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オートバイのある風景3 CBX400Fと奥多摩の夜


名古屋で悶々とした浪人生活を送った僕はその年の受験で何とか2校の合格を取り付け、そのうちのひとつ東京は武蔵野にある三流の私立大学に入学した。

入学式で知り合った軽いノリの奴と初日から学食でナンパに励んでみたものの、当たり前だが僕たちは見事に玉砕した。その軽薄な奴とはその後一切関わりを持たなかったのは言うまでもない。
やっぱり俺は硬派に生きるぞ!と気持ちを切り替え、まずは武蔵境北口にある自動車学校に入校した。
もちろん、普通自動車とともに中型自動二輪免許を取得するためだ。ちなみに軍資金は浪人時代の新聞配達で受け取った奨学金である。

免許の目処が立った僕は早速今度は南口にあるバイクショップに向かった。
欲しいバイクは当時出たばかりのホンダVFR400R。
高校3年の時にRG250ガンマが発表され、翌年には鈴鹿8耐にケニー・ロバーツが参戦。4耐の予選には400を超えるチームが出走し時代はレーサーレプリカブームに一直線だったのである。
しかしバイク屋の社長はこの貧乏学生に高額のローンを勧めてはくれなかった。その代わりに
「学生さんにはこのくらいがいいよ。」
と言って見せてくれたのは4年落ちのCBX400Fだった。
車検取って込み込み28万円、当時はバイクローンの金利が高かったから、月々1万円の36回払いだったように思う。
「えー、今さらCBX?」
「ちょうどCBR用の集合管が余ってるから安く付けてあげるよ。いいからこれにしなって」
社長に諭されるように僕はこの赤白のCBXを購入した。

そんな出会いだったCBXだったが、このバイクは僕に色々なものを与えてくれた。そのひとつが「夜」である。
浪人時代は新聞店の2階に住み込みで、しかも朝が早いから夜は自由にならなかった。それが、東京での下宿生活は夜も自由に動き回ることが出来た。

ある夏の夜、大学の友人を後ろに乗せ、奥多摩に走りに行った時だ。
件の集合管はCBR用のRPM管。エンジン側は共通だがサイレンサーの取り付けは汎用のマフラーステーで正直心許ない。走り始めてしばらく、道路のギャップでマフラーの集合部分が路面と接触した。その衝撃でステーが緩み、集合部がガタつき始め、たしか氷川のトンネル辺りだったと思うがマフラーの連結が外れてすっかり腹下直管になってしまったのだ。
夜中の青梅街道で高周波のエキゾーストではなく、ズドドドッという爆音を上げる二人乗りのCBX。その音と姿は警察ではなくある仲間を引き寄せてしまったようで、後ろからえらい勢いで集合管の爆音が近づいて来た。地元の暴走族に違いない。
「やばい、からまれる!」
そう思った時、XJ400に半ヘルで二人乗りしていたそっち系の少年達は横に並ぶやいなや
「良い音してますね!一緒に走りましょう!」
と言ってきたのである。
しばらくランデブーした僕たちは、街道沿いの自販機前で少しおしゃべりをして別れた。後ろに乗っていた友人(学芸大前に住むお坊ちゃまでバンドボーイだ)はすげー面白い夜だったとご機嫌だったが、僕はいつ警察に止められるか気が気でなかった。
帰宅後、僕がマフラーの集合部とステーを強固に締め直したのは言うまでもない。


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