見出し画像

オートバイのある風景15 真っ赤なドゥカティM900

ドゥカティである。

僕らの世代だと「ドゥカッティ」と発音したくなるイタリアはボローニャの名車だ。ボローニャがどこにあるかは知らんが。
オートバイに乗り始めた頃の僕にとってドゥカティはそれほど魅力的なメーカーではなかった。しかし、その印象をひっくり返すバイクが1992年に発表された。
M900、モンスターである。

1992年ケルンのモーターショーで発表されたモンスターに僕は衝撃を受けた。
ドゥカティとしては珍しいカウリングの無いネイキッドのデザインに加え、スーパーバイクで力を見せ始めていた851系のフレームに伝統の空冷エンジンという組み合わせの車体。ボリュームのあるタンクの造形と相まってそれは痺れるほどカッコ良かったのだ。

いつか絶対に乗りたい、そう思えるバイクだった。
けれど当時のバイク乗りにとって輸入車は高嶺の花。今のような低金利で長期のローンも無かったし、僕は新卒で新婚と来ているから、初めての新車にゼファー750を購入するのが精一杯だった。

しかし、そんな生活を一変するような出来事がやって来た。
学生時代の事故で大怪我を負った事は以前お話ししたが、ゼファーを買った翌年に身体の中に残っていた金属のプレートを取り除く手術をした。そしてようやく事故の示談が進んだのだが、その結果年収を大きく超えるような慰謝料を僕は手にしたのである。

不謹慎かも知れないが、僕は真っ先にドゥカティM900の予算を確保した。
言い訳ではないけれど、迷惑をかけた両親に相当額のお返しをして、第二子の長男も生まれてワゴンRでは手狭だったので当時出たばかりのオデッセイを購入した。
それでもかなりの金額を定期預金に入れることが出来たのだから、まぁ許して頂きたいと言うのが本音である。

慰謝料が振り込まれると、早速僕は行きつけのバイク屋さんに行きモンスター買うよ!と伝えた。
Y専務も事務のM山さんも相当驚いていたが、どうやら直接引っ張って来るのは難しいらしく、まずはお付き合いのある沼津の田岡モータースさんを経由して、東京の村山モータースから卸してもらう事になった。
こうして1995年式の真っ赤なモンスターがいつものバイク屋さんにやって来たのだった。

初対面のM900は、これでもか!と言うくらい紅くてカッコよかった。
ドゥカティ・ジャパンが出来る前だったので、正規代理店だった村山モータースの黄色いロゴのステッカーが貼ってあり、それも僕にとっては誇らしい部分であった。


雑誌ライダースクラブの走行会にて

こうして始まった初めての輸入車とのオートバイライフであるが、当時は今ほど外車がメジャーではなかったので行く先々でよく話しかけられた。

「これは何ccだ?何キロ出る?」は勿論のこと、一番多かったのは
「これいくら?」で、
そんなとき僕は包み隠さずこう言った
「ヒャクロクジョウウヨンマンエンです」って。
夢があっていいでしょ?

今思い出すと、聞いて来るのは大抵バイクには乗っていなさそうなおじさん達だった。周りのバイク乗り達からは一目置かれるものの、遠目に見るだけで声をかけられる事は少なかった。

そんなある日の、伊豆スカイラインでの出来事である。
その頃自分の革ツナギのサイズが合わなくなっていたので、僕はすでにバイクから降りていたE尾(オートバイのある風景8ご参照)に借りたダイネーゼのツナギを着て走りに出掛けた。
E尾のツナギはミニバイクレース等での度重なる転倒でボロボロだったのだが、新車のドゥカティに歴戦の跡も生々しいレザースーツという組み合わせで、側から見たら僕は相当にヤバい(速い)奴に見えたのだと思う。

亀石のパーキングは当時、走りそうな奴が出ようとすると何台かが追っかけスタートして軽いバトルが始まるような雰囲気があったのだが、僕がエンジンをかけても誰もスタートしようとしないのである。

この時は可笑しくて笑ってしまったが、速い奴に絡まれる事なくマイペースで走る事が出来たのでこれはこれで良かった。
何しろ初期のモンスター、しかもフロントサスペンションがショーワ製のこの型はとてもヤンチャな車体で、ブレーキの入力や荷重が決まると胸のすくようなコーナーリングを見せる反面、操作をしくじると途端に変な動きをするという、峠道では非常に気を使うバイクだったのだ。

速そうなライダーと峠で競りたくないのは、実は僕の方だったのである。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?