不遜たるなかれ

自らと関わる他者に対しては、意図するかいなかに関わらず何かしらの評価をしてしまっているものだ。

それは上から目線での評価ということではなく、単純に好き、嫌いであったり、生理的に感じる嫌悪、本能的な好意であったりすることもあるだろうし、信頼に足る人物であるか信用のおけない人物なのか、自分に対して何かしら利を与えてくれる存在なのか負の影響しかあたえない存在なのか、仕事ができるのかできないのか、お金を貸してくれそうかそうでないか、真正面から叱ってくれるほど自分のことに親身になってくれているのか違うのか、など多様な種を含む。

さまざまな側面から、あらゆる尺度で何かしらの評価をしているわけで、全ての人に対して常にフラットであるといった聖人君主のような人間は存在しないだろうなとも思う。

もちろん日頃からそのようなことを常に考えながら人間関係を構築しているわけではないが、こと何かが発生したときには、やはり自分なりの他者への評価というものが、自分の中において、いやがおうにもクローズアップされる。

こと自分の場合は、自らが他者に対して何かしらを与えうる存在でありたいと願い、どのような課題に対しても自己判断による解決を最優先するため、ことさら他者を改めて評価するようなシーンには出くわしづらい。

誰かに頼るということ自体が「なんの解決能力も持ち合わせていない決断力に劣る弱い人間の行動だ」などと言葉にはせずとも心根の部分では思っっているからでもあるのだが、それはたいそう不遜である。その実、それを呪文のように唱え、盾とし、うすうすと感じているはずの、しかしながら顕在化せぬように抑え込んでいる深層心理に内包される脆弱性をあらかじめ自己防衛しているだけでもあるようだ。

つまりは驕心だ。頭を下げ精一杯に頼るという勇気ある前進ができないのだ。そういう決断力を持ち合わせていないただの臆病者とも言える。

そういった行動原理で動いていた者が、いざ本当に頼るべき瞬間に直面したときには、幾人の顔が頭に浮かぶのか。

その結果は、これまでの自分の生き方を露骨に表すことにもなる。

咄嗟に出てきた顔がゼロではなかったことにはいささか安堵しつつも、懸命な深慮によってはじき出した結論は、やはり咄嗟に出てきたそれと同じであった。

多ければそれはそれでよいのかもしれないが、あらゆる側面からの関係要素を踏まえて評価した結果でもその顔しか出てこないのであれば、それはもう評価ではなく心の根の部分での信頼である。

意識外のところでは結局心底頼っていたのだと、それもまた新たな気づきとなり、また気持ちよく応えてくれる瞬間に出迎えられたときには、自然と頭が垂れた。

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