マスメディアの最近

私はテレビを家に置かない人である。テレビが、ないと、はっきり言って、どうでもいい問題を、人が、気にしている姿が、かなり、他人ごとに思える。そうして、報道やメディアの姿勢つまり形式に、出来事つまり内容をくるんで、なんというのか、ピアノ曲をはじめてヴァイオリン演奏で聴いたなら、その曲をヴァイオリンの曲だと思ったが、実際は、ピアノ曲だった、みたいな、そのような、そうして、人は、実はテレビが嫌いであり、しかし中毒のように、テレビを見てしまうのなら、メディアに対する無意識下の不満が、錯乱し、流行り病となり、過度の民主党政権時代への批判や、なんやらに、なるのではなかろうか。
ベッキーの不倫とかは、メディアの中でバッシングしていたのであって、視聴者は、そんなに、不倫したから云々と、思わないのでなかろうか。
清原の覚醒剤は、そも、覚醒剤は何故、違法なのか、違法だから悪いのか、そも違法は悪いのか、捕まったから悪いのか、覚醒剤だから悪いのか、通常な社会的生活が送れなくなる恐れがあるから、違法扱いしていると私は思っていたのだが、はっきり言って、そうかあ、と私は思っただけなのだが、親族が、薬中になると、支払いも無理であり、家で暴れられては大変困るので、私は、覚醒剤は違法でよいと考える。人間は弱い、いつも、もの足りたさを秘めているものである。
また、テレビに映っている人を、何か、違う者のように、思い、私は、たかが芸人風情がなにを我々を素人呼ばわりして澄ましているのか、自虐的ギャグならユーモアでいいが、本気で、いわゆる売れた人は、玄人で、観客は、素人だと思っているのなら、何だかよくわからない分類方法なのだが、それは、昔の落語家が、みんな芸人みたいに馬鹿になりなさい、まあ、馬鹿に関して言えば、皆さんは素人、私は玄人、とかを、落語話の頭言葉にでも話していたに違いないが、今では、単に、テレビを一種の権威のように勘違いしているのではなかろうか、とも思われるのだが、私はテレビを持っていないので、あまり私には関係のない話なのだった。
テレビは、人を、いつも外から見る。それは、カメラの特性である。その事実が生む、悲喜劇を書くのも、文学の仕事である。
カメラは人から霊魂をぬきとる、と幕末の人々は思っていたらしい。

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