芸術である。だから、金になる筈がない。芸術家とは常に他のビジネスとの兼業である。巷には、ビジネス的にも成功した者のみを芸術家と呼ぶ輩もあるが、無視してよろしい。芸術におけるビジネスとは常に、後追いである。人々に流布したから結果的に金になったのである。書けない時期もあるはずだ。人間の生活という否応ない冷酷な定めが、芸術家に、創作の無理強いをしてはいけない。
 こう考えると、そも、人間には芸術は不可能ではないかという疑問が起こる。創作には、必ず、普段の暮らしの犠牲が必要である。何故なら、誰も、いい気に口だけで生きる人間などの語りなどに、興味が湧かない。村上春樹の小説のどこに、さしたる自信もない不安定な我々の、世界一曖昧な日常があるのか。売れた、ということと、本物だ、ということとは、別の問題である。何故なら、金銭は無意味だからである。食も無意味である。金銭や食に意味を与えるのはいつも人間である。鳥をむさぼり食らう野良猫のその食事の価値と同じ価値を、金銭が持っている。
 しかし、時代は出版不況である。が、芸術は、ビジネスに染まるほど、売れなくなる。村上春樹はゆえに、ビジネス無視で小説を書いている。偉いと思う。ただ作品がいまいちな、だけである。名前を出してすいませんである。
 ということは、ビジネスに心得のある者が、ビジネスに嫌気が差し、が、彼はビジネスの重大性を理解しているところに、出版不況の打開があるのかもしれない。
 芸術家は、いつも、ビジネスとは、他人である。売れなくても良いが、与えたいのだ。そして芸術家も食わなきゃ死ぬのだ。ここに悲惨がある。
 私は休日なく、農業と創作とを兼業している。どちらも、亡国の生業である。私の言葉を聞かないといけない。

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