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フリーダム サウンド/ジャズ クルセイダーズ

フリーダム サウンド/ザ ジャズ クルセイダーズ
パシフィック 3098
1961年5月録音

僕がホール&オーツやポリスやシンディー ローパーに夢中になりすぎて、数学のテストで0点を取ってた頃、クラスに音楽はクルセイダーズを聴いていると言うのがいて、やたら大人びたマセたヤな奴だなあと思っていたものだ。とはいえ1983年頃の高校生だからそいつ自身も大学ジャズ研生の兄貴が聴いているからみたいな聞きかじりで話していたにすぎないのかも知れないが、まあ当時フュージョンと言うもの自体がよくわからんなりに時代を先取りした大人の音楽と捉えていたのは確かだ。
そんななかクルセイダーズは特別に存在自体がオシャレで高尚な音楽性を持ったグループというイメージだった。
しかし、クルセイダーズは元々頭にジャズがついたジャズ クルセイダーズとして、1961年にパシフィック レーベルより、この「フリーダム サウンド」でジャズバンドとしてデビューした。ここで驚いていただきたいのは、1961年というとジャズ メッセンジャーズなら初の日本公演を終わらせ、リー モーガンに代ってフレディー ハバードが入団、名盤「モザイク」を録音した年である。ウィルトン フェルダーとジョー サンプルがたて続けに亡くなってまだ日が浅く、ついこないだまで現役で人気があったフュージョン グループだと思っていたバンドだが、そのスタートは恐ろしく古い。何しろ今から63年も前ですから。

ジャズ クルセイダーズは元々はテキサス州ヒューストンの高校の同級生であったジョー サンプル p. ウィルトン フェルダー ts. スティックス フーパー ds.の3人で結成された。初めて出会ってジャズを演奏したのはみんな15歳だったという。当時のグループ名は意外とヤボったくザ スイングスターズ。それからウェイン ヘンダーソン tb.他が加わり、名前をモダン ジャズ セクステットに変え、地元ヒューストンで活動。1960年、4人でロスアンジェルスに移り、名称をジャズ クルセイダーズとし、パシフィックに録音して行く。

このジャズ クルセイダーズという名称だが、これは恐らくもう既に参考として引き合いに出したアート ブレイキーのジャズメッセンジャーズを意識したのだろう。これを本人らが名付けたのか、レコード会社が付けたのかは知らないが、モンスターバンドとしてジャズを牽引していた東のメッセンジャーズに対して西の若き実力者達がポストとして次の代を担うぞという意味だったのではないか、と思う。まあそんな実力ある若者が大陸の反対側でそんなバンドを結成するというだけで、大のブレイキーとJMフリークである僕なんかは、その偉大さとジャズ史における重要性と社会性について一席ぶちたい心境になるのだが、今回はグッと抑えてジャズ クルセイダーズの話に絞ろう。

注目しないといけないのは、CRUSADERというのは、日本では十字軍と訳されたキリスト教徒がイスラームに占領されたエルサレムを奪還するために11世紀から200年に渡って派遣した軍である。つまりバンド名はキリスト教の立場に立っての名称だ。それに対してMESSENNGERSというのはイスラム教徒であるアート ブレイキーの「我々はジャズをもって世界を一つにするため神から命を受けた使者である」という理念で運営されている。ブレイキーのイスラム教徒としての信念は、今さら説明は必要はないと思う。
対してクルセイダーズ側はそういう意味でこの名称を付けたのかは知らない。ただ本作ではメンバーの自作曲以外に1960年の映画の音楽であるEXSODUSのテーマが収録されている。EXSODUSは「栄光への脱出」という邦題で公開されたが、第二次世界大戦後にナチスによる迫害を受けたユダヤ人達がイスラエルを建国する話で、原作はユダヤ人であるレオン ユーリス、監督はウイーン出身のユダヤ人である名称オットー プレミンジャー、主演がポール ニューマンである。作品のテーマがテーマだけあって、今はソフトも見当たらず、鑑賞するのは困難で、僕は観たことはない。しかしアメリカがイスラエル建国を後押しするために必要な世論を得るのに大変貢献したというものであるらしい。まあそれ故に悲惨なことになっている今のガザ地区の問題に直結するので寝転んでポテチとビールで鑑賞する訳にはいかないものだろう。
だから十字軍という名称を持って、この映画のテーマを演奏するのを選んだのかと考えたりもしたのだが、これまたウイーン出身のユダヤ人であるアーネスト ゴールドが作曲したこのテーマ曲はとても良い楽曲であり、当時ヒットして多くのジャズミュージシャンが取り上げたので、流石にこれは考えすぎで、ヒットしてるし、演ってみたい楽曲だからという理由で収録されたのだろう。
ただ、61年当時の人権運動はキング牧師を代表とする南部キリスト教指導者会議とマルコムXが象徴となったネイション オブ イスラームがしのぎをけずっていたのだから、ジャズの人気バンドでも西と東だけでなく、キリスト教とイスラームに別れようとしていたのは面白いと思う。

しかし、このジャズ クルセイダーズの音楽自体は、無理やりカテゴライズするとハードバップであるという以外は、メッセンジャーズのそれとはかなりかけ離れたものである。
とはいえ、アートブレイキー&ザ ジャズメッセンジャーズとジャズ クルセイダーズは世代も音楽感も全く違う別物で、比べることなどに意味など無い、というのを判っていながら、その無意味のどこかにメッセンジャーズとジャズ クルセイダーズ、はたまたブラックミュージックとしてのジャズについての我々日本人が気づかなかった真実が隠れているかも知れないと思うので続ける。

ジャズクルセイダーズの「フリーダム サウンド」は、サンプル、フェルダー、ヘンダーソン、フーパーのレギュラーメンバーにゲスト(助っ人?)ベーシストのジミー ボンドの5人を核として録音された。この編成は当時ジャズ界では新しい音楽性を打ち出したとされていたベニー ゴルソンとカーティス フラーのジャズテットと同じだ。
それにもう1人ゲストとしてギターのロイ ゲインズが加わるが、その成果はオープニングのフェルダー作曲「ザ ジーク」で早くも華開いている。とにかくカッコいいのだ。まるで我々こそが新しいジャズエリートだとばかり全員が颯爽としていて自信に溢れている。さらに、このゲインズという僕は失礼ながら名前を存じあげなかったギタリストを入れることによって、極上のファンク感を醸し出している点は1961年という背景を考えると驚異的としか言い様がない。とにかく、まだジャズ界ではこういうのをファンキーで片付けられていたのが、ここではもうファンクと称してもいいのでは無いかという時代の先取り感が聴いて取れるのだ。まだビートルズも出てきていなかった1961年にどうやってこんな時代を先取り出来たのかは不思議で仕方がないのだが、とにかくこのデビュー作のオープニングの時点で、我々はメッセンジャーズやホレス シルバーが演っている音楽とは違うのだ、と主張しているみたいだし、マイルス やキャノンボール アダレイの後の音楽性にお先に踏み込んでいる。さらに西海岸特有のカラッカラに乾いたサウンドが、そのカッコ良さに拍車をかける。。こんなのが突然現れたのは、これまで所謂モダンジャズを聴いていたニューヨークのグリニッジ ビレッジあたりのトンだ連中はどれほど驚いたことだろう。
アルバムはその後も63年前であるのにまさにネオ ハードバップここにありという斬新さとファンクネスを持って突き進むのだが、その音楽性は前記したEXODUSで絶頂を迎える。この格調高いハリウッド製の映画音楽をまるで新しいカッコいいブラックミュージックの響でもって変えてしまっているのだ。グラント グリーンなども取り上げた同曲だが、僕はこれを持って最高傑作としている。

「フリーダム サウンド」を聴けば、1961年のジャズ クルセイダーズは最初から何の真似もせず音楽を創造したのがわかる。

ジャズ クルセイダーズはこの後もジャズバンドとして、どんどん時代を吸収して行き、ジャズ界最高峰の実力と人気を両立させた、新たなモンスターバンドに成長して行く。その過程は同じパシフィックから約1年半のスパンで発表されて行った彼らの本拠地であるロスのハーモサビーチにあるライトハウスでのライブ盤で確認出来るのだが、それらは順を追うと、よくもまあこれだけ上手く時代のニーズに合わせた音楽を創造していけたものだと心底傾聴に値するものばかりだ。Doodlin’には62、66、68、69年と揃っているのだが、これらはジャズ好きなお客さんを大いに歓喜させている。当初ハワード ラムゼイのライトハウスオールスターズを持ってクールジャズの本拠地となっていたライトハウスだが、ジャズ クルセイダーズを出演させて以降はとんがったブラックミュージック専門のライブハウスとなり、リー モーガンや、グラント グリーン、エルヴィン ジョーンズらの傑作ライブ盤を生んだ。

ジャズクルセイダーズの音楽は、その斬新さゆえに常に当時吹き荒れた黒人人権運動に呼応していた。なのでビートの細分化やエレクトリック化も全く躊躇せずに入っていき、人々の心を掴んだ。
そして70年代を迎えると冠からジャズを外し、クルセイダーズとしてジャズである無いというのは度外視して黒人の洗練された粋と音楽性を押し進めて行く。この頃のクルセイダーズがいかに大衆の心を鷲掴みにしていたかは、名盤とされ売れに売れたらしいライブ盤である「スクラッチ」の観客の熱狂ぶりを聴けばわかる。これはジャズを外せず、ウェイン ショーターが脱退後には急速に力が衰え、若い層はつかなくなり、博物館で保管されるような音楽だけ演る様になってしまったジャズメッセンジャーズには出来なかったことだ。まあ比べても仕方がない。

では先ほども少し疑問を呈したが、なぜ1961年という時点でヒューストンなんて町の高校の1学年の数人だけがここまで時代を先取りした感覚を持って全米に名前を轟かせれたのか?少し考えて見たいと思う。
ヒューストンはテキサス州東部にあるメキシコ湾の入江に作られた港街で、現在では全米で4番目の人口を抱える大都市である。しかし、テキサスならば音楽的には圧倒的にカントリー&ウェスタンが主流であって、クルセイダーズが演っていた所謂モダンジャズなんてほとんど需要は無かったのではないか?ただ、テキサスは南北戦争前は奴隷州であり、また傑作映画、ロバート ベントン監督作品「プレイス イン ザ ハート」で観られる様に、綿花畑が広がるプランテーションであったところからして、ディープサウスと呼ばれるジョージア、アラバマ、ミシシッピーと景色も文化もさほど変わらない州であった。映画でもKKKは登場したし、黒人は容赦なくリンチにかけられていた。「ジャイアンツ」で観られる広大な平原と砂漠の景観は中部から西部にかけてだ。と言ってもその辺では隣の家に行くのに車で旅行しなくてはいけない広さだけれど。
そんな南部文化を持つテキサスは当然かも知れないが、ブルースの中心地でもあり、Tボーン ウォーカー、ライトニン ホプキンスなどを生んでいる。
「クルセイダーズの音楽はサザンミュージックなのだ」とジョー サンプルは何かのインタビューで発言したと言うが、クルセイダーズの斬新さの中にも燃え上がる様なブルース感覚が聴いて取れるのは間違いなくテキサスの黒人が独特に持って生まれたものだろう。またジャズの話に絞ればテキサスといえば、アーネット コブ、イリノイ ジャケ、バディ テイトという迫力第一といえるテナーサックスのスタイルがあるが、クルセイダーズのテナーであるウィルトン フェルダーもそのスタイルはかなりテキサステナーの伝統下にあるのは間違いないだろう。このスタイルもブルースの下地が無ければ生まれてはいないものだ。

でもジャズ クルセイダーズはそんなブルースマン達の持つコテコテ、グログロ感とは正反対の都会的でモダンな音楽性を持っている。カントリーやブルースという土煙を感じさせる土着音楽ばかりの地で、なぜここまで、ある同学年の少年らだけがこうなったのか?
それを考えるのに、このヒューストンという地の当時に何があったのか、調べてみると、ひょっとしてというヒントになりそうな事を見つけた。
それは、ヒューストンといえばその郊外にアメリカ航空宇宙局、通称NASAのリンドン ジョンソン宇宙センターがある所ではないか?調べてみるとこのセンターの正式設立年月日は1961年11月1日であるから、メンバーはもうロスへ旅立った後である。しかしこんな巨大な国家プロジェクトが、そんな昨日発案されて今日運営される訳は無く、恐らく何年も前から東部の賢い頭脳を持つヤな感じの連中がひっきりなしにヒューストンに来ていたのではないか?そうだとすればヒューストンの若いミュージシャンと東部のインテリさんとの接点がヒューストンで生まれる訳で、それを通してクルセイダーズは東部的なモダンサウンドを手に入れたのではないか?

この説を僕は師匠である故吉田さんにぶつけてみた事がある。吉田さんは小さなお目目を精一杯開けて「いや、それは面白いですねえ、そうかも知れません。一度調べてみましょうか」とおっしゃられたものの、調べる時間はなく心臓の病気であの世に旅立って行かれた。でも吉田さんに面白いと言っていただいただけでも、僕にとっては大成果だと思っている。何しろ先のジョー サンプルのインタビューの件を教えてくれたのも、ジャズクルセダーズの69年のライブ盤をいただいたのも吉田さんなのだから。クルセイダーズはDoodlin’と吉田さんの想いが詰まったバンドなのだ。
クルセイダーズは最終的にはジャズだのフュージョンだのブルースだのテキサスだの問題にならないくらい世界的になった。それだから、過去にはかなりインタビューを受け記事が出回っていると思う。それらを集めると冒頭のジャズメッセンジャーズに対する想い、名称のこと、宗教的なこと、人権運動との関わりなど、僕の知りたい事柄は語ってくれていると思う。どうかそれらを要約したもので、もっともっとジャズ クルセイダーズを知りたい。ジャズ クルセイダーズはハードバップから始めた内陸出身のバンドであるのに、ニューヨークに出ずに名声を得た。それだけにジャズ クルセイダーズをもっと知れば、そこには僕らが知ることはなかったブラックミュージックとしてのジャズの本質を知れる気がする。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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