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"隙"のある生活

「あなたは13時間パソコンの画面を見ています」

Macから突然こんなお知らせが届いた。正確な文章ではないが、大体の意味はこんなところだ。

そりゃあ目も悪くなるわな、と自分に呆れると同時に、この結果に驚かない自分もいた。

今僕はIT系の仕事をしている。資料作成や開発など、PCに触れる機会も多い。

加えて、家の家事も大抵PCを開きながら作業している。YouTubeでお笑い芸人のチャンネル動画を流しながら食器洗いをしたり、Prime Videoを流しながら洗濯物を畳んだり...といった具合だ。

僕は「ながら」作業をすることが多い。●●をしながら××する、というやつだ。それをする理由は「勿体ない」と感じてしまうからだ。食器洗いや台所掃除などは単純作業だ。単純作業をしている時の"間"を埋めて欲しいのだ。

しかし、この"間"を埋める作業は言い換えると外部からのインプットを常に受け続ける状態であり、それはすなわち考える時間が奪われているということに他ならない。

この考える時間が奪われるというのは恐ろしいことだ。考えるという行為は自分の心の中を整理整頓する行為だ。考えないということは、いつまで経っても自分自身の心の中は整理されない。散らかったままなのだ。いつの間にか自分の心がガラクタの山でいっぱいになったとしても、気づくことがないのだ。

そうなったときに起こるのは、思考停止だ。思考のかけらとかけらを紡いで新しい気づきを得ることもなく、ただいたずらに情報のシャワーを受け止めるだけの存在へと成り果ててしまうのだ。

そこまで考えた時、僕はゾッとする。僕は既にパソコンからの膨大な情報を思考停止しながら受け止めているだけの存在になっているのではないだろうか、と。元々「なんか時間が勿体ない」という動機で作業の合間に流し始めた動画や音楽の内容を一体どれだけ思い出せるだろうか。ドラマを観ながら家事をしていたはずなのに、そのドラマのあらすじはおろか、印象に残ったシーンすら思い出すことができないのだ。それはニュースを観ていても、バラエティを観ていても同様である。

僕に膨大なインプットを与えてくれていると思っていたパソコンはただの騒音を出す鉄の塊に成り下がってしまっており、僕はその騒音を聞いて安心感を得ているパブロフの犬だったのだ。

愚かな僕はここまで来て初めて、視覚や聴覚といった自分の感覚を全て埋めることが必ずしも効率的・効果的であるとは限らないという事実を思い知らされるのだ。実はこんな初歩的なことに気づくことになったきっかけも、ヘッドホンも何も身に付けず、目的もなく散歩をしていたときなのだ。

テトリスはブロックを隙間なく積んでいき、列が揃ったらそのブロック列を消すことができる。しかし、心に蓄積されていく情報や思念のかけらはただ隙間なく埋めただけでは消化されない。一度立ち止まって、積まれたブロックと向き合う時間が必要なのだ。

こうして僕がこの考えを記事にまとめているのも、心と向き合う時間を作るためだ。今までこういうことをする時には必ずヘッドフォンで音楽を聴きながら作業をしていたが、今は真摯に、ただ文章だけと向き合っている。なんだか胸の支えが取れたようにスラスラと文章が出てくるのだ。月並みな表現だが、心のコルクの栓が取れ、水がドバドバと出てきているように感じるのだ。

仕事のためではなく、知識アウトプットのためでもなく、ただ自分が考えたことを、自分が言いたいように書いたのは何年ぶりだろうか。昔は「自分の考えた文章を人様に晒すなんてナルシストみたいで恥ずかしい」という別の理由が邪魔をしていたが、それすらも気にならないくらいにとにかく頭の中のことを書きたい、という思いが勝っている。

定期的にこのnoteを使って自分自身の考えていることをアウトプットしていこう。もちろん、その時は"ながら作業"は一切禁止だ。

そして、今まで沢山の情報が詰まっていると思っていた鉄の塊と距離を取る時間を作ろう。今までの僕の視野は13インチの画面だった。でも、ちょっと目を閉じるだけで、13インチでは表現しきれない、もっと大事なことがすぐ目の前にあるんじゃないだろうか。

だから、"余白"を生み出すことを恐れていた僕とは決別しよう。世界は僕が思っているよりずっと広いのだから。人間の思考は僕が思っているよりずっと深いのだから。

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